駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇雪組『星逢一夜/La Esmeralda!!』

2015年10月08日 | 観劇記/タイトルは行
 宝塚大劇場、2015年7月28日ソワレ。
 東京宝塚劇場、10月4日マチネ、6日ソワレ。

 時は江戸時代中期、徳川吉宗(英真なおき)の治世。九州の緑深き里、山々に囲まれた三日月藩藩主の次男・天野紀之介(早霧せいな)は、夜ごと城を抜け出しては星の観測に夢中になる奔放な少年だった。ある夏の星逢(七夕)の夜、紀之介は蛍村の少女・泉(咲妃みゆ)とその幼馴染の源太(望海風斗)と出会い、星観の櫓を一緒に組み上げる。その日以来、彼らは夜ごと星探しに夢中になり、身分を超えて友情を育んでいく。しかし江戸藩邸に住む紀之介の兄が急死し、紀之介が嫡子として江戸に向かうことが決まり…
 作・演出/上田久美子、作曲・編曲/高橋城、青木朝子、高橋恵。『月雲の王子』『翼ある人びと』を発表してきたくーみんの大劇場デビュー作となるミュージカル・ノスタルジー。「逢」は正しくは一点しんにょう。

 大劇場でのマイ初日の感想はこちら。というか感想なんかなくて、ただただ言葉もなかったのですが。
 初日から評判が良くて、でもみんながみんなを気遣ってネタバレもさせず多くを語らず、ただただ泣いた泣けるとだけが聞こえてきて、「ホントかな? 私はそうそうチョロくはないよ?」とややふんぞり返り気味で観て、そして目玉が溶けるほど泣きました。
 併演のショーがアレなのでいろいろな意味でホントに疲れてしまい、贔屓組でもなかったことから、東京ではチケットが増やせるツテがあっても手控えたくらいです。もともと予定していた分くらいで十分、と思えてしまったいう…メイン三人のファンは通うのが大変だったでしょうね。この言葉は「つまらない演目なのにファンだから通わざるをえなくてつらい」という意味で使われることが残念ながら多いものかと思いますが、今回に限っては違います。良すぎて、だけどホントに泣かされるから、何度も観るのは消耗してしんどくて大変でしょう、という意味です。
 私は二度目の観劇では嗚咽が止められなくて呼吸困難になるくらい号泣し、しかしやっと自分の中で言葉が出てきて、そこから間を置かずにマイ楽となったのでそこではかなり冷静に観られて、今度はいろいろ思うところがありましたので、やはり書いておきたいと思います。
 しかし「ル・サンク」が完売とな…今回こそ正確な台詞を引用した上で語りたかったのですが。記憶違いが多々あるかと思います、ご容赦くださいませ。
 またも語り出せば長くなるかとは思いますが、基本的に今回は珍しく、私には文句がほぼありません。気になるところ、引っかかったところ、嫌だなと感じたところ、もっとこうしたらよかったのにと思うところが本当にほとんどない。普段の私は感想というか批評として改善希望点を語ることが多いと思うのですが(…そうでもない、かな?)、今回はそれがほとんどないから初見で言葉もなくただただ泣いたのかな、と思いました。二度目に観たときは、台詞はこうなっているけれど真意はああだよね、そうそう人って人生ってそうだよね…というようなことが語りたくなり、三度目でやっと「ところでこれって?」と思うようなところが出てきて、やっぱり語っておきたくなったのでした。
 ストーリーが地味だとか貧相だとか貧乏くさい、構成が学芸会っぽい、みたいな批判はあると思います。なんということのない話でドラマチックさに欠けるとか、宝塚歌劇らしい華やかさ、夢々しさに欠ける、とかも当たっている面があると思います。ドラマを背負うのがメイン三人に絞られすぎていて、他の組子のしどころが少ない、という宝塚歌劇としての問題点も指摘できるかもしれません。
 それでも上々の大劇場デビュー作だと思いますし、デビュー云々を差し引いても近年屈指の本公演作品、オリジナル作品だったと思います。私は史実や原作のない完全なオリジナル・ストーリーというものは本当に得がたいと思っていて、それだけで高く評価したいと考えています(今回は宝暦騒動の挿話、なるものからインスピレーションを得たようですが、おそらく元ネタとか下敷きというほどのものでもないのでしょう)。今までマイ三大オリジナル作品として『コルドバ』『琥珀』『メラジゴ』を挙げてきたけれど、そこに加えてもいいかもしれません。マイ三大オリジナル悲劇、とすればいいかな。悲劇というよりは悲恋もの、かな。とにかく、私は、嫌いじゃない。観ると疲れますけど、ね。

 プロローグが美しい。「いささか無骨すぎる物語」(プログラムのくーみんの言葉より)を「タカラヅカとして演出」するとは、ベタですが例えばこういうプロローグをきちんと作ることだと私は考えているので、嬉しかったです。美しい蛍火の中、ポスターから抜け出たような主人公とヒロインが現われ、キャラクターと設定をなんとなくわからせ、これから起こるドラマを暗示するような踊りが展開される…ちょっと人形浄瑠璃を観ているようでもありました。ここでのだいもんが源太ではなく「星逢の男A」とされているのも憎い。
 子役の場面はみんな上手いし可愛いし微笑ましい。でもやはりどことなく学芸会っぽいむず痒さを感じなくもない。でも気の強い泉や優しい源太のキャラクター表現、現れた紀之介に苗字があることからのとまどい、一揆や親が亡い設定、暮らしぶりの説明など、あざやかすぎます。
 でも東京でなくなった、水泥棒のあとの銀橋渡りの源太の「待ってぇ」はあった方がよかったかな、ないと間延びして感じました。実際に本舞台の転換待ちの時間捻出のためだけの動きだと思いますし。笑いが起きて水泥棒の騒動の余韻が消えるのをくーみんが嫌ったと聞きますが、どんなときでもユーモラスなことって起こりえると思うし、ほほえましげな笑いがこぼれたって別にかまわなかったと思うんだけどな。
 紀之介の兄が亡くなって、側室の子として気ままに暮らしてきた子供時代が終わり、紀之介は藩主の嫡子として江戸に行くことになります。最初の涙腺決壊ポイントがここのちょび康(彩風咲奈。素晴らしい!)で、泣き虫で素直な彼が素直に別れを寂しがるところに本当に泣かされます。この時代、江戸なんて本当に遠いところで、もう二度と会えないことも覚悟だったのではと思うと、なおさらです。
 紀之介の母の美和(早花まこ。素晴らしい!)は紀之介に「おまえが決めなさい」みたいに言いますが、その実、紀之介に選択の余地などないのですよね。人は生まれを選べない。彼は藩主の息子として生まれてしまったのであり、一家の一族郎党がその肩にかかっていることぐらい、どんなにわがまま勝手に育てられていても紀之介はもう理解できるのでした。どんなに友達と離れたくなくても、彼らとは生きる道が違うのです。
 そして泉もまた、そういう形でではないかもしれないけれど事態をきちんと理解していて、「江戸でなら見たかった星が全部見られるよ」というような言葉で紀之介を励まし、送り出す。痩せ我慢だけれど、忍従の生き方だけれど、この時代のことでもあるし、人はいつの世でも好きなように思ったとおりに生きられるとは限りません。人は自分ひとりで生きているのではないのだから、自分ひとりで生まれてきたわけではないのだから、自分よりも大切な人というものを持つものだから。
 のちの再会のための安易な別離ではない展開が、素晴らしい。
 続く江戸城での展開がまた素晴らしい。士は己を知る者のために死すという。紀之介改め晴興は、自分を認め重用し存分に働かせてくれる吉宗を得て、それはそれは嬉しかったことでしょう。粉骨砕身、それこそ身命を賭して働いたに違いありません。この7年は飛ばされてしまっているけれど、例えば現代の企業小説とかだったらこのあたりがねちねち書かれるわけですよ。男の世界の物語、仕事の話ですね。これは宝塚歌劇だから今回はカットなわけですが、人間の普遍的な喜びのひとつだと思いますし、これくらいで十分類推できます。
 そうして道はふたつに確かに別れたのです。私は「去るものは日々に疎し」ということわざは正しいと思う。だから泉が別れてもずっとずっと紀之介のことを好きだったなんてことはないと思うのです。何かしらの約束があったってそうそう人は待てないものだと思う。ましてこれが今生の別れかもしれないと思って離れたふたりが、全然違う世界に忙しく暮らしてそれでもいつもいつも想い合っていて忘れられないでいるなんて嘘くさい、ありえないと思うのです。だから私は、泉は普通に源太をちゃんと好きになって祝言を決めたのだと思います。晴興が藩主になったこと、徳川のお姫様との縁組が決まったことは蛍村にも聞こえてきていて、そういうときに思い出すことはあったでしょう。でも、時系列は明らかにされてはいないけれど、紀之介が江戸で結婚するから泉もあてつけに現太と結婚することにした、とかではないと思うのです。
 再会したあと、櫓で交わす会話で泉が容姿のことなどあまりに卑屈な物言いをするのに初見は驚いたのですが、例えば祭りの晴れ着を褒められたときとかに、江戸の美しい娘たちについての話題が出たのかもしれません。それでお年頃の泉は引け目を感じたのかもしれません。それでまたちょっとだけ紀之介のことを思い出して、だから一目見ただけですぐに紀之介だとわかったのかもしれません。
 晴興の方はそのときまで泉のことなどすっかり忘れていたのかもしれません。思い出してもせんないこととして蓋をしてしまっていたのかもしれない。「恋をしたことがあるか」と聞かれて淡く思い出したような出さないような…その程度だったのではないでしょうか。
 それでも会っただけで泉のことがわかった、7年たっていてもすぐ思い出した。源太とは、声を掛け合って確認し合わなければわからなかったのに。泉が美しくなっていて驚いて、懐かしく感じて思わず微笑んだ、そういうことだったのでしょう。その笑みに泉は逃げ出した。
 現太が泉を追うのは泉を本当に心配しているから、なのがまたいいんですよね。泉と晴興がどうにかなっちゃうんじゃないかとかの邪推がないの。現太は本当に優しくて、本当に泉を愛していて、だから心配で追ったのです。
 晴興の前から逃げ出した泉は櫓に行き、晴興もまた思い出を辿るように櫓に行くので、結局ふたりはまた出会ってしまう。大好きだった友達。別れたときの想いは恋以前のものだっただろうか。想いは泉の方が強かったのではなかろうか。女の子の方が早熟で、恋を知るのも早い。でも7年の間に泉の方がより大きく変わったように見えます。美しい娘になりました。晴興が恋に落ちたのは実はこのときだったのかもしれません。里に咲く桔梗のように、それまではありふれていたように思えて、その美しさに気づかなかったのだから。江戸では違う美しさに囲まれて、忙しく生きていたのだから。
 惹かれ合うふたり、泉を抱き寄せる晴興。幻想場面から台詞を繰り返して現実に戻る演出は『翼』と同じで、あざやかで素晴らしい。
 そう、先に現実に戻れるのは女の方です。接吻なんかされたら傷つけられるのは女の方ですからね。まして泉には今は現太がいるのです。「あなたは徳川のお姫様と結婚するんでしょう。私、源太のお嫁さんになるんよ」。
 そこに源太が居合わせて、晴興に土下座して泉をもらってやってくれと言う。この土下座が嫌だと言う人はけっこう多いですよね、でも私は現太の自然で真摯な行動に見えて、卑屈でもなんでもないと思いました。
 ここにまた上手い宝塚マジックがあって、源太の訴えが「徳川のお姫様を断って、泉を嫁にもらってくれ」なのです。普通なら泉は藩主の側室に上がったって万々歳なのです。でも宝塚歌劇だから側室ではよしとしない、正妻にすることを求める。でも将軍家の意向に背くことなどできるわけがないと、晴興も我々観客も知っているのです。源太はわかっていない、それくらいどうにかなるんじゃないかと思っている。そして泉のために、晴興のために、それが一番いいと本当に思っている。自分はふたりとも好きだから、自分もそれが一番いいと思う。それで自分もふたりも幸せで、だから「俺はええよ」と言う。
 泉が物のようにやりとりされるのが嫌だと言う人も多いけれど、これまたこの時代のことですし、本心から大事に想ってのことだからこそあえてこういう言い回しになるのだと私には思えるので、私は気になりませんでしたし、むしろ上手いな、いい台詞だなと思いました。人は本心では、自分が本当に愛している人の、ないし自分を本当に愛してくれる人の所有物になってみたいものではないのかしらん?
 結局晴興は、笑いに紛らわせるような形で「達者で暮らせ」と言うことしかできません。そして泉は現太に「私があんたを幸せにする!」と言う。これがまたすごい台詞だと思うんですよね。
 いわゆるプロポーズの言葉として、「一緒に幸せになろう」とふたりで言うとか、「俺がお前を幸せにする」と男が言うとか「幸せにしてね」みたいに女が男に言うとかはある種の定番だと思います。でも本来幸せなんて個人が勝手になるもので誰かに幸せにしてくれとねだったり、誰かを幸せにしようとするだなんて、いかに愛している人相手に対してであれ傲慢で不遜な物言いではあるまいか、とか私は考えています。しかしここであえて、女が男に「私があんたを幸せにする」と言う台詞を、女の作家が女の観客相手の女が演じる舞台に書くということが、とにかくすごいと私は思う。シビれましたね。
 そして10年後、晴興は大名にまで出世し、吉宗の片腕として働いています。辣腕ぶりを恐れられてもいるらしいこと、改革断行のための憎まれ役を引き受けているらしいことがつなぐ台詞から窺えます。こういう説明台詞が説明だけの台詞に聞こえないよう書けるところがくーみんは上手い。
 彼の徴税制度の合理化は、おそらくは広い意味では正しくて、長期的に見れば豊かな土地ではむしろ民の暮らしは楽になっていくものなのでしょう。厳しい土地でも藩主がそれぞれ知恵を絞って尽力したら、やはりなんとかなるものだったのでしょう。そういう理想を掲げた、強く大きな国となるためのものだったのでしょう。
 でも天変地異だけは晴興にも計算できるものではありませんでした。まして彼はもう以前ほどには星を見なくなっています。記録的な長雨が飢饉を呼び、貧しい土地がさらに貧しさに追い込まれ、百姓一揆が頻発するようになります。「民が死んで、なんのための国か」聞け安倍! 晴興はそれでも大局のためにはこの政策を押し通すべきで、一揆を起こさせた藩主の方が無能なのだと本当に思っていたのでしょう。だから三日月藩の雲行きが怪しくなったときにも、自分が行けばなんとかできると当初は本当に思っていたのでしょう。
 10年の間に、泉は源太の妻となり三人の子供の母親となっていました。つましいながらもあたたかな暮らし。足をお湯で洗う「ご馳走」なんて描写ができる演出家を私は他に知りません。この程度の贅沢すらできなくなっても、それでも、一家みんなで生きてさえいければいい、それが泉の望みです。
 女は、雨に抗っても仕方がないと知っているように、お上に抗っても仕方がないとわかっているのだと思います。逆に言えばお上を見捨てられるのです。ろくでもないお上はやがて滅ぶと信じていられる、とでも言いましょうか。
 でも男はそうじゃないんだよね、なんとかしないではいられない生き物なんだよね。お上に抗うとか、お上に成り代わるとか。一揆のゴールがはたしてなんなのか、何をもって成功とするのかが今ひとつ明らかにされていませんが、男の戦いってそもそもそういうものだったりしますよね。
 のちに源太は「俺たちは星を見る!」と言います。『月雲』ガウリの「今は飛ぶさ、月までも!」ですね。鬱憤晴らしで騒ぐとか、目先の米を求めてただ暴れるとかではない、というようなことを言っているのだと思いますが、でははたして具体的にはどうなればOKだったのかが明確でない点は、さらにこののちの一騎打ちのドラマに影を差したかもしれません。ふたりが何を争っているのかがちょっと行方不明でしたからね。ちぎちゃんの滑舌が悪くて「俺が勝ったら」なんだと言っているのか、私にはついに最後まで聞き取れなかったのも大きいのかもしれませんが。目的の見えない戦いには泣けない、というのは痛かった。
 男たちは一揆の相談のために源太の家に集まり、子供を失ったちょび康が「俺はやりたい」と振り絞るような声で言う。あの泣き虫だった少年も今は人の親となり、そして病がちの子供を飢えでついに失って、そうして人はテロに走るのだと私は泣きました。暴力や報復は何も生まないのに、わかっていてもやらないではいられない。そして源太は決してボスとかリーダーとかいうタイプの男ではなかったようだけれど、優しくて誠実でしっかり者で、人望があったのでしょう。一揆の首謀者に祭り上げられる、というのではなく、また押されてやむにやまれず引き受ける、ということでもなく、彼は静かに決心し、立ち上がったのではないでしょうか。そこに泉絡みの晴興への嫉妬とかはなかったと私は思います。
 一揆での農民たちと藩の討伐隊とのやりとりは、大劇場で観たときには東京ではまだ『1789』をやっていて、片やフランス革命片や百姓一揆、同じことをやっているようでもあるのにドラマとしてはなんと方向性の違うことよ、と個人的にはけっこう混乱したりしました。盆が回ったりセリが上がったりと、ここはなかなか勇壮でワイルドな演出でしたが、他と違いすぎる気もしなくもない。
 ともあれ戦火が拡大し収拾がつかず犠牲が増えるばかりの中、晴興は一揆の首謀者である源太と一騎打ちで決着させようと言い出します。
 この提案を、そしてその後の吉宗への申し出を、晴興はいつ考えついたのでしょうか。泉と話す前は、源太と話す前は、源太を殺す前は、打開の道があるとおそらく信じていたことでしょう。
「あの人と戦っても勝ち目はない!」と泉が言うのは、恋路のことにかけての言葉ではないと私は思います。10年前よりなおさら、泉にとって晴興は遠い人であり、もはや知らない人であり、大事なのは源太と子供たちなのです。男として源太と晴興が比べてどうだとかいう話ではなく、先述したようにただ女には、天というかお上というか為政者というか、とにかくそういうものに逆らってもろくなことにならないという真理がただ普通に見えているものなのです。
 だが男にはそれがわからない。一揆に勝算があると思っている。源太は晴興との一騎打ちに、死に場所を求めていたのではないと思うのです。あくまで活路を見出していた。勝って藩主を変えられたら政策も変えられると考えていたのでしょう。そして勝てると思っていたのでしょう。『月雲』の木梨とは違う。だから源太は降参するわけにはいかなかった、死ぬわけにはいかなかった。だから晴興は源太を殺すしかなかった、成敗するしかなかった。それだけのことです。首謀者ひとりの死ですべてを終わらせ、領民の罪を問わせないために、この里を守るために、そうするしかなかった。そのために自分の進退も差し出した。国のため、未来のためによかれと思ってした税制改革が故郷を苦しめ、荒らした責めを負うために彼ができるのは、結局そうしたことだけだったのです。
 吉宗にとっては裏切りに等しい行為だったことでしょう。貴姫(大湖せしる。塩梅がちょうどよかった!)にとってもまた。そしてほとんど描かれてはいませんが、晴興にとってもまた、仕事を途中で投げ出す形になることはおそらくは死ぬよりつらいことだったのかもしれません。男ってそういうものだから。それくらい重い決断を、彼は故郷のためにしたのです。もちろんそれくらい、彼もまた疲れていたのかもしれないけれど。長雨が続くと、星は見えない。星を見ないでいると、心が渇くのです。もう昔のように頻繁には、空を見上げる暇は取れないでいたにしても…
 下ったお沙汰は、改易、陸奥に永蟄居。かつて一族郎党のために友と別れて江戸に発つことを選択した晴興だったのに、改易とは最悪の事態です。そして永蟄居とは自害すら許されぬ社会的抹殺、終身刑です。人によっては死ぬよりつらいことでしょう。どんなに疲れきって、もはや死んだように生きるしかないのだとしても。
「私はいい殿様になれなかったな」という晴興の嘆息は、『月雲』の木梨と穴穂の「私たちはあの娘を守れなかったな」を思い起こさせます。愛した里を、女を、守れなかった男の述懐…
 しかし泉は晴興を逃がそうとします。そんな死ぬよりつらい目に晴興をあわせたくないから。一度は殺そうとしてやっぱり殺せなくて、それはやっぱり生きていてもらいたいから、だから。晴興を好きだと言ったのは、別に源太を愛していなかったとかそういうことではないと思います。源太は愛する夫、愛する子供たちの大切な父親。当然別格。でも晴興のこともずっと好き。今でも憎みきれない、生きていてほしいと思う。だから逃がす手立てを考える。それが女です。
 生きてさえいればなんとでもなる、海の向こうにでもどこへでもいってどうにかしてでも幸せになれる。女が簡単に描ける夢を、どうして男は見てくれないのでしょう。何故女を誘うのでしょう。どうして男はそんなにも弱いのでしょう。ひとりではやっていけないというのでしょう。ひとりだからこそなんとでもなりそうなものなのに。男なんだから。
 女は、行けない。いや、行かない。ここで泉を足止めさせる子供たちの描き方が嫌だ、と言う人も多いようでしたが、私はやはり引っかかりませんでした。私は人の親ではありませんが、だからわからないとかいうことではないと思います。泉は子供たちのために晴興と逃げることをあきらめたのではないと思うのです。そういうことではないと思うのです。
 ひとりなら、なんとでもなる。女は自分のことなら逃げたかもしれません。それだけの根性は女にこそある、男にはない。女はひとりでなら逃げたかもしれません、でも男と一緒となると、それは違う、駄目だ、無理だ、と思ったのではないでしょうか。
 晴興がここで言う、本当にしたかったただひとつの望みだという、ここではないどこかへ行くこと、ただひとり愛した泉とそこで暮らすこと、という言葉は、嘘だと私は思います。いかにも男が吐きそうな、無自覚な嘘。だって絶対に彼は江戸での仕事を楽しんだはずなのですから。功なり名遂げて打った手がうまくはまっていく様を絶対に悦にいって眺めていたはずなのですから。長雨と飢饉さえなければ国はもっと良くなってすべてを満足させられたと頭の片隅で思っているに違いないのですから。ここではないどこか、が江戸だったと認めないのは卑怯です。
 愛したのは泉だけだった、という言葉の真否は、保留かな。貴姫は私はとても素敵なキャラクターだったと思うし、彼らが仮面夫婦のようなものだったのかどうかは、この時代のことでもあるしまたなんとも言えないと思うので。妻のこともちゃんと愛していて、でもその口で他の女に愛を語る男なんて世にざらにいるわけで、さらに悪いことには彼らはその嘘に気づいてすらなかったりするものだから。
 愛があろうがなかろうが、子供がいようがいまいが、事ここにいたっては別れるしかない、男と女。というか所詮男と女は添いきれないのだとすら思わせられる場面に、私は号泣しました。その業の深さがわかる気がするから。
 雨は止み、星が出て、次の年には祭りもまたできるようになって、そうして人は生きていくしかない。暮らしはまだまだつらく、夢さえ忘れられていく。そして朽ちた櫓だけが夢を見る。あるいは思い出を忘れないでいる。子供たちが星を見てはしゃぎ、歌い、笑い合った、あの夏を、星逢の夜を。その幻だけが野を駆ける…
 最初に戻る、みたいなラストシーンは演出としてはありがちなものだと思います。けれどほとんど反則技に思えるくらい涙を誘って、幕は下りるのでした。

 ショーはバイレ・ロマンティコ、作・演出は斎藤吉正。
 えーと…疲れました。足るを知ってくれとか引き算を覚えようとかメリハリ大事だよとかいろいろ言いたい。
 でも私には「雪組ならこの人だけを見る!」というようなスターがいないので、ちぎちゃんも見てゆうみも見てだいもんも見て彩彩も見てれいこひとこも見て、大ちゃんもカッコいいしきんぐもがおりもまなはるもあすくんもカリもあああああとかなってしまって娘役チェックまで手が回らなくて集中力が切れる…というような見方しかできていないので、正当な評価ではないのかもしれません。
 でも楽しかったからいいです(笑)。全ツでどう変化してくるかも楽しみです。






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4 コメント

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Unknown (マユミ)
2015-10-09 06:57:38
読みながらまた泣く…つらい…。

>泉は子供たちのために晴興と逃げることをあきらめたのではないと思うのです。そういうことではないと思うのです。

そうなの!そうなのよ!だからそういうふうに見えちゃうあの演出が引っかかるの、子どものために諦めたように繋がっちゃうのが気になるのです。
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Unknown (クマナコ)
2015-10-09 16:36:45
そうなんですよね!(突然
私も、あまりにひっかかりがなくてスッと入ってくるから、
何の感想も浮かんで来なくて、観劇後言葉をなくしてました。
上演中じんわり泣いていましたけど、自分でもよく分からないしんみりした涙で、
だからどこが感動したとかもはっきりと分からなくて。

観劇記読みながら色々思い出してじんわり泣いてしまいました・・
あまり宝塚っぽくないようなとこもありましたが、
十分単純に宝塚だったような気もします。
凄くリアルに描いてるけど凄いフィクションというか・・
くーみんの今後が楽しみです!!
返信する
なるほどなるほど。 (マユミさんへ)
2015-10-13 11:41:33
そのあたり、語りましたね。
さすが母は違うことを感じるのかなと思ったのですが
そういう意味でしたか、なら納得。
でも泉のキャラクターがダメだという意見もちらほら見ますよね。
感想は人それぞれ、おもしろいものだなあ…
さて次の『るろ剣』はどうなりますとこやら。
その前に全ツちゃんと観られるか心配だー!チケ難すぎる!!

●駒子●
返信する
こちらまでありがとうございます! (クマナコさんへ)
2015-10-13 11:44:06
コメントありがとうございました。
近いうちどこかでご挨拶させていただきたいです、
語り合いたい…!(^^)
次のくーみんは全然感じの違う明るいラブコメとかが観たいです。
でも単なる馬鹿騒ぎじゃなくてちゃんとハートがある作品を、作ってくれそう…!

●駒子●
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