駒子の備忘録

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モダンスイマーズ『雨とベンツと国道と私』

2024年06月30日 | 観劇記/タイトルあ行
 東京芸術劇場シアターイースト、2024年6月26日19時。

 コロナの影響で心身ともに病んでいた五味栞(山中志歩)は、知人の才谷敦子(小林さやか)の提案で、彼女の自主映画製作を手伝うため群馬へと誘われる。そこには、かつて五味が参加していた撮影現場で罵声や怒号を日常的に役者やスタッフに放っていた監督・坂根真一(小椋毅)の姿があった。しかし彼は名前を変え、別人のように温厚な振る舞いで監督をしていて…
 作・演出/蓬莱竜太。劇団結成25周年の新作、全1幕。

 前作『だからビリーは東京で』は観ていて、すごくよかったので今回も気になっていたのですが、仕事が忙しくて見送ろうかな…と日和っていたところ、友達にすごくよかった!と勧められたので急遽駆け込んできました。口コミで後半日程は完売したそうですね、良きことです。
 真ん中に背もたれのない椅子が置かれているだけの、ほぼ何もない舞台。よく見ると両脇に椅子の列があって、その後出てきた役者たちは、舞台中央で芝居をしていないときはそこに座っていたり、次の場面に出るために着替えをしたり小道具の準備をしたりします。真ん中の空間にはときどき机が出る他はほぼ物が増えないのですが、照明などの効果もあって、ほぼ自在に撮影現場や映画館や車内になるのでした。演劇の魔法がまさしくそこにありました。
 冒頭、栞が出てきて、ややたどたどしい口調で「私の話をします」みたいなことを語り始めます。彼女は本当に栞そのものにしか見えないのだけれど、きっと中の女優さんの素顔はもっと全然違うんだろうな、とか思いました。なんというか、それくらい、怖いくらい、みんなそれっぽかったのです。これは前回の観劇でも感じたことですが…役者はまさしく千の顔を持つ。ここにも演劇の魔法があるのでした。
 さて、なので栞が語り始め、壁に彼女の名前が大写しになるので、彼女が物語の主人公なのであり、タイトルの「私」というのは彼女のことなのかな、と思わせられます。しかしその後、彼女に手伝いを頼んだ敦子もまた彼女の話を語り始めて、彼女の名前も壁に出ますし、その映画の監督をしている坂根の名前も壁に出ます。彼は貰い物のベンツに乗っていました。敦子はかつて、夫とともに国道を散歩していました。栞は雨の中、確かに初恋を感じていました。「雨とベンツと国道」とはこの三人を指しているのであり、では「私」はといえば、つまりは観客ひとりひとりのことなのでしょう。みんな、何かを失ったり、何かに傷ついたりしながら、今なお続くコロナ渦中の現在を生きている人間だからです。これは私たちの物語なのでした。
 私はおそらく未だにコロナに罹患したことがなく、なんとか心身ともに健康でいられて、栞のような創作現場にいたこともあり、似たようなパワハラ、セクハラに遭ったり目撃したりしてきたけれど、彼女のようにここまでひどく追いつめられたことは幸いにしてありません。芝居を観ていて、坂根監督の言う極端な二元論に私は脳内で反論できます。「真剣だからこそちょっとくらいキツいことを言われても耐えてがんばっていいものを作る方がいいのか、みんなで仲良く気を遣い合って優しくぬるま湯に浸かって中途半端なものしか作れない方がいいのか」みたいな、しょうもない二択です。私はその二択の立て方自体が間違っている、と言えます。みんなが健康で安全で安心して打ち込めて、それでいいものができる、という道が必ずある、と言えます。というかあることを知っている、信じている、と言ってもいい。
 でもそういう経験や信念がないと、あるいは経験がなくても信念や理想を信じられるようなある種の図太さがないと、生真面目に受け止めすぎて追い込まれてしまう人がいる…というのも、すごくわかります。配られたブログラムには「一部、恫喝や暴力の表現があります」とごく小さくアナウンスされていますが、観ていてダメな人はこれは全然ダメでしょう、とヒヤヒヤしました。抽象化され様式化されていたけれど、それでもリアルでシビアで、トラウマが蘇っちゃう人は多いんじゃないかな、と思ったのです。別に撮影現場でなくても、どこでもこうしたことは蔓延している、それこそコロナ以上に…と改めて思わされました。誰もが身に覚えがある、そういう意味でもまごうかたなき現代劇です。
 こうしたハラスメントの顕在化とか、コンプライアンス遵守の徹底が叫ばれ出したのは、たまたまコロナ禍と軌を一にしていただけであって、感染症との直接の関係性はないのでしょう。ただ、栞はコロナに感染したこともあって、心身ともにダウンしてしまった…
 栞に対しての坂根、が置かれているだけでなく、彼らとは直接関係がないような、あるいは彼らと三角形を描くようにやや離れて、敦子の物語が置かれているのがまたとても深いですよね。彼女はコロナで夫(古山憲太郎)を亡くしました。喘息の既往症があったものの、基本的には健康な壮年の男性が、あっという間に感染して、家族の見舞いも受けられずにあっけなく死んだのです。忘れていたけれど、今でも目を背けがちだけれど、コロナってそういう病気です。報道されていないだけで、今でも人はバンバン死んでいます。田舎暮らしを始めたり、野菜作りを始めたり、子供を持つか真剣に悩んだり、人生のプランがいろいろあった敦子は、配偶者の突然の死というある種の運命の暴力によって、立ち止まらせられ、呆然とさせられ、それで再出発のために自主映画の製作を始めたのでした。それで坂根に監督を依頼し、手伝いに栞を呼んだ…
 私は映画にはくわしくないけれど、映画は監督のものだ、とはよく言われますよね。でも物語の根幹は脚本にあるだろう、ということもよくわかります。しょーもない脚本はどうやっても素敵には撮れない。敦子は素人です。けれど夫の物語を書かないではいられなかった。再出発したかった坂根は名前を変えてでも、しょーもない脚本でも、もう一度映画が作りたかった。でも…やはりカタストロフは訪れてしまうのでした。
 前作で役者としてデビュー?した凛太郎(名村辰)が、ほぼ演技の経験のがないようながらも敦子の夫を演じる役者として登場しているところが、ミソです。そして彼は暴言や暴力というものにほぼ絶対的に否定的な人間でした。演技はアレでも良識はちゃんとしているのです。もちろん彼には彼の物語があるのだけれど、今回はそこはピックアップされていません。
 同様に助監督の山口(津村知与支)にも彼の物語があって、彼が圭(生越千晴)に好かれていると思い込むところとか、ホント男子あるあるで笑っちゃったんですけれど、彼だって栞と同じくらいトラウマになっていいくらいに坂根に痛めつけられているはずなのに、彼は呼ばれたらまた行っちゃうんですよね…でも暴言の録音はしている。このホモソーシャルの害悪、マジでヤバい…そういうこともあぶり出される物語です。
 ユーモアは確かにある舞台で、客席からもよく笑いが沸いていましたが、それはパワハラやセクハラを容認しての笑いではなかったと私は感じました。だから私は嫌な感じは受けませんでした。問題がちゃんとわかっていて、でもこういうしょーもなさってホントある、とついしょーもなく笑っちゃう感じで沸いた笑いに思えました。でもこのあたりは、もしかしたら回によって、観客によって違ったかもしれませんね。そこは笑っていいところではない!ってところで無神経な観客から無邪気な笑いが起きて、別の観客の繊細なハートが傷つくような回もあったのかもしれません。
 ゴールも、解決策も、正解もない作品だったと思います。ラストの栞の叫びは、確かに当人が言うとおり、ハラスメントの一種だったのかもしれません。真剣なら許される、とか正しければ許される、ということはない。怒号はそれだけで暴力であり犯罪です。でも、栞の意図が、真意が、真剣さが、誠実さが、欲していることが、求めていることが凛太郎に伝わっているなら、彼は特に傷つくことなく、とりあえず素直に走り出せて、もしかしていい絵が撮れているのかもしれません。脚本がしょうもなくても、映画としては駄作でも、敦子はそれで救われるのかもしれません。坂根は今度こそ少しだけ変われて、再出発できるのかもしれません。凛太郎は役者として一歩前進できるのかもしれません。山口はどうだろう…そして圭は、今はどこかで元気になっていて、幸せに暮らしてくれているといいな、と祈らないではいられません。でもみんなが回復し乗り越え元気で幸福でいられている、なんてそれこそ幻想なのでしょう。だから彼女のその後の姿はこの物語には出てこない。そういうほの暗さもある舞台でした。まさしく現代劇、だと思いました。
 人は何故物語るのでしょう。物語を必要とし、創作しないではいられないのでしょう。物語ることでしか得られないものとはなんなのでしょう。大事なのは、命であり、その生き様、人生です。物語の、創作の力を借りて、それが少しでも明るく輝くとか、楽になるとか、幸福に近づけるとかがあると、いいんだろうな、など考えました。「人は本当に変われるのか」、進化し、前進し、滅亡から逃れられることができるのか…そういうことを考え続けていこうとする、舞台だったように思いました。










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