駒子の備忘録

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『オレステイア』

2019年06月11日 | 観劇記/タイトルあ行
 新国立劇場、2019年6月7日18時。

 オレステス(生田斗真)の父アガメムノン(横田栄司)は戦争の勝利のために子殺しの神託を実行し、幼い娘イピゲネイア(趣里)は生贄として殺害された。そして凱旋の日、夫の帰りを盛大に迎えた妻クリュタイメストラ(神野三鈴)は自らの手で娘の仇である夫を殺す。トラウマのためにオレステスは混乱するが…
 原作/アイスキュロス、作/ロバート・アイク、翻訳/平野大作、演出/上村聡史。約2500年前に書かれたギリシア悲劇をイギリスの若い劇作家が蘇らせ、2015年にロンドンで初演したものの日本初演。全3幕。

 私はギリシア神話が好きで(天文オタクとどちらが先だったか覚えていません)こちらとかこちらとかを観ており、今回はキムがエレクトラを演じるというのでいそいそとチケットを取りました。アトレウス王朝にまつわるエピソードはもちろん知っていても、この作品そのものの流れとかオチとかを知らなかったので、四時間半の長丁場でしたが、おもしろく、集中して観ました。もちろん女医だの撮影クルーだのが出てくるところはアイク版オリジナルなのでしょうが、大筋は変わっていないようですね。ネタバレですが、要するに、オレステスは母殺しの罪で裁判にかけられ、しかし裁判官の票は同数で、裁判長の一票で無罪となり、しかしだからといって何が解決するわけでもない、というオチです。
 さらにネタバレしますが、この作品のエレクトラは、母殺しの自責の念から解離性障害に陥ったオレステスが形成した別人格である、とされています。この作品は記憶喪失になったオレステスが女医に促されて過去をたどる形を取っていますが、そうしたある種の回想というか過去再現場面でしばしばエレクトラが家族に「オレステス」と呼びかけられているんですね。役者の言い間違いにしては回数が多いし…と思っていたら、なんとそういうことになっていたのでした。
 だからこそのキムの起用だったのでしょうか? 小柄で妖精じみた趣里と違って、キムはさすが元男役トップスター、肩幅も広く剥き出しの腕の筋肉も凜々しく、胸もあるけれど身体の厚みもあって、こんなにガタイが良かったっけ?と驚くほどでした。でも顔はほっそりとしていて、もちろん美人。声もいいし演技もいいし、だから観ていて私はとても楽しかったんですけれど、でもオレステスの影というか妄想の産物みたいに扱われ出すと「なんだとぉ!?」と思ってしまい…でもキムのエレクトラがオレステスとなって、つまり男装して、というのもヘンなんだけれど、黒いスーツに黒いインナーでナイフ振り回して立ち回りするにいたっては「ルキーニ!?」(ミズの『エリザ』は生では観られていないのですが)となりましたよ。こういう身体性ゆえの起用だったのかな、とか、そのどんぴしゃっぷりよ…!と震えました。
 さらにそのキムが裁判長となるアテナをも二役で演じる、というのが素晴らしいですね。この作品はアガメムノンとアイギストス、イピゲネイアとカッサンドラを二役で演じさせるというすごいことをやっていて、でもその二役を同じ役者が演じることにはとてつもない意味があるんですよね。皮肉も効いていて、決して少ない役者で芝居を回すためとか、役者の出番を増やすため、とかではないの(話が飛びますが雪組『壬生義士伝』で私が唯一…とまでは言わないまでも最も評価するのが、しづとみよの二役をきぃちゃんにやらせたこと、かもしれません)。素晴らしい! そしてエレクトラとアテナの二役というのは他のふたつの二役とはちょっと位相が違っていて、そこもとてもいいと思いました。つまりキムはちゃんと尊重されていると感じたので、この配役目当てで来た私は報われた気がしたのでした。
 それを除けば逆に、このオレステスの物語は、ちょっと「だからなんじゃい」という気がしたというか、結局のところ神も神話も男が語るものだし戦争するのも男だし、現代の若い劇作家が再構築ったって結局それも男だしな…という気が、私は、しました。
 神話にケチつけても仕方がないんだけれど、なんでこの話ってクリュタイメストラ(ところで私にとっては彼女の名前は「クリュタイムネストラ」がデフォルトです)の夫殺しで終わってないんですかね? 男が勝利のために自分の子供を、しかも娘を犠牲にする、ってのはあるあるだと思うし、それに対してその男の妻にしてその子供の母親が復讐する、ってのはそれでひとつのターンじゃないですか。それでももちろんイピゲネイアの命は戻らないわけですが。
 なのにそこに、父親を好きだったエレクトラが父の仇討ちとして母を殺す、しかも弟を利用して…と話が続くのがよくわからないんですよ。エレクトラは姉イピゲネイアのことをどう考えていたのでしょう? 彼女をかわいそうに思い、殺されていたのが自分だったかもしれないと思ったら、父親のことなんか愛せないし母親のしたことをよくやったと思いこそすれ恨みに思ったり復讐しようとしたりしないものなんじゃないですかね? エレクトラ・コンプレックスってもちろんここから来た言葉だけれど、それって男の妄想、というか願望なんじゃないの? 男って女に愛されて当然と思っている節があるからなあ…
 だからエレクトラとオレステスのクリュタイメストラ殺しって余計で、そうなるともうなんのための殺人なのかよくわからなくなってきちゃっているので、そりゃ正しい裁きなんか下されないよな、って気がしちゃうのです。復讐による殺人は是か非か、みたいな話とはちょっとズレてる気がするんですよね。
 エレクトラも死んでオレステスには身内がいなくなり、そうなると復讐のために自分を殺してくれる者もいなくなるわけで、オレステスは自分の命で自分の罪を贖うこともできず、取り残されて終わる。そもそもそういうオチの、というかオチのない物語なので、そりゃ「なんだかなあ…」ってなるよなあ、と思うのです。なんかもう、新たな解釈を施して納得できる形にするとか、そういうことは無理なネタなんですね。
 もちろん、ある種の人間味をこの物語に感じないことはないんだけれど、それってやっぱり男の男による男のための世界の見方なんじゃないのかなあ…とか、思ってしまったり、しました。
 でも、そういういろいろなことを考えさせてくれた、という意味で、やはりおもしろい戯曲、舞台だったと思いました。



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