映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

わたしのお母さん(2022年)

2022-12-09 | 【わ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv77947/


以下、公式HPページよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。
 
 三人姉弟の長女で、今は夫と暮らす夕子(井上真央)は、急な事情で母の寛子(石田えり)と一時的に同居することになる。

 明るくて社交的な寛子だったが、夕子はそんな母のことがずっと苦手だった。不安を抱えたまま同居生活がスタートするが、昔と変わらない母の言動に、もやもやした気持ちを抑えきれない夕子。

 そんなある日、ふたりの関係を揺るがす出来事が――。

=====ここまで。

 
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 Twitterで大分前からときどき情報が流れて来ていて、家族の確執モノはつい見てしまうタチでもあり、ソフト化されるか微妙な感じもしたので、一応劇場まで行ってまいりました。

~~以下ネタバレしています~~


◆シナリオが、、、

 極端にセリフが少なく、長回しが多い作品で、映像で物語を描こうとしているのが伝わってくる。思いがすれ違う母と娘の抒情的な映画を撮りたかったのは分かるが、母親とのドロ沼確執経験者としては、どうもモヤモヤ感が残る作品だった。

 よく描けていると感じたシーンもある。例えば、夕子の夫が、母親と合わない夕子に対して「大切にしないとさ、親なんだから」とサラッと言ってしまうのとか。夕子が畳んだ洗濯物を、寛子が何気なく畳み直すのとか。

 あと、夕子が寛子にあれこれ言われてもろくに言い返せ(さ)ないシーンが多いのだけど、正直、見ていてイライラするのだが、一方で言い返せない(あるいは言い返したくない)気持ちも、もの凄く分かる。娘の心情としては、よく描けていると感じた次第。

 けれど、全般に言って、本作はかなり“観念的”なオハナシになっちゃっている。監督の想像の域を超えていない。

 何よりガッカリしたのは、寛子をストーリー上で後半に簡単に殺しちゃったこと。話の“転”とか“結”で主要人物を殺すのは、シナリオとしては非常にお粗末と感じる。もちろん、必然性が感じられれば良いのだけれど。本作の場合、どうしてもご都合主義っぽく見えてしまって、脱力してしまった。何じゃそら、、、と。

 そして、さらに違和感を覚えたのは、終盤のシーン。亡くなった寛子の真っ赤な口紅を、夕子は自分の口に塗って、その後「アタシ、お母さん嫌いだったんだ」と嗚咽する、、、というシーンなんだが。パンフに掲載されているシナリオを見ると、このセリフは「…………お母さん」としかないので、後から「嫌いだった」とセリフが加えられたのだろう。それはともかく、嫌いな人の口紅を、自分の口に直塗りするか、、、ってこと。しかも、新品でなく、使いかけのである。いくら親子でも、、、ナイわ~~、と思っちゃいました。

 本作の脚本は監督と松井香奈という女性が書いているが、あんまし男だ女だというのは好きじゃないんだけど、このシーンは、男である監督が書いたんじゃないかなーと勝手に想像してしまう。こういう、身体的な感覚って、なかなか異性には分かりにくいと思うから。ま、違うかもしれないけど。

 私なら、口紅を自分の口に塗るんじゃなくて、自分の顔が映る鏡に、自分の顔を消すように塗る、、、とかにするかな。「嫌いだった」って言葉で言わせなくてもそれで十分伝わるもんね。

 そう「嫌いだった」って言っちゃうところがね、、、。そんなん、今までの展開で見ている者は分かってるんだから、わざわざ言葉にすると、却って鼻白むというか。好意的に解釈すれば、ようやく口に出して言えたんだね、、、とも受け取れるけど。でも、私でも、母親のことを「嫌い」と口にするのは、結構心理的にハードルが高かったので、これはなかなか難しいシーンだと思うなぁ。


◆「母と娘」を描きたかったんじゃないの?

 上記のあらすじにはないが、母親の寛子さんは、若くして夫を病気で亡くしており、シングルマザーで3人の子を育てて来た人である。夕子とやむを得ず同居することになったものの、ごく短期間でその生活は破綻し、そのまま、その日のうちに突然死してしまう、、、というオチである。

 こう言っちゃ身も蓋もないけど、嫌いな母親が、あの歳で(アラ還でしょ)元気なうちに、介護の必要もなく、実に呆気なくキレイに旅立ってくれたら、娘としてはそれまでの母親のアレコレを全て水に流せちゃう気になると思うなぁ。現実には大抵の場合、ナントカは世に憚るってパターンなわけだから。

 多少口うるさいかも知らんが、あの程度の干渉は、私からすれば“ちょっと面倒臭い母親”レベルであり、娘の人生を破壊しに来るようなモンスターマザーとは言い難い。

 パンフを読んだら、杉田真一監督は、本作の話をどう作ったのかという問いに対して「次回作の企画を考えていた頃に「毒親」という言葉をよく目にすることがあって、あまりに強い言葉だったので、強烈に印象に残りました」と言っている。その後いろいろ調べて、「一括りには語れない、ひとりひとりの物語があるのだと知りました」とある。ひとりひとりに物語があるのは、アタリマエなんだが。

 共同脚本で、監督が書いたものに松井さんという女性が大きく手を加えたようだが、松井さんの書いたものは「明確に女性同士の対立の話のようになっていて、……(中略)……対立の物語を描きたい訳ではありませんでした。もう少し性別や年齢を取り払った話にしたいという原点に立ち返り、僕が引き取ってさらに書き換えていきました」と言っている。……まあ、だから観念映画だという印象を受けたのも、あながちハズレではなかったのだなと感じた次第。

 監督の言いたいことは分かるけど、「母と娘」を描きたいのなら、やはり、一度は、きちんと母と娘を正面から向き合わせるシーンが必要だったと思う。別に対立させなくても、母と娘を向き合わせることはいくらでもできるわけで。「性別や年齢を取り払った話」というけど、同じ親子を描くのでも、「母と娘」は、「母と息子」「父と息子」「父と娘」とはそれぞれ全く異なる関係性であることは、やはり性別に大いに関係性があるのだよ。その点について、このテーマを取り上げるのなら、もう少し監督は勉強すべきだと思う。

 一応、夕子が幼い頃からの、寛子との感情のすれ違いを回想シーンで描いているが、割と類型的だし、監督の狙いとは逆に極めて説明的になっている。説明的なカット割りが多いのも気になった。

 夕子と寛子の関係性を逐一描く必要はもちろんないのだけど、見ている者に、彼女たちがこういう関係性になるまでの背景を感じさせる演出が欲しいよね。シナリオ段階で、夕子と寛子の綿密な履歴を作っていないのではないか。だから、井上真央さん演ずる夕子の長回しを見ていても、そこから夕子の内面に入って行けない。ただ、スクリーンに映る井上真央さんの横顔を延々眺めているだけ。これは、俳優の演技に問題があるのではなく、シナリオと演出に難アリでしょう。……そう感じさせられる映画だった。

 本作を見終わったら、杉田監督自身が劇場に入って来て、挨拶されたのでビックリ。舞台挨拶の予告はなかったし。この日は劇場に詰めていたんですかね。お疲れ様です。

 

 

 

 

 

 

エンドロールに刈谷とか知立とか懐かしい地名が、、、

 

 

 

 

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