駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『イヌビト』

2020年08月07日 | 観劇記/タイトルあ行
 新国立劇場、2020年8月6日19時。

 どこかの国の、どこかの町。タナカ(首藤康之)一家は愛犬とともに、シンプルライフを堪能しようとこの町に引っ越して来ました。ところが町中はどこか殺伐としています。誰もがマスクで口元を隠し、ソーシャルディスタンスを保ちながらの暮らし。この町にはイヌビト病の感染が広まっていたのです。今を去ること30年前、この町では狂犬病が大発生、ついにヒトはイヌを飼うことを禁じられ、この町からイヌはすっかりいなくなりました。しかし今度はイヌビト病が大流行、さらにはヒトからヒトへの感染も始まって…
 作・演出/長塚圭史、振付/近藤良平、音楽/阿部海太郎。長塚圭史、近藤良平、首藤康之、松たか子のユニットの3作目、全1幕。

 私は大人げがないので「こどもも大人も楽しめるシリーズ」とか言われると引くんですけれど(『ピーターパン』なんかもそのせいで長く観なかった…)、このコロナ禍で上演される公演があるとなればちょっとでも惹かれるものは観ておかずばなるまい!とチケットを手配して出かけました。
 客席は最近のご多分に漏れず一席空きの市松模様でしたが、私の席はまさかの最前列で、舞台とは段差がまったくない地続きで、このご時世にあまりありがたくないのでは…とちょっと緊張しましたが、舞台が始まるとその見晴らしの良さと目線の高さが同じなのとでがっつり世界に引き込まれ、堪能しました。プログラムの作家のコメントに「客席は半分になるかもしれない。舞台から観客は遠いかもしれない」とあるのを帰宅後に読んで、近いところにいられてよかった、役者と同じ覚悟でこの舞台を受け止められてよかった、と思いました。おりしも宝塚歌劇団が公演を中止して、それは出演者やスタッフに陽性が出たためなんだけれど、観客はマスクも消毒もして距離を取ってすごく守られていて、でも役者は物語のために接触も密着もするので当然感染リスクはあって、それでもやるのか、完全な対策なんてあるのか、などと考えさせられたところだったので…
 この作品も、そもそも狼男をモチーフに着想されたある種のゾンビものだったそうで、それが犬から人へ、人から人へ感染するイヌビト病の物語になっていったのはいかにも現代劇、いや現在劇の新作だからでしょう。そういう世界観の物語なので、舞台上でも役者のほとんどがマスクやフェイスシールドをしていて、距離を保って動いています。プログラムのキャスト紹介ページでも、マスク姿の写真ばかりで、お稽古も細心の注意で進められていたのでしょう。
 でも、ゼロリスクはありえない。家から稽古場、劇場への移動の中でどこからかもらってこないとも限らないし、人間だもの生活してるんだもの息してるんだもの、それはあたりまえのことなんです。でもじゃあ本当に家の中に籠もって息を潜めているべきなのか? 危険を承知でやらざるをえないことが、世の中にはたくさんあるのではないか? たとえばエッセンシャルワーカーのお仕事もそうでしょう。でも本当に「エッセンシャル」な仕事だけか? エッセンシャルってなんだ? エッセンシャルでないものなんてこの世にあるのか? それは誰に決められる権利があるんだ? 文化や芸術は本当に生きるのに不必要な、後回しにしていい、自粛すべきことなのか? それで飯を食っている人たちの生活の保障は、出は誰がしてくれるのだ? 与党は国会も開かず、主権者の税金を自分たちの利権に流用していて、旅行には行け帰省はするなと言い、この国は国としてもはやほとんど機能しておらず、国民の生活を守る気もなさそうに見えるのに?
 となるともはや、あまり良くない言葉になってしまいましたが自己責任で、できる対策はできるだけ講じて、上演するし観劇するしかないのでしょう。もちろん、ここで一度業界全体で本気を出して立ち止まって、国に対して一致団結してストライキをし補償を要求すべきである…というのも一方で一理あるとは思うのですが。ただあのおっさんたちは「そんなものなくても困らん」とか言いそうだし、おっさんたちにきちんと考えさせられるだけの圧力を我々(演劇ファン、ないし主権者たる国民)をかけられるだろうかと思うと、残念ながらかなり不安ではあるのです。だからつい、ショー・マスト・ゴー・オン…!と歌ってしまいたくなるのでした。
 そういう思いで、私は劇場に出向き、また帰宅して籠もれる限りは籠もり、うがい手洗いの実践を続けるしかないのでした。

 さて、そんなわけで舞台はとてもおもしろかったです。
 出演者の人数のわりに中劇場とはハコがデカすぎるのではないか、と思いましたが、あの半円に近い客席が舞台上で展開される物語に対して本当に臨場感があっていいし、大きなセット(美術/木津潤平)がダイナミックにグルグル回るのも小気味がいいし、台詞も歌もあるんだけれどミュージカルというよりは舞踊劇といった趣でダンサーたちがガンガン踊るので、この大きな空間が必要なんだなと思えました。ラストにはセットも舞台奥に引っ込み、大きな空っぽの空間を生かし切って、イヌビトたちとマツダタケコ(松たか子)の対決が展開されます。圧巻です。
 着想がB級ホラーのゾンビ映画だからか(いや長塚さんはそこまでは言っていないんだけれど)妙にユーモラスなのも楽しいし、それはこの回のアフタートークで音楽を担当した阿部さんが語っていたとおりに、歌詞は怖いことを言っているようでもその人たち側からしたらやったるで!みたいに盛り上がってお祭りみたいになることもあるし、そういう変なおかしみって出ちゃうのが自然だと思うから、当然でもあるし、笑っているうちに怖くなるというおそろしさもあって、深いです。サルキ(近藤良平)を中心にしたくだりでは私も「ボレロ」を想起しました。ジョルジュ・ドン!
 でも、私はオチは落ちていない、と思いました。現在劇ならではの中途半端感を感じました。狼男はどうだったかは忘れましたが、吸血鬼には相手の記憶をコントロールする能力が付加されていることが多いものです。この物語では、人がイヌビト病に感染するときにその経緯を忘れてしまう、人を噛んで感染させたイヌビト病患者も噛んだことを忘れてしまう、とされていて、それは作家の「人間は忘れる生き物」だというテーマによるものなのですが、私はたとえば震災の大変さとか今回のコロナ禍の大変さを人はのちに忘れるだろう、というのはわかるけれど、愛情を持って家族同然にペットと暮らしたことがある人間は、なんらかの事情で断腸の思いでペットを手放したにせよ天寿をまっとうさせて見取ったにせよ、それを忘れることなど決してない、と思うのです。だからこの展開には納得できませんでした。
 マツダタケコはチコのことを忘れたことなどなかったと思います。もちろんチコ側はまた別かもしれません。少なくともテリヤ(岩渕貞太)は感染の経緯を忘れていました。でもそれがチコ由来のものだなんて遠い昔のことだし狂犬病とイヌビト病は別物なんだしなんかちょっといろいろアレなんじゃないの?と思うと、イヌビト病患者が犬のように人に従って終わるラストがハッピーエンドともそうでないとも捉えられなくて、私は「えっ、まさかこれで終わり!?」と思ったら暗転して、そして明転してラインナップになっちゃったので、ちょっと肩すかしに感じたのでした。もちろん、今はウィルスを手懐ける人類、という夢を見るしかないのはわかるのですが…
 もっと違う解釈をされた方、感動したという方には、申し訳ございません…

 ラインナップは出演者、のちに演奏担当の方も加わって一列になって手をつなぎ、距離も何もなくお辞儀をしてくれたのが感動的でした。
 松たか子は主演であり案内役との二役でもあるキーパーソンで、テレビ女優でもある、要するにいわゆる客寄せパンダなワケですが、なのでひとりだけ顎につけたフレームで支える形の透明マスクをしていて、フレームは遠目にはヘッドマイクに見えてほぼ気にならないだろうし、マスク部分は近くても反射で光ったりしないし全然わからず、顔がちゃんと見えて、配慮として正しいし素晴らしいなと感心しました。
 犬の折り紙みたいなのがステキだったなー。あとダンスが本当によかったです。ダンスは言葉を越える、飛翔する肉体、っての、ホント実感しました。ダンサーはその身体で演技する、というのも素晴らしかった。私がバレエとかは全然観に行けていないので、身体性の高い芸術に飢えているのかもしれません…
 プログラムもコンパクトかつ内容豊富で、ポスターデザインも粋で、よかったです。
 劇場は消毒、検温はもちろん、ロビーでは椅子が同じ方向を向いて並べられ、客同士が向かい合ったり話し合ったりしづらいようにされていて、売店も閉め、追跡用登録もさせていて万全でした。それでも出るときには出るのかもしれない。そのときどうするか、が問われる時代でしょう。そして、舞台から持ち帰った感動を私たちが人生にどう生かしていくか、の問題でもあります。愛し、信じ、待ち、支え続けたいです。それこそ、忠犬のように…
 最後に。一席空けた椅子に「このいすに座らないでください」みたいなアナウンスの紙が貼られていて、「イヌ」に線かぶせて消してあって、犬の絵に斜め線入れてある芸コマで、たいそう微笑ましかったです。




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