映画 ご(誤)鑑賞日記

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私が棄てた女 (1969年)

2019-12-23 | 【わ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv22277/


以下、YAHOO映画よりあらすじのコピペです(上記リンクのあらすじが長すぎるので)。

=====ここから。

 自動車の部品会社に勤める吉岡努(河原崎長一郎)は、自らの出世のため、専務の姪のマリ子(浅丘ルリ子)との結婚を控えていた。ある夜クラブの女から、吉岡が学生時代に遊んで棄てたミツ(小林トシ江)という女が中絶したとの噂を聞いた。

 吉岡は今でも責任を感じつつ、マリ子と盛大な結婚式を挙げるのだったが……。

=====ここまで。

 遠藤周作の長編小説『わたしが・棄てた・女』の映画化。


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◆遠藤周作もだったのか……。

 遠藤周作の小説は、恥ずかしながら読んだことがない(と思う)。エッセイは、狐狸庵シリーズをいくつか読んだが、これまた恥ずかしながら、ほとんど覚えていない。読んだのは高校生の頃だからだが、読んだ後、何年か(というかそこそこイイ歳の大人になるまで)は、ちょっと印象に残ったいくつかの文を覚えていた気がする。しかし、もはやその記憶の一片すら残っていないという、何とも情けない限り。

 ただ、遠藤の思想がマッチョだとは、ゼンゼン思っていなかったので、本作を見て少々彼へのイメージが変わった。

 本作の原作も、他の彼の著作同様、キリスト教が影響しているらしいのだが、本作を見る限りでは、ほとんど宗教色は感じられなかった。一部では、ミツに聖母的なものを見出す向きもあるようだが、原作でどんな描かれ方をしているのかは知らないが、映画でのミツは、聖母というより、ちょっとオツムの弱い、、、もっと言えば、男にとってどこまでも都合が良いだけの女、……でしかないように感じた。

 この小説が発表されたのが1963年、本作が6年後の69年。つまり、昭和38年と44年。……であるから、この内容も、まぁ、仕方がないのか。

 びっくりしたのは、原作にも同じセリフがあるのか知らんが、吉岡がマリ子の家族に挨拶に行った席でへべれけになるまで飲むのだが、それは別にいいんだけど、そのシーンで、中年男性が「女は半人間ですからね」というセリフがあるのである。これが大手を振って許されていた時代なのか、、、と、愕然としてしまった。半人間、、、。すごい言葉だよなぁ、、、。半人前とかならまだ分かるが。でもって、これに続くセリフが、確か、「結婚してor子供を産んでようやく人間になる」みたいなのだった。まあ、こういう思想は今も脈々と受け継がれておりますが、一部では。

 ある意味、このセリフは象徴的で、全編にわたり“マチズモ的なるもの”が通底しているのをヒシヒシと感じた。まあ、時代のせいもあるだろうけど、遠藤周作自身に、自覚的か否かは別として、そのような思想背景があるのは間違いないだろう。彼の著作の大半は未読だから決めつけはよろしくないと思うけど。本作などタイトルからして、“女”を“棄て”るである。推して知るべしではないだろうか?

 じゃあ何で本作を見たのさ、、、って話だが、何でだろう?? TSUTAYAの新作一覧のパッケージ画像の浅丘ルリ子がちょっと魅力的に見えたから、かな。いや、ヤなタイトルだと思いながらも、『キューポラのある街』と同じ監督だから、ちょっと見ておこう、、、と思ったんだった、確か。

 
◆原作との違いと映画の最終盤の意味するもの

 wikiによれば、原作では、ミツは老人介護施設ではなく、ハンセン病療養所に勤め、交通事故で亡くなる、という展開だったらしい。

 まあ、wikiのあらすじを読む限り、まだ本作の方が原作よりもマシな話だったんだな、という気がした。だって、原作のミツは、本作以上に吉岡にとって都合の良い“だけ”の存在じゃん。吉岡の自己憐憫を刺激し、プライドを傷つけず、自らの欺瞞にも気付かせないまま心地良くさせるだけの話に思える。

 でも、本作は、ミツが亡くなった後、吉岡に自身と向き合う機会が与えられている。マリ子にミツとのことを追及された吉岡は肩を落として「ミツは優しい。優しいということは弱いということ、ミツは俺だ」と、吉岡を醜聞からかばって過って死んでしまったミツのことを振り返る。

 ……だからといって、吉岡が自らの欺瞞に気付いているとは思えないが、その後のラストの展開で、マリ子が何事もなかったかのように吉岡と夫婦を続けている様子を見て、しかもそのマリ子の様子がどこか淡々としていて割り切っている感じがするのだが、そこにむしろ、マリ子の方こそ、自分たちの生活の欺瞞に気付いていて、でも現実を生きるために割り切っているような感じがした。吉岡がどういう人間かも承知の上で。

 そういう意味では、本作の方がいくらか話として奥行きが出たのではないか、という気がする。

 
◆ミツは本当に優しい女なのか?

  河原崎長一郎が演じる吉岡という男が、嫌悪感を催す。終盤まで、自己中全開で、さらに自己憐憫まで見せ、欺瞞に満ちた吉岡の言動に、河原崎長一郎のあの容貌が手伝って、これ以上ないってくらい鬱陶しい。見た目といい、性格といい、ものの考え方といい、こんな男に惚れるマリ子が、同じ女性として全く理解不能。

 むしろ、ミツの方が、まだ理解できる。世間知らずで、初めての男に惚れてしまった、ってことだろう。多分、相手が吉岡でなくても、ミツは惚れたと思う。ミツという女性はそういう性質の人だということ。一種の刷り込みみたいなもんでは? だから、男は初めての女性が良い、、、などと妄想するんだろうけど、こればっかしは人によると思われる。初めての男なんか思い出したくもない、という人もいるし。大半の女性は何の価値も感じていないんじゃないかね? 少なくとも私はそうですが。

 ミツの場合、男がどうこう、、、ってことよりも、本作では彼女の置かれた貧しさが本質的な問題だと思う。彼女が田舎の富豪の娘とかだったら、同じ世間知らずの田舎娘であっても、話は大分変わっただろう。貧しさ故に、ヘンな奴らに取り込まれることにもなる。

 ネット上で感想をいくつか拝見したが、ミツは与えるだけの人、赦す人、、、な感じで受け止められているみたいで、もちろんそういう見方もできると思うので否定はしない。が、冒頭書いたように、私にはもっと下世話な風にしか見えなかった。

 ミツを演じたのは当時無名の小林トシ江。この方、『ねことじいちゃん』にもご出演なさっていたみたい。ゼンゼン気付かなかった。ミツが亡くなる様は、まさに悲惨。監督が、「ミツは許す女だから、ぶざまに死ななきゃいけない」とか言って、ああいう死に様のシーンになったらしい。でも、あれを演技させられる身になると、非常に辛いものがある。小林トシ江さん自身、本作の撮影は辛いことばかりだったと回顧していたようだが。

 まあ、とにかく、教育って大事だよな、ってことを改めて感じさせられた映画ですね。多分本作を見てそんなことを思った人間はいないでしょうけど。女は可愛きゃ良い、という人は男女問わずにいますが、オツムの弱い女は、本作に限らず、どの映画でもほぼ例外なく悲惨な目に遭っていますから。可愛かろうが不細工だろうが、教育は大事です。

 

 

 

 


 

浅岡ルリ子と河原崎長一郎、バランスがイマイチとれていないカップルな気がするんだが。

 

 

 

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