シアターブラッツ、2022年12月15日19時。
奥様(月船さらら)の部屋で「奥様と女中ごっこ」にふける女中の姉妹、妹クレール(黒河内りく)と姉のソランジュ(円地晶子)。その遊びはやがて、旦那様の逮捕、奥様殺害計画へと向かい…
作/ジャン・ジュネ、演出/石川大輔。1947年パリ初演の三人芝居、全1幕。
タイトルは聞いたことがある舞台で、さららんが出るというのでいそいそとチケットを手配して出かけてみました。
駅から遠かろうがハコが小さかろうがそれはいいんだけど、せっかく前方席が取れても床が平らで男性客が多くて舞台が見づらくて閉口しました…下手に置かれたドレッサーがまるっと見えないんだもん、当然そこでの芝居は全然見えないワケで…逆サイからなら上手のベッドがまるっと見えなかったことでしょう。こういうの、ホントどうにかしていただきたいです。何を見せる場所だと思っているのか…
まあ、寝ていてうつむいている客が多くてその分は多少視界が開けたのはよかったんですけどね!
さて、プログラムによればこれも不条理演劇の範疇の作品なんですか? 最近不条理づいてるな…うん、確かにワケわかりませんでした。
いや、話はわかりますよ?
わかりやすいのはさららんの奥様で、もともとちょっとエキセントリックな人なんだろうし今は夫の収監にパニックになっていてハイになってもいて、こりゃ口ではどんなにいいこと言ってても仕えるのは大変そうな相手だな、ってのが手に取るようにわかる芝居、人物像なワケです。だから口では雇い主に感謝してるのなんのと言いつつも、女中たちには実は鬱屈がたまっていて、主人の留守には勝手に部屋を使ったり服を着たり宝石をつけたりしちゃうし、ワガママな奥様ごっこもしちゃう、というのもわかる。そしてそのうち旦那様の罪を告発する匿名の手紙も書いちゃうし、奥様の薬に大量の睡眠薬も混ぜちゃうってのも、まあわかるワケです。持たざる者の悲劇というかなんというか、ね。
でも、それがこの演目になる意味が私には観ていてよくわからなかったのでした。どうしてあんな過剰な、そして謎に詩的な台詞になるのか。それが何を表しているのか。現代日本で上演されることでなんの意味を持つのか。何を表現したくてこの演劇は今ここで上演されているのか…正直よくわかりませんでした。
実存に対する不安とか? 階級や差別やそうしたものを容認する社会への反抗とか? なんかそういうことなんでしょうけれど…泥棒詩人とも言われた作者の生き様や思想からすると、ね。でもそれが今回上演された舞台から感じ取れたかというと…うーんどうだろう? それで、別に観ていておもしろくなかったわけではないんだけれど、オチがきても「で、だから?」と私はちょっとなってしまったんですよね…役者は熱演していたと思うので、あとセットがとても素敵で(美術/平山正太郎)照明も良くて(照明/南雲舞子)好印象で、なので演出とか、脚本の解釈や伝え方の問題なのかな、とも思うのですが…うーんどうなんでしょう? 私に感受性や教養が足りないというだけのことだったらすみません。
プログラム含めて、宣伝写真がとても素敵だったのも印象的でした。
奥様のお衣装(衣裳/藤崎コウイチ)は舞台と同じで、茶と黒のレーシーなドレスにお揃いみたいなストッキングと靴。女中たちは舞台ではいわゆるメイド服のやや簡素なヤツ、お仕着せの黒ワンピに白エプロンみたいな服装でしたが、プログラムでは白いドレスで姉妹それぞれ違っていて、それがキャラクターの違いを表現していてとても素敵。ポスターもとても素敵でした。
だからなんか、こういうことを伝えたい、こういう作品なのである、という確固たるものは何かしらあったんだろうと思うんだけれど、私はそれを舞台から感じ取れなかったので、総合的にはやや退屈してしまった、という観劇だったのでした。
まあ、そういうこともたまにはあるやね。また違う座組で上演があれば、しつこく行ってみるのもおもしろいのかもな、とは思いました。
さららんはあいかわらずからりと背が高く麗しく、女中たちと並ぶと本当にエレガントでハンサムウーマンな上流階級の女性、って感じで素晴らしかったです。
奥様(月船さらら)の部屋で「奥様と女中ごっこ」にふける女中の姉妹、妹クレール(黒河内りく)と姉のソランジュ(円地晶子)。その遊びはやがて、旦那様の逮捕、奥様殺害計画へと向かい…
作/ジャン・ジュネ、演出/石川大輔。1947年パリ初演の三人芝居、全1幕。
タイトルは聞いたことがある舞台で、さららんが出るというのでいそいそとチケットを手配して出かけてみました。
駅から遠かろうがハコが小さかろうがそれはいいんだけど、せっかく前方席が取れても床が平らで男性客が多くて舞台が見づらくて閉口しました…下手に置かれたドレッサーがまるっと見えないんだもん、当然そこでの芝居は全然見えないワケで…逆サイからなら上手のベッドがまるっと見えなかったことでしょう。こういうの、ホントどうにかしていただきたいです。何を見せる場所だと思っているのか…
まあ、寝ていてうつむいている客が多くてその分は多少視界が開けたのはよかったんですけどね!
さて、プログラムによればこれも不条理演劇の範疇の作品なんですか? 最近不条理づいてるな…うん、確かにワケわかりませんでした。
いや、話はわかりますよ?
わかりやすいのはさららんの奥様で、もともとちょっとエキセントリックな人なんだろうし今は夫の収監にパニックになっていてハイになってもいて、こりゃ口ではどんなにいいこと言ってても仕えるのは大変そうな相手だな、ってのが手に取るようにわかる芝居、人物像なワケです。だから口では雇い主に感謝してるのなんのと言いつつも、女中たちには実は鬱屈がたまっていて、主人の留守には勝手に部屋を使ったり服を着たり宝石をつけたりしちゃうし、ワガママな奥様ごっこもしちゃう、というのもわかる。そしてそのうち旦那様の罪を告発する匿名の手紙も書いちゃうし、奥様の薬に大量の睡眠薬も混ぜちゃうってのも、まあわかるワケです。持たざる者の悲劇というかなんというか、ね。
でも、それがこの演目になる意味が私には観ていてよくわからなかったのでした。どうしてあんな過剰な、そして謎に詩的な台詞になるのか。それが何を表しているのか。現代日本で上演されることでなんの意味を持つのか。何を表現したくてこの演劇は今ここで上演されているのか…正直よくわかりませんでした。
実存に対する不安とか? 階級や差別やそうしたものを容認する社会への反抗とか? なんかそういうことなんでしょうけれど…泥棒詩人とも言われた作者の生き様や思想からすると、ね。でもそれが今回上演された舞台から感じ取れたかというと…うーんどうだろう? それで、別に観ていておもしろくなかったわけではないんだけれど、オチがきても「で、だから?」と私はちょっとなってしまったんですよね…役者は熱演していたと思うので、あとセットがとても素敵で(美術/平山正太郎)照明も良くて(照明/南雲舞子)好印象で、なので演出とか、脚本の解釈や伝え方の問題なのかな、とも思うのですが…うーんどうなんでしょう? 私に感受性や教養が足りないというだけのことだったらすみません。
プログラム含めて、宣伝写真がとても素敵だったのも印象的でした。
奥様のお衣装(衣裳/藤崎コウイチ)は舞台と同じで、茶と黒のレーシーなドレスにお揃いみたいなストッキングと靴。女中たちは舞台ではいわゆるメイド服のやや簡素なヤツ、お仕着せの黒ワンピに白エプロンみたいな服装でしたが、プログラムでは白いドレスで姉妹それぞれ違っていて、それがキャラクターの違いを表現していてとても素敵。ポスターもとても素敵でした。
だからなんか、こういうことを伝えたい、こういう作品なのである、という確固たるものは何かしらあったんだろうと思うんだけれど、私はそれを舞台から感じ取れなかったので、総合的にはやや退屈してしまった、という観劇だったのでした。
まあ、そういうこともたまにはあるやね。また違う座組で上演があれば、しつこく行ってみるのもおもしろいのかもな、とは思いました。
さららんはあいかわらずからりと背が高く麗しく、女中たちと並ぶと本当にエレガントでハンサムウーマンな上流階級の女性、って感じで素晴らしかったです。