シアターイースト、2022年12月4日18時。
仲ミチル(キムラ緑子)はある都立高校の音楽教師。売れないシャンソン歌手からカタギへの転身を果たしたばかりで、この仕事をなんとしてでもキープしたいという強い決意でいる。今日はミチルが初めて迎える卒業式。ピアノが大の苦手なのに国歌や校歌の伴奏を命じられたため、早朝から音楽室でピアノの稽古だ。だが緊張のせいかコンタクトレンズを片方落としてしまう。校長の与田(相島一之)はミチルを気遣いながらも、「君が代」をちゃんと弾かせることに異様なこだわりを見せる。ミチルは仲の良い社会科教師の拝島(山中崇)から眼鏡を借りて事態の打開を図ろうとする。しかし養護教諭の按部(うらじぬの)から、拝島が「ゴチゴチの左翼」と聞かされて…
作・演出/永井愛、美術/大田創。2005年初演、08年に再演された作品の14年ぶりの上演。高校の保健室を舞台に、卒業式での国歌斉唱をめぐる教師たちの攻防を描き、大きな反響を呼んだ「笑える悲劇」。全1幕。
持っていたチケットがコロナによる中止で一度飛んだのですが、無事に振り替えていただき、出かけてきました。
オーバーにパースがついた保健室と屋上のセットが、すでに不穏で怖かったです。置かれた小道具とかとズレてるんだもん、その歪みがもう怖い。そんなわけで「笑える悲劇」というよりは「笑えるホラー」というくらいに、笑えるけどとにかく怖い舞台でした。
怖いのは、これが再演当時の2008年に設定されている物語であることで、つまり今にアップデートしちゃうともう成立しない舞台なんだってことです。かつてこんなことがあったということが今はもう忘れ去られつつあるから、なかったことにされつつあるから。2019年に最高裁で、不起立への減給処分が取り消されたにもかかわらず。今年2月、ILO/ユネスコが日本政府に国歌斉唱強制の件で再度勧告しているにもかかわらず。私ももちろんこれらを知らず、プログラムから引き写しているだけではあるのですが。それに関しては忸怩たる思いがあります。もっと関心を持っているべきでした。
でも国旗、国歌に関していろいろな騒動があったことはある程度は知っているつもりですし、私もなんのコンサートか競技だったかな、起立を求められたことがあったときに立たなかったことがありました。そのときはわりとそもそもそのアナウンスを聞いていない人も多いくらいの雑然とした雰囲気で、座ったままでも悪目立ちするとか周りから非国民と罵られるとかは全然なかったわけですが、私はそのとき国旗や国歌に思うところがあるというよりはその場にはふさわしくない持ち出され方だった気がして(とはいえなんの場だったかよく覚えていないのですが…)、それが承服しかねる気がして立たなかったのですが…ともあれそれこそ学校の式典とかでもないと、国旗掲揚や国歌斉唱に立ち会うことって普段の暮らしで意外とないのではないかと思います。つまり普通の人は日常的にあまり考えないですませてしまいがちな問題だということです。でも、突き詰めるとこの作品が描くようにいろいろな面で問題がある問題なわけです。プログラムの内田樹の寄稿はとてもわかりやかく、また共感できるものでした。
校長先生は「国歌を歌わせたい男」だけれど、拝島先生だって「シャンソンを歌わせたい男」であって、人に何かを強制、強要しようとする、まして歌のようなまず喜びや愛から歌われるべきであるものを…という点で、同じと言えば同じなわけです。ではミチルは女性だから、女がいつも強制される側で被害者かというとそれも怪しくて、校長におもねっているように見える片桐(大窪人衛)先生とのらくら傍観者ぶっている按部先生って実はけっこう裏表なんじゃないかと私は感じて、それがいかにもな男女差だなーと思ったりもしたのです。特に意見は表明せず、うまく逃げていなしているような按部先生の処世術はすごく女っぽくて、こういう人は男に生まれていれば逆に片桐先生のようにゴリゴリに活動していたんじゃないかな、と思ったのでした。
そういう意味では校長と拝島先生の論争を観ていて私はちょっとエモさを感じてしまって、なんかちょっとBLっていうか古のやおいの香りがあるよな、とかあらぬことを脳の端っこで感じてしまったんですよね。それはお互い真剣で、でも対立していて、でも相手のことを心底嫌ったり憎んだりはしていなくて、自分のためにも相手のためにも説得しようと言葉を尽くす、その対等な感じと真剣さの構図が、実にエモーショナルで、よくできたBLの構造に似て見えたからです。結局このふたりの論争はホモソーシャルな関係でのものにすぎないのではないか、異性とは違う形の議論になるのではないか、とは思うし、それは校長も拝島先生もミチルに対して違う論じ方をしているのでよくわかりますよね。
そういう、権力勾配とか性差別なんかの構図も見える、本当に怖ろしい舞台だったと思いました。要するに根っこは同じで、他者への尊厳が損なわれている、基本的人権が尊重されていない、という恐怖です。単に校長と拝島先生のどっちが正しいか、というだけでは終わらないのです。だってかつては校長も内心の自由に関して生徒たちに抗議していたくらいなんですから。それが今や、お笑いにしかならないズレたスピーチしかできない人になってしまっているんですから。その根っこにあるのは人権に対する無理解でしょう。怖い、悲しい、恐ろしい。
でもミチルが芸術に生きていて高尚かと言えばそんなことはないわけで、でも彼女がこの職にしがみつこうとし国歌に関して深いことを考える暇がないのは彼女が女性だからで、女がひとりで普通に働いても普通には食べられないという残念な現実があるからです。それはミチルのせいではない、彼女の自己責任では絶対にない。もちろん歌手としての才能が云々という次元の問題でもないのです。国民をそんな状態に置いている国家のために誰が国歌なんか歌うかよ、と観ていて私は思います。本当は素直に国を愛したいのに、気持ちよく国歌を歌いたいのに、国がそれに足るものであってくれないのです。
ミチルが歌うのは「聞かせてよ、愛の言葉を」。愛の言葉だけ聞いていたい、話していたい。それが人というものです。でもそうもいかないのもまた人の世なのでした。なかば呆然と、ひとり口ずさむように歌うミチルと、絞られていくスポットライトのせつなさに、私は泣きました。怖かった、悲しかった、哀れだった、でもどうしたらいいというのだろう、私たちはこれからどうすべきなのだろう…
そんなことを、考えさせられました。
仲ミチル(キムラ緑子)はある都立高校の音楽教師。売れないシャンソン歌手からカタギへの転身を果たしたばかりで、この仕事をなんとしてでもキープしたいという強い決意でいる。今日はミチルが初めて迎える卒業式。ピアノが大の苦手なのに国歌や校歌の伴奏を命じられたため、早朝から音楽室でピアノの稽古だ。だが緊張のせいかコンタクトレンズを片方落としてしまう。校長の与田(相島一之)はミチルを気遣いながらも、「君が代」をちゃんと弾かせることに異様なこだわりを見せる。ミチルは仲の良い社会科教師の拝島(山中崇)から眼鏡を借りて事態の打開を図ろうとする。しかし養護教諭の按部(うらじぬの)から、拝島が「ゴチゴチの左翼」と聞かされて…
作・演出/永井愛、美術/大田創。2005年初演、08年に再演された作品の14年ぶりの上演。高校の保健室を舞台に、卒業式での国歌斉唱をめぐる教師たちの攻防を描き、大きな反響を呼んだ「笑える悲劇」。全1幕。
持っていたチケットがコロナによる中止で一度飛んだのですが、無事に振り替えていただき、出かけてきました。
オーバーにパースがついた保健室と屋上のセットが、すでに不穏で怖かったです。置かれた小道具とかとズレてるんだもん、その歪みがもう怖い。そんなわけで「笑える悲劇」というよりは「笑えるホラー」というくらいに、笑えるけどとにかく怖い舞台でした。
怖いのは、これが再演当時の2008年に設定されている物語であることで、つまり今にアップデートしちゃうともう成立しない舞台なんだってことです。かつてこんなことがあったということが今はもう忘れ去られつつあるから、なかったことにされつつあるから。2019年に最高裁で、不起立への減給処分が取り消されたにもかかわらず。今年2月、ILO/ユネスコが日本政府に国歌斉唱強制の件で再度勧告しているにもかかわらず。私ももちろんこれらを知らず、プログラムから引き写しているだけではあるのですが。それに関しては忸怩たる思いがあります。もっと関心を持っているべきでした。
でも国旗、国歌に関していろいろな騒動があったことはある程度は知っているつもりですし、私もなんのコンサートか競技だったかな、起立を求められたことがあったときに立たなかったことがありました。そのときはわりとそもそもそのアナウンスを聞いていない人も多いくらいの雑然とした雰囲気で、座ったままでも悪目立ちするとか周りから非国民と罵られるとかは全然なかったわけですが、私はそのとき国旗や国歌に思うところがあるというよりはその場にはふさわしくない持ち出され方だった気がして(とはいえなんの場だったかよく覚えていないのですが…)、それが承服しかねる気がして立たなかったのですが…ともあれそれこそ学校の式典とかでもないと、国旗掲揚や国歌斉唱に立ち会うことって普段の暮らしで意外とないのではないかと思います。つまり普通の人は日常的にあまり考えないですませてしまいがちな問題だということです。でも、突き詰めるとこの作品が描くようにいろいろな面で問題がある問題なわけです。プログラムの内田樹の寄稿はとてもわかりやかく、また共感できるものでした。
校長先生は「国歌を歌わせたい男」だけれど、拝島先生だって「シャンソンを歌わせたい男」であって、人に何かを強制、強要しようとする、まして歌のようなまず喜びや愛から歌われるべきであるものを…という点で、同じと言えば同じなわけです。ではミチルは女性だから、女がいつも強制される側で被害者かというとそれも怪しくて、校長におもねっているように見える片桐(大窪人衛)先生とのらくら傍観者ぶっている按部先生って実はけっこう裏表なんじゃないかと私は感じて、それがいかにもな男女差だなーと思ったりもしたのです。特に意見は表明せず、うまく逃げていなしているような按部先生の処世術はすごく女っぽくて、こういう人は男に生まれていれば逆に片桐先生のようにゴリゴリに活動していたんじゃないかな、と思ったのでした。
そういう意味では校長と拝島先生の論争を観ていて私はちょっとエモさを感じてしまって、なんかちょっとBLっていうか古のやおいの香りがあるよな、とかあらぬことを脳の端っこで感じてしまったんですよね。それはお互い真剣で、でも対立していて、でも相手のことを心底嫌ったり憎んだりはしていなくて、自分のためにも相手のためにも説得しようと言葉を尽くす、その対等な感じと真剣さの構図が、実にエモーショナルで、よくできたBLの構造に似て見えたからです。結局このふたりの論争はホモソーシャルな関係でのものにすぎないのではないか、異性とは違う形の議論になるのではないか、とは思うし、それは校長も拝島先生もミチルに対して違う論じ方をしているのでよくわかりますよね。
そういう、権力勾配とか性差別なんかの構図も見える、本当に怖ろしい舞台だったと思いました。要するに根っこは同じで、他者への尊厳が損なわれている、基本的人権が尊重されていない、という恐怖です。単に校長と拝島先生のどっちが正しいか、というだけでは終わらないのです。だってかつては校長も内心の自由に関して生徒たちに抗議していたくらいなんですから。それが今や、お笑いにしかならないズレたスピーチしかできない人になってしまっているんですから。その根っこにあるのは人権に対する無理解でしょう。怖い、悲しい、恐ろしい。
でもミチルが芸術に生きていて高尚かと言えばそんなことはないわけで、でも彼女がこの職にしがみつこうとし国歌に関して深いことを考える暇がないのは彼女が女性だからで、女がひとりで普通に働いても普通には食べられないという残念な現実があるからです。それはミチルのせいではない、彼女の自己責任では絶対にない。もちろん歌手としての才能が云々という次元の問題でもないのです。国民をそんな状態に置いている国家のために誰が国歌なんか歌うかよ、と観ていて私は思います。本当は素直に国を愛したいのに、気持ちよく国歌を歌いたいのに、国がそれに足るものであってくれないのです。
ミチルが歌うのは「聞かせてよ、愛の言葉を」。愛の言葉だけ聞いていたい、話していたい。それが人というものです。でもそうもいかないのもまた人の世なのでした。なかば呆然と、ひとり口ずさむように歌うミチルと、絞られていくスポットライトのせつなさに、私は泣きました。怖かった、悲しかった、哀れだった、でもどうしたらいいというのだろう、私たちはこれからどうすべきなのだろう…
そんなことを、考えさせられました。