宝塚歌劇宙組『FLYING SAPA』梅田芸術劇場公演初日、8月1日15時と2日11時半の回を観てきました。
チケットを手配したときには、こんな東京から行くのホントごめんなさい、感染拡大対策として万全の支度をしていくつもりですが「来るなよ」というご意見もあることでしょう、すみませんそっと行かせていただきますね…とか思っていたものでしたが、もはや大阪に行くのもまあまあ怖いよね、みたいな状況になってきていて、ホント予断を許さない事態が日々刻々と移り変わる、恐ろしい日常となりました。
久々に赴いた東京駅も、私が大好きなグランスタもガラガラで、のぞみの車内も夏休みらしき家族連れなどちょっとはいましたが基本的にはガラガラ、新大阪駅もガラガラなら梅田の人出もいつもより全然少ない、寒々しい光景に心が折れかけました。イヤ、みんな補償もないのに不要不急の外出を控えていて、自粛していて偉い、という話なんですけれどね。
それでも、別箱版をすでに観ている花組大劇場公演『はいからさんが通る』や大劇場公演を観ている星組東京公演『眩耀の谷/Ray』と違って、やはり完全新作の今回、かつくーみんのSF、初日から観ないでなんとする…!という意気込みで、出かけてしまいました。
以下、完全ネタバレで語ります。ご覧になる予定のある方は、ご覧になったあと読んでいただければと思います。ご覧になった方、あるいはたとえばスカステ放送とかまで全然ご覧になる予定のない方、あとは観劇前でもなんでも情報を仕入れておきたい方のみお読みいただければと思います。あ、でも例によって、観てないとわかりづらい文になっているかと思います。
ちなみに私自身はわりとノー情報に近い形で行って、とてもおもしろく観たので、ご覧になる方はまずはまっさらで、と個人的にはオススメしたいです。
別に特に難しい話ではない…と思います。ただ、置いて行かれる人はいるかなー、とも思います。残念ながら、寝ている方はいましたね…
ぶっちゃけ、SFとしてはめっちゃよくある話だな、と思いました。
現在の人類が、人種差別とか民族紛争とか経済格差による衝突とかなんとかでとにかく争い合うばかりで戦争もなくせないのって、要するにそういう、言語とか文化とか風習とか人種とか国とかいったいろいろな違いがあるからで、人々はそれを越えて理解し合い愛し合い共存することなんて絶対にできないのだから、もう全部統一して均質化して差異は全部排除して、すべて一元管理しコントロールすれば、人は暴力的にもならないし、平和で幸せに暮らしていけるのだ…と思いついちゃった政治家なりマッドサイエンティストなりがいて、一方でそんなふうに人間を管理し矯正し制御し統制するなんて冒涜だ、多様性の中にこそ豊かな愛も希望も花咲くのだ、たとえ理解し合えず争いがなくなることがないのだとしてもそれを目指す希望は捨ててはならないのだ、人間は自由でなければならないのだ、自由だからこそ人なのだ…と考えるごく普通の人々もいて、対立が起きる、という話です。たとえば、『風の谷のナウシカ』なんかもそういう話です(漫画版の方のことです)。管理か自由か、独裁か民主主義か、というのは文学や政治の古典的テーマでもあり、非常に今日的なものでもあります。
ブコビッチは自分の栄耀栄華のためにこうした楽園を夢見た腐敗した権力者などではなく、彼はあくまで人種差別の、また戦争の被害者であり、真に平和を望んだからこそこうした措置を取ったので、悪人ということではないのでしょう。理解し合えないのが寂しいから、ひとつになろうとしたのです。でも、それはやはり間違っていたと言っていいでしょう。
普通の状態ならこんな「楽園」は現出させられないものですが、太陽の活動が弱まって地球が冷え、人間の生活に適さなくなり、戦争が行き着くところまで行き着いて、ごくわずかな人数だけが脱出して水星で暮らし始めた際に、水星で生命活動が維持できるデバイスをすべての人間に装着させるのと同時に、そのデバイスで各人の精神活動を管理し制御できるようにしたことで、彼の考える均一な、統制された、対立や争いのない、そしてまた争いの元となる文化もない「楽園」は創造されたのでした。
戦前の彼がどんな暮らしをしていて、またどんな研究をしていたのかは特に描かれていませんが、家庭では娘たちを愛するごく普通の、良き父親だったのでしょう。ニーナ/ミレナに対しても、よかれと思って彼女の記憶を消し去り、自分の娘としてともに難民船に乗ったのでしょう。でも、私はそこで爆泣きしました。
あのとき、ニーナはレイプされていたのだと思います。彼女がのちにモグリのホテルでやたらと男と寝るのはそのトラウマでしょう(ヒロインに「男と寝るなら金を取れ」と言うトップスターを描くくーみんよ…!)。彼女は狂乱して泣き叫んでいました。確かにレイプにはそれだけの破壊力があります。彼女はブコビッチに拾われずとも、発狂し、自傷し、死に至っていたかもしれません。
でも、そうでなかったかもしれない。いずれ泣き止んで、やがて立ち上がり歩き出したかもしれない。そうして別の誰かに出会っていたかもしれない。いつか心身ともに癒やし、立ち直っていたかもしれない。そういう人も多いし、人にはそれだけの力があるはずだからです。
それなのに、ブコビッチはニーナの記憶を奪いました。もちろん彼女を救うためだったのはわかります、それでもそれはやはり、決してやってはいけないことだったのではないでしょうか。ニーナ自身が、ショックで記憶を失うとか、記憶を封じてしまう、ということはありえたかもしれません。それなら、いい。でも他人が手を出してはいけないのです。記憶とは、その人そのものです。究極の不可侵の尊厳です。
たとえばこのときのニーナに出くわしたのが女性科学者だったら、その人はニーナの記憶を奪ったりはしなかったのではないでしょうか? いつも、女を犯すのも男なら、その女を救おうとして余計な手出しをするのもまた男なのだ、と思うと、この理不尽さ、非道な暴力に、そしてそれを宝塚歌劇の舞台でこうして描くくーみんの怖さと非情さと正しさに、私は号泣しました。てかココ、かなこだったよね? くーみんってホント…!
…と初日は私はこの場面をブルブル泣きながら観ていたのですが、翌日のここのニーナは襲われても未遂で相手を殺し、そのことにただ呆然としているだけのように見えました。特に泣き叫んではいなかった…演出、変えました? それとも私の記憶違い? ただ、ブコビッチの本当の娘たちは、そして妻も、間違いなくレイプされていましたね。
オバク、というかこれはおそらくタルコフがのちに名付けた名前なのでしょうからサーシャと呼ぶ方が正しいのかもしれませんが、彼もまた記憶を奪われた男です。でも、人は不思議なもので、記憶を奪われてもその人の個性はそのままにまた出現するのでした。でも、だからええやろ、ということではもちろんない。記憶とはその人そのもの、魂なのであり、何ものにも奪われるべきではないものなのだ、ということです。
一方でタオカのように(日本人男性ですよ、ホントくーみん…!)、何度記憶を漂白されても、常に暴力的な性向に立ち返ってしまう人間も、いる。それでも、それが人間というものなのだから、丸ごと受け入れるべきだ、というのがサーシャ/オバクの考えなのです。
両親に愛され慈しまれ、恋人もいた、まっとうな人間だったサーシャは、家族を殺されて反政府運動のリーダーとして活躍していたころも、単に復讐心に逸っていたのではなく、あくまで理想として、人間のあるべき姿として総統の施策に反旗を翻していたのでしょう。その健やかさは、記憶を奪われても、何度でも彼の中に蘇ります。それが彼の個性、彼の魂、彼の生き方、彼自身そのものだからです。
彼は理解し合えないことが寂しい、と言います。だから愛するのでしょう。彼はそういう人間なのでした。そして「俺があんたを許したら、あんたは人間を許してくれるか?」というのは、なかなか言えない、ものすごい台詞です。彼の愛はそれくらい大きい。
でも、サーシャとブコビッチの対決は平行線です。男同士の争いはいつもそうです。そしてあとは力の大きさを競うだけになってしまう。
そこに決着をつけるのは女です、ミレナです。ミレナもまた記憶を奪われた者であり、父の娘という当事者だからです。ブコビッチはもちろん彼女の幸せを願っていたのだけれど、自分の跡を継がせ、また彼女を恒久的なマザーコンピューターめいたものに改造しようとしたときに、やはり一線を越えたのだと思います。それに抗うミレナには、彼を殺すしかなかったのです。彼女の人生は彼女のものだからです。たとえ愛ゆえであったとしても、親にどうこうされるいわれはないものだからです。ヒーローがヒロインのピンチを救ってハッピーエンド、とかではない流れを展開するくーみんよ…!
さらにそのあとですよ! そうして独裁者が倒れたはいいものの、タイヘンなのはむしろそのあとの政治的な、実際的なあれこれに決まっているのです。なのにサーシャはフライング・サパ号に乗ってもっと違う宇宙を目指すとほとんどトートツに言い出すのです。確かにそういう目的のためなら、船内の雑多な人々はまとまるのかもしれない。それを平和と呼ぶのかもしれない。それもまた人間の新しいチャレンジとして尊いことなのかもしれない。でもポルンカは? ミレナはポルンカに残る人々のために首長のような存在として働き始めています。そんなミレナを置いていっちゃうの? ミレナを手伝ってあげないの? ミレナのそばにいてくれないの? どうしていつも女ばかりが現実の生活に捕らわれて、男ってのはいつもこう「ここではないどこか」なんぞを夢見て旅立っちゃうの? 女に寄り添って、女を愛してくれないの?と私はまたまた泣きそうになりました。
からの、イエレナの登場ね! こんな素敵な「クーデター」あります!? てかイエレナ、めっちゃいいよね。サーシャに対してもノアに対しても、おお!という、ちょっとなかなか書けないよこれは、って台詞がいくつもありました。夢白ちゃんがまたいいんだコレが! そしてミレナとイエレナとのシスターフッドみたいなのも、とてもいい。難民船で、ミレナは確かにサーシャのことが大好きだったかもしれないけれど、イエレナに嫉妬したりはしていなくて、おそらく彼女とセットで大好きだったんですよね。そういうの、とてもいい(脱線しますがロパートキンさんがミレナに冒険を語る教育をするくだりも本当によかった…くーみん、好き…)。
子供ができたからここに残る、というのはちょっと安易かなというか、そうやって女を地上に縛り付けるのってどうなのよ、とかちょっと思ったりしたんですけれど(思えば『星逢』もソレだった…!)、それとは別に、ところでこの子供ってノアじゃなくてむしろオバクのなんじゃね?と思って、でもそういうのもすべて折り込み済みでイエレナはポルンカに残る決断をし、そしてノアはそんな彼女とともに生きる決断をしたんだろうと思うと、ちょっと新しくておおおおお、と感動したのでした(と思ったんですけどここ、ちょっと時間が経ってるんですよね。なので子供はあくまでノアのなんでしょう、すまんノア)。てか話戻るけどオバクとイエレナの同衾場面、すっごくセクシーでよかったなあぁ。イエレナ、いったいどんなワザを…(笑)
私はキキちゃんにはあまり萌えがないのですが(なんでもできるいいスターさんだとは思っているのですが)、『天河』のラムセスはよかったんだけどあとはちょっと2番手スターとして不遇が続いているのではないかと感じていて、今回のノア先生ももうちょっと書き込んでもらってもよかったろう、と思ったんですよね。サーシャがいなくなったあと、残されたイエレナと、徐々に、なんかこう、イロイロあったはずじゃないですか! あるいはその前からいわゆる横恋慕していたのかもしれないし。なんか『追憶のバルセロナ』でもまいあ相手に損な役回りしていなかったっけ? 『金色の砂漠』のジャーくらい大きなキャラクターとして描くこともできたと思うのだけれど…今はもうオバクよりノアの方がイエレナのことを理解している、とされているじゃないですか。元は精神科医で、今はなんでも屋の医者みたいになっている彼が、サパの地でいろいろ見ていろいろ考えたことがなんかもっとあったはずじゃないですか。サーシャに対する屈託だってあったもっとはずで、イエレナに「サーシャだったら」とか言われちゃったりして、そこにはもっとドラマが描けた気がします。もちろん本筋ではないとか尺がないとか判断されたのかもしれないけれど、今はちょっと傍観者チックになってしまっていて、キャラクターとして活躍していなくて不発な気がしました。ノアの箱舟に乗らないノア、なんてドラマチックなのになあ…!
…と思っていたのですがこれも2回目を観たときに、いやお熱い台詞を言ってくれているのはむしろ彼だな、と思いました。「どんな君でも愛してる」ってのはなかなかすごいよ! キャー!! ファンはしっかり補完するだろうから、これで十分なのかな?
すっしぃさんとせとぅーの二役は効いていますよね。というかこの難民船、科学者ふたりに女性ジャーナリストってのがまたたまらんです。仕事しろよマスコミ、って今の日本に対して言っているんですよねくーみん。スポークスパーソンとアンカーウーマンの偏向報道番組、マジで怖いもん。
でもこのスポークスパーソンがファインマンになったら、女ふたりが最低限の話でさくっとわかり合って立場を入れ替える決断を秒でしているのに、彼はどっちを選んだらいいか決められずただオタオタしてるんですよ。ホント男ってしょーもない。てかこれをわざわざ描くくーみんがホントひどい。好き。
あとまっぷーのテウダね。これは別にいい話じゃなくて、むしろブコビッチの鏡なんですよね。彼女は息子のキプーを可愛がりすぎることで彼を立てなくさせていたのです。これは親がどれだけ子供を阻害してしまうことがありえるか、という話ですよね。でも彼女はそれに気づいて子供を手放せたから、見送りの場面にいられるんです。ブコビッチは、ここにいません。
見送りの場面で、フランス語や英語の餞の言葉が交わされるのにハッとさせられました。今までないものとされてきた地球語の言葉が、ポルンカに帰ってきたのです…!
りっつやあーちゃんが実にいい仕事をしちゃうのがまたたまりませんでした。というかくーみんの生徒起用って…! 組替えしてきたしどりゅーの使い方も実に正しいと思いました。あともえこね! まどかの婚約者、メガネ、たまらん!!(笑)りお、ほまちゃんがなんでもできるのはもちろん、アラレも女役だけどいいし、キヨちゃんもいいキーパーソンでした。これで卒業のはつひちゃんも、エビちゃんも手堅い。あと山吹ひばりちゃんがお眼鏡にかなったのか、バリバリ使われていてよかったです。まなちゃんはもうちょっと使われてもいいのになー…
キュリー夫人は、たとえば『凱旋門』でもこんなホテルの女主人がいましたが、ある種の定番のキャラクターなのかなあ。彼女は彼女なりの反政府運動をしていて、かつ彼女自身がミューズであり文化の守護神なんですよね。ミレナはポルンカでの仕事を置いてフライング・サパに乗ると、ただのオバクの恋人になってしまうのかもしれない。けれどキュリー夫人はハナから「恋とビジネス」どちらも手に入れると言っているのです。そこがまたたまりませんでした。
というワケで急に宝塚歌劇的大団円ラブロマンスハッピーエンドに突入するのですが、ミレナを腕の中に収めて眠ればやっとサーシャは真にいい夢を見る、いい眠りを手に入れられるようになるのでしょうから、やっぱりよかったねえぇと降りる幕にうっとりと拍手するのでした。
カーテンコールのラストが、宇宙の果てへ向かっていくような人々の後ろ姿で終わるのは、不穏で怖いようでもあり何か暗示的なようでもあり、私はここにこそこの作品のSFとしての真骨頂を見た気がしました。満足です。ル・サンク楽しみです! 脚本、載りますよね!?
というわけで私には本当にいろいろとツボで、とても楽しく観たのですが、しかしあまり興味を持てない人、話に振り落とされる人、ぶっちゃけ寝る人はいるだろう、とは思うんですよね…ショルダータイトルがないけれど、ミュージカルとはちょっと言えないかもしれないなという歌の少なさ、ダンスらしきダンスのなさだし、ハードでやや不愛想なロマンスを描いているので、ロマンチックたるべき宝塚歌劇として成立しているのかも私にはよくわかりませんでした。私は好きなんだけれど、外部の舞台みたいでもあると思う。それについて私はもう何も言えなくて、それは私がもはや現役に贔屓を持たない外様のファンだからかもしれません。生徒のファンならどう見るのかとか、ちょっと判断がつかないんですね。たとえば『神土地』では私は初日にあれだけわあわあ「これじゃわかりづらいよくーみん!」とか騒いだわけですが…
映像は効果的、音楽はそれほど印象的ではなかったかな。でも開演前や幕間に流してもよかったのに…衣装がモノトーンだったのが、ラストは色が明るく、それこそ手塚治虫のベタなSFみたいなデザインの衣装になっているのがよかったと思いました。ノアのフードは変だったかもしれないけど…ミレナのトランク出てきたときには『メラジゴ』が始まるのかと思いましたよね。ミレナを迎えるサーシャにもうひとつ、お熱い台詞があってもよかったかな? 「君が何を考えているかなんて、わからない。でも、君を愛してる」みたいな。ズバリと。
サパの臍、願いが叶う場所、それは人の心の奥底、そして宇宙の果て。希望が宿るところ。それを信じて、常に歩み寄る努力をし続ければ、夢はいつかきっと叶う。自由を大事にして、決して手放さず、たとえ今は苦しくともがんばろう…
そうしたことを訴えている作品だと、私は感じました。
初日の何度目かのカテコで、ゆりかちゃんがご挨拶で「みなさまにも大変な不便をおかけして…」と言って絶句し、感極まってうるうるしたのに、こちらもうるうるしてしまいました。思わず「大丈夫!」と大声飛ばしちゃったのはナイショです。まだまだいつもどおりの上演ではないけれど、できる対策は全部して、続けていくしかない。演劇の、文化の火を絶やすわけにはいかない。愛ゆえにこそしんどい覚悟をして、我々ファンも劇団とともに歩んでいくしかないのでした。
チケットを手配したときには、こんな東京から行くのホントごめんなさい、感染拡大対策として万全の支度をしていくつもりですが「来るなよ」というご意見もあることでしょう、すみませんそっと行かせていただきますね…とか思っていたものでしたが、もはや大阪に行くのもまあまあ怖いよね、みたいな状況になってきていて、ホント予断を許さない事態が日々刻々と移り変わる、恐ろしい日常となりました。
久々に赴いた東京駅も、私が大好きなグランスタもガラガラで、のぞみの車内も夏休みらしき家族連れなどちょっとはいましたが基本的にはガラガラ、新大阪駅もガラガラなら梅田の人出もいつもより全然少ない、寒々しい光景に心が折れかけました。イヤ、みんな補償もないのに不要不急の外出を控えていて、自粛していて偉い、という話なんですけれどね。
それでも、別箱版をすでに観ている花組大劇場公演『はいからさんが通る』や大劇場公演を観ている星組東京公演『眩耀の谷/Ray』と違って、やはり完全新作の今回、かつくーみんのSF、初日から観ないでなんとする…!という意気込みで、出かけてしまいました。
以下、完全ネタバレで語ります。ご覧になる予定のある方は、ご覧になったあと読んでいただければと思います。ご覧になった方、あるいはたとえばスカステ放送とかまで全然ご覧になる予定のない方、あとは観劇前でもなんでも情報を仕入れておきたい方のみお読みいただければと思います。あ、でも例によって、観てないとわかりづらい文になっているかと思います。
ちなみに私自身はわりとノー情報に近い形で行って、とてもおもしろく観たので、ご覧になる方はまずはまっさらで、と個人的にはオススメしたいです。
別に特に難しい話ではない…と思います。ただ、置いて行かれる人はいるかなー、とも思います。残念ながら、寝ている方はいましたね…
ぶっちゃけ、SFとしてはめっちゃよくある話だな、と思いました。
現在の人類が、人種差別とか民族紛争とか経済格差による衝突とかなんとかでとにかく争い合うばかりで戦争もなくせないのって、要するにそういう、言語とか文化とか風習とか人種とか国とかいったいろいろな違いがあるからで、人々はそれを越えて理解し合い愛し合い共存することなんて絶対にできないのだから、もう全部統一して均質化して差異は全部排除して、すべて一元管理しコントロールすれば、人は暴力的にもならないし、平和で幸せに暮らしていけるのだ…と思いついちゃった政治家なりマッドサイエンティストなりがいて、一方でそんなふうに人間を管理し矯正し制御し統制するなんて冒涜だ、多様性の中にこそ豊かな愛も希望も花咲くのだ、たとえ理解し合えず争いがなくなることがないのだとしてもそれを目指す希望は捨ててはならないのだ、人間は自由でなければならないのだ、自由だからこそ人なのだ…と考えるごく普通の人々もいて、対立が起きる、という話です。たとえば、『風の谷のナウシカ』なんかもそういう話です(漫画版の方のことです)。管理か自由か、独裁か民主主義か、というのは文学や政治の古典的テーマでもあり、非常に今日的なものでもあります。
ブコビッチは自分の栄耀栄華のためにこうした楽園を夢見た腐敗した権力者などではなく、彼はあくまで人種差別の、また戦争の被害者であり、真に平和を望んだからこそこうした措置を取ったので、悪人ということではないのでしょう。理解し合えないのが寂しいから、ひとつになろうとしたのです。でも、それはやはり間違っていたと言っていいでしょう。
普通の状態ならこんな「楽園」は現出させられないものですが、太陽の活動が弱まって地球が冷え、人間の生活に適さなくなり、戦争が行き着くところまで行き着いて、ごくわずかな人数だけが脱出して水星で暮らし始めた際に、水星で生命活動が維持できるデバイスをすべての人間に装着させるのと同時に、そのデバイスで各人の精神活動を管理し制御できるようにしたことで、彼の考える均一な、統制された、対立や争いのない、そしてまた争いの元となる文化もない「楽園」は創造されたのでした。
戦前の彼がどんな暮らしをしていて、またどんな研究をしていたのかは特に描かれていませんが、家庭では娘たちを愛するごく普通の、良き父親だったのでしょう。ニーナ/ミレナに対しても、よかれと思って彼女の記憶を消し去り、自分の娘としてともに難民船に乗ったのでしょう。でも、私はそこで爆泣きしました。
あのとき、ニーナはレイプされていたのだと思います。彼女がのちにモグリのホテルでやたらと男と寝るのはそのトラウマでしょう(ヒロインに「男と寝るなら金を取れ」と言うトップスターを描くくーみんよ…!)。彼女は狂乱して泣き叫んでいました。確かにレイプにはそれだけの破壊力があります。彼女はブコビッチに拾われずとも、発狂し、自傷し、死に至っていたかもしれません。
でも、そうでなかったかもしれない。いずれ泣き止んで、やがて立ち上がり歩き出したかもしれない。そうして別の誰かに出会っていたかもしれない。いつか心身ともに癒やし、立ち直っていたかもしれない。そういう人も多いし、人にはそれだけの力があるはずだからです。
それなのに、ブコビッチはニーナの記憶を奪いました。もちろん彼女を救うためだったのはわかります、それでもそれはやはり、決してやってはいけないことだったのではないでしょうか。ニーナ自身が、ショックで記憶を失うとか、記憶を封じてしまう、ということはありえたかもしれません。それなら、いい。でも他人が手を出してはいけないのです。記憶とは、その人そのものです。究極の不可侵の尊厳です。
たとえばこのときのニーナに出くわしたのが女性科学者だったら、その人はニーナの記憶を奪ったりはしなかったのではないでしょうか? いつも、女を犯すのも男なら、その女を救おうとして余計な手出しをするのもまた男なのだ、と思うと、この理不尽さ、非道な暴力に、そしてそれを宝塚歌劇の舞台でこうして描くくーみんの怖さと非情さと正しさに、私は号泣しました。てかココ、かなこだったよね? くーみんってホント…!
…と初日は私はこの場面をブルブル泣きながら観ていたのですが、翌日のここのニーナは襲われても未遂で相手を殺し、そのことにただ呆然としているだけのように見えました。特に泣き叫んではいなかった…演出、変えました? それとも私の記憶違い? ただ、ブコビッチの本当の娘たちは、そして妻も、間違いなくレイプされていましたね。
オバク、というかこれはおそらくタルコフがのちに名付けた名前なのでしょうからサーシャと呼ぶ方が正しいのかもしれませんが、彼もまた記憶を奪われた男です。でも、人は不思議なもので、記憶を奪われてもその人の個性はそのままにまた出現するのでした。でも、だからええやろ、ということではもちろんない。記憶とはその人そのもの、魂なのであり、何ものにも奪われるべきではないものなのだ、ということです。
一方でタオカのように(日本人男性ですよ、ホントくーみん…!)、何度記憶を漂白されても、常に暴力的な性向に立ち返ってしまう人間も、いる。それでも、それが人間というものなのだから、丸ごと受け入れるべきだ、というのがサーシャ/オバクの考えなのです。
両親に愛され慈しまれ、恋人もいた、まっとうな人間だったサーシャは、家族を殺されて反政府運動のリーダーとして活躍していたころも、単に復讐心に逸っていたのではなく、あくまで理想として、人間のあるべき姿として総統の施策に反旗を翻していたのでしょう。その健やかさは、記憶を奪われても、何度でも彼の中に蘇ります。それが彼の個性、彼の魂、彼の生き方、彼自身そのものだからです。
彼は理解し合えないことが寂しい、と言います。だから愛するのでしょう。彼はそういう人間なのでした。そして「俺があんたを許したら、あんたは人間を許してくれるか?」というのは、なかなか言えない、ものすごい台詞です。彼の愛はそれくらい大きい。
でも、サーシャとブコビッチの対決は平行線です。男同士の争いはいつもそうです。そしてあとは力の大きさを競うだけになってしまう。
そこに決着をつけるのは女です、ミレナです。ミレナもまた記憶を奪われた者であり、父の娘という当事者だからです。ブコビッチはもちろん彼女の幸せを願っていたのだけれど、自分の跡を継がせ、また彼女を恒久的なマザーコンピューターめいたものに改造しようとしたときに、やはり一線を越えたのだと思います。それに抗うミレナには、彼を殺すしかなかったのです。彼女の人生は彼女のものだからです。たとえ愛ゆえであったとしても、親にどうこうされるいわれはないものだからです。ヒーローがヒロインのピンチを救ってハッピーエンド、とかではない流れを展開するくーみんよ…!
さらにそのあとですよ! そうして独裁者が倒れたはいいものの、タイヘンなのはむしろそのあとの政治的な、実際的なあれこれに決まっているのです。なのにサーシャはフライング・サパ号に乗ってもっと違う宇宙を目指すとほとんどトートツに言い出すのです。確かにそういう目的のためなら、船内の雑多な人々はまとまるのかもしれない。それを平和と呼ぶのかもしれない。それもまた人間の新しいチャレンジとして尊いことなのかもしれない。でもポルンカは? ミレナはポルンカに残る人々のために首長のような存在として働き始めています。そんなミレナを置いていっちゃうの? ミレナを手伝ってあげないの? ミレナのそばにいてくれないの? どうしていつも女ばかりが現実の生活に捕らわれて、男ってのはいつもこう「ここではないどこか」なんぞを夢見て旅立っちゃうの? 女に寄り添って、女を愛してくれないの?と私はまたまた泣きそうになりました。
からの、イエレナの登場ね! こんな素敵な「クーデター」あります!? てかイエレナ、めっちゃいいよね。サーシャに対してもノアに対しても、おお!という、ちょっとなかなか書けないよこれは、って台詞がいくつもありました。夢白ちゃんがまたいいんだコレが! そしてミレナとイエレナとのシスターフッドみたいなのも、とてもいい。難民船で、ミレナは確かにサーシャのことが大好きだったかもしれないけれど、イエレナに嫉妬したりはしていなくて、おそらく彼女とセットで大好きだったんですよね。そういうの、とてもいい(脱線しますがロパートキンさんがミレナに冒険を語る教育をするくだりも本当によかった…くーみん、好き…)。
子供ができたからここに残る、というのはちょっと安易かなというか、そうやって女を地上に縛り付けるのってどうなのよ、とかちょっと思ったりしたんですけれど(思えば『星逢』もソレだった…!)、それとは別に、ところでこの子供ってノアじゃなくてむしろオバクのなんじゃね?と思って、でもそういうのもすべて折り込み済みでイエレナはポルンカに残る決断をし、そしてノアはそんな彼女とともに生きる決断をしたんだろうと思うと、ちょっと新しくておおおおお、と感動したのでした(と思ったんですけどここ、ちょっと時間が経ってるんですよね。なので子供はあくまでノアのなんでしょう、すまんノア)。てか話戻るけどオバクとイエレナの同衾場面、すっごくセクシーでよかったなあぁ。イエレナ、いったいどんなワザを…(笑)
私はキキちゃんにはあまり萌えがないのですが(なんでもできるいいスターさんだとは思っているのですが)、『天河』のラムセスはよかったんだけどあとはちょっと2番手スターとして不遇が続いているのではないかと感じていて、今回のノア先生ももうちょっと書き込んでもらってもよかったろう、と思ったんですよね。サーシャがいなくなったあと、残されたイエレナと、徐々に、なんかこう、イロイロあったはずじゃないですか! あるいはその前からいわゆる横恋慕していたのかもしれないし。なんか『追憶のバルセロナ』でもまいあ相手に損な役回りしていなかったっけ? 『金色の砂漠』のジャーくらい大きなキャラクターとして描くこともできたと思うのだけれど…今はもうオバクよりノアの方がイエレナのことを理解している、とされているじゃないですか。元は精神科医で、今はなんでも屋の医者みたいになっている彼が、サパの地でいろいろ見ていろいろ考えたことがなんかもっとあったはずじゃないですか。サーシャに対する屈託だってあったもっとはずで、イエレナに「サーシャだったら」とか言われちゃったりして、そこにはもっとドラマが描けた気がします。もちろん本筋ではないとか尺がないとか判断されたのかもしれないけれど、今はちょっと傍観者チックになってしまっていて、キャラクターとして活躍していなくて不発な気がしました。ノアの箱舟に乗らないノア、なんてドラマチックなのになあ…!
…と思っていたのですがこれも2回目を観たときに、いやお熱い台詞を言ってくれているのはむしろ彼だな、と思いました。「どんな君でも愛してる」ってのはなかなかすごいよ! キャー!! ファンはしっかり補完するだろうから、これで十分なのかな?
すっしぃさんとせとぅーの二役は効いていますよね。というかこの難民船、科学者ふたりに女性ジャーナリストってのがまたたまらんです。仕事しろよマスコミ、って今の日本に対して言っているんですよねくーみん。スポークスパーソンとアンカーウーマンの偏向報道番組、マジで怖いもん。
でもこのスポークスパーソンがファインマンになったら、女ふたりが最低限の話でさくっとわかり合って立場を入れ替える決断を秒でしているのに、彼はどっちを選んだらいいか決められずただオタオタしてるんですよ。ホント男ってしょーもない。てかこれをわざわざ描くくーみんがホントひどい。好き。
あとまっぷーのテウダね。これは別にいい話じゃなくて、むしろブコビッチの鏡なんですよね。彼女は息子のキプーを可愛がりすぎることで彼を立てなくさせていたのです。これは親がどれだけ子供を阻害してしまうことがありえるか、という話ですよね。でも彼女はそれに気づいて子供を手放せたから、見送りの場面にいられるんです。ブコビッチは、ここにいません。
見送りの場面で、フランス語や英語の餞の言葉が交わされるのにハッとさせられました。今までないものとされてきた地球語の言葉が、ポルンカに帰ってきたのです…!
りっつやあーちゃんが実にいい仕事をしちゃうのがまたたまりませんでした。というかくーみんの生徒起用って…! 組替えしてきたしどりゅーの使い方も実に正しいと思いました。あともえこね! まどかの婚約者、メガネ、たまらん!!(笑)りお、ほまちゃんがなんでもできるのはもちろん、アラレも女役だけどいいし、キヨちゃんもいいキーパーソンでした。これで卒業のはつひちゃんも、エビちゃんも手堅い。あと山吹ひばりちゃんがお眼鏡にかなったのか、バリバリ使われていてよかったです。まなちゃんはもうちょっと使われてもいいのになー…
キュリー夫人は、たとえば『凱旋門』でもこんなホテルの女主人がいましたが、ある種の定番のキャラクターなのかなあ。彼女は彼女なりの反政府運動をしていて、かつ彼女自身がミューズであり文化の守護神なんですよね。ミレナはポルンカでの仕事を置いてフライング・サパに乗ると、ただのオバクの恋人になってしまうのかもしれない。けれどキュリー夫人はハナから「恋とビジネス」どちらも手に入れると言っているのです。そこがまたたまりませんでした。
というワケで急に宝塚歌劇的大団円ラブロマンスハッピーエンドに突入するのですが、ミレナを腕の中に収めて眠ればやっとサーシャは真にいい夢を見る、いい眠りを手に入れられるようになるのでしょうから、やっぱりよかったねえぇと降りる幕にうっとりと拍手するのでした。
カーテンコールのラストが、宇宙の果てへ向かっていくような人々の後ろ姿で終わるのは、不穏で怖いようでもあり何か暗示的なようでもあり、私はここにこそこの作品のSFとしての真骨頂を見た気がしました。満足です。ル・サンク楽しみです! 脚本、載りますよね!?
というわけで私には本当にいろいろとツボで、とても楽しく観たのですが、しかしあまり興味を持てない人、話に振り落とされる人、ぶっちゃけ寝る人はいるだろう、とは思うんですよね…ショルダータイトルがないけれど、ミュージカルとはちょっと言えないかもしれないなという歌の少なさ、ダンスらしきダンスのなさだし、ハードでやや不愛想なロマンスを描いているので、ロマンチックたるべき宝塚歌劇として成立しているのかも私にはよくわかりませんでした。私は好きなんだけれど、外部の舞台みたいでもあると思う。それについて私はもう何も言えなくて、それは私がもはや現役に贔屓を持たない外様のファンだからかもしれません。生徒のファンならどう見るのかとか、ちょっと判断がつかないんですね。たとえば『神土地』では私は初日にあれだけわあわあ「これじゃわかりづらいよくーみん!」とか騒いだわけですが…
映像は効果的、音楽はそれほど印象的ではなかったかな。でも開演前や幕間に流してもよかったのに…衣装がモノトーンだったのが、ラストは色が明るく、それこそ手塚治虫のベタなSFみたいなデザインの衣装になっているのがよかったと思いました。ノアのフードは変だったかもしれないけど…ミレナのトランク出てきたときには『メラジゴ』が始まるのかと思いましたよね。ミレナを迎えるサーシャにもうひとつ、お熱い台詞があってもよかったかな? 「君が何を考えているかなんて、わからない。でも、君を愛してる」みたいな。ズバリと。
サパの臍、願いが叶う場所、それは人の心の奥底、そして宇宙の果て。希望が宿るところ。それを信じて、常に歩み寄る努力をし続ければ、夢はいつかきっと叶う。自由を大事にして、決して手放さず、たとえ今は苦しくともがんばろう…
そうしたことを訴えている作品だと、私は感じました。
初日の何度目かのカテコで、ゆりかちゃんがご挨拶で「みなさまにも大変な不便をおかけして…」と言って絶句し、感極まってうるうるしたのに、こちらもうるうるしてしまいました。思わず「大丈夫!」と大声飛ばしちゃったのはナイショです。まだまだいつもどおりの上演ではないけれど、できる対策は全部して、続けていくしかない。演劇の、文化の火を絶やすわけにはいかない。愛ゆえにこそしんどい覚悟をして、我々ファンも劇団とともに歩んでいくしかないのでした。