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「竹下村誌稿」を読む 297 助郷 19

(大井川鉄道五和駅そばの案山子たち)

皆んな、大井川鉄道の方を向いていて、五和バイパスには背中を向けている。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

さて、助郷村々は人馬の課役を負担せしのみならず、東海道駅路の掃除をも課せられしと見えたり。延享四年(1747)本村名細帳に、

一 往還掃除丁場、長さ三十間  これは金谷町八軒屋と申す処に御座候。

かくて助郷勤役中の高当りは年々一定せずといえども、郡志の云う所を抄録すれば、

嘉永元申年分助郷、盆前、高当り高百石に付、
  人足 二百五十三人五分七厘
  馬  二十二匹二分
  銭  五貫五百十六文一分九厘     日詰会所入用定式物、惣代手間代とも
  銭  五貫七百三文三厘        農中馬打銭、その外、馬入用
  銭  一貫五百九十三文        向い川原、賄い入用

※ 馬打(うまうち)- 馬に乗って行くこと。

同盆後、高当り高百石に付、
  人足 百三十一人厘
  馬  三十二匹五分
  銭  四貫弐百六十六文四分三厘    日詰会所入用定式物、惣代手間代とも
  銭  五百十八文           向い川原、賄い入用
  銭  三貫三百三十九文五分      馬入用
  銭  三貫五百一文一分        詫び入用、年中取替金利、庭帳写し入用
   外に銭二貫三百九十五文       当正月より、庭帳一件に付、入用割

※ 庭帳(にわちょう)- 年貢を納入する現場で、その出納を記載登録した帳簿。

とあり。

されど、明治初年に在りては、高壱石に付、金弐両内外の出額に及べることあり。詳しくは本稿、村の条、参照を要す。然るに、世の推移に伴い、列藩参勤の制は廃せられ、慶応三年(1867)に至り、各駅助郷、及び当分助郷の課役を解き、平等に一人毎に銭七百文、昼食三百文を払わしむることとなり、明治元年、海内一般に助郷を勤むべきこととなし、東海道各駅に更に五万石の助郷を加属せしむ。
※ 海内(かいだい)- 四海の内。国内。

翌年四月、駅逓司を設けて、駅伝の制を定め、同四年、各駅伝馬所を廃すると共に、付属の助郷を解き、助郷惣代の名称を廃し、毎駅に通運会社を設けしめ、貨物の逓送とともに人馬の供給の方法を立て、総て相対(あいたい)を以って人馬を雇わしむ。また飛脚継ぎ立ての制度を改め、各駅に郵便事務所を置き、公衆の書信逓送の途を開き、郵便切手を発行し、量目など一の書信をして、里程の遠近に拘わらず、普く国内に通信し、同一の郵税を収めしめ、国家的経営事業の端緒を開けり。
※ 駅逓司(えきていし)- 明治初期における交通通信をつかさどる官庁。
※ 逓送(ていそう)- 宿場などを次々に経由して送ること。


兎に角、前代の制度たりし助郷の徭役百八十年、全く廃せらる。これに於いて、助郷村々は堵に安んずるを得たり。以後、人馬の継ぎ立ては専ら個人の営業となり、人車、馬車など盛んに起こり、鉄道も開け、且つ旅舎の整備も著しく進歩し、警察の制度も備わり、旅行の安寧、通信の便利、貨物の逓送、凡て遺憾なく新生面を発展せり。(大正五年十月稿)
※ 徭役(ようえき)- 国家によって人民に強制された労働。
※ 堵に安んずる(とにやすんずる)- 安楽に暮らす。また、安堵する。


これで、「竹下村誌稿 助郷」の項を終る。明日より「教育」の項となる。
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