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「竹下村誌稿」を読む 294 助郷 16

(大代川のハクセキレイ)

かなり距離があり、ひょこひょこ動くので、デジカメで撮るのは至難である。近辺でよく見かけるのは、セグロセキレイ、キセキレイ、ハクセキレイの三種だが、セグロセキレイは背の黒いのが特徴、キセキレイは胸の黄色が目立つ。だから、このセキレイはハクセキレイである。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

その後、嘉永年間(1848~1855)に至り、米国使節の来航せしより、大勢(たいせい)(とみ)に一変し、物情紛々、従って海道の行人多く、駅務益々繁く、駅吏怠慢に流れ、事務挙がらず、駅政大いに紊(みだ)る。従って助郷の負担益々加わる。幕府は寛政以来、駅政に関する法令を出せし事屡々(しばしば)なれども、その効果を収むること少なく、助郷の課役に困苦するもの、常に絶えざりき。
※ 行人(こうじん)- 道を行く人。通行人。また、旅人。

常時、金谷宿助郷は、古助郷あり、新助郷あり。勤番も一様ならざりしが、勤番村に於いて、課役に堪え難きにより、文久三年(1863)九月に至り、勤番村と休番村と、左の通り協定せり。

        金谷宿助郷申し合わせ、議定取り結びの事
一 高一万二千二百十二石             金谷宿助郷惣高
     内
  高六千百七十三石               当亥勤番
  高六千三十九石                来子勤番

右助郷勤番の儀は、前々より古助郷隔年勤め、新助郷、年々勤めに仕来たり候処、近年追々御用御通行多く、一同困窮の折柄、当亥年二月中、御上洛、還御、御用物御継ぎ立て仕り、然る所、お供立て、並び諸家様方御通行相嵩み、日々雇い揚げ賄い人馬買い入れの内、損夥しく、当番限りにては進退相成り兼ね候に付、勤番助郷村々申し合わせ、示談の上、睦み合い取り極め、左の通り。

※ 還御(かんぎょ)- 天皇・法皇・三后が出かけた先から帰ること。その後、転じて、将軍・公卿が出先から帰ることも云う。

一 高千六百七十三石               当亥勤番村高
 亥年勤めより、差賃として、
一 金千両なり。                 来子年勤番村々より出金
  亥年の儀は右の通り示談の上、当番へ請け取る。
一 高四千五百石                 当亥勤番より
                         来子年勤番へ助高分
一 高六千三十九石                子年勤番村高
  〆高一万五百三十九石             子年勤番
一 高六千百七十三石               亥年勤番村高
一 高六千三十九石                来子年勤番村高
  〆高一万二千二百十二石            来子年惣高

前書の通り示談相調い、当年の儀は、休番村々高割に相抱えず、金子にて差し出し候上は、その外御手当金、賃銭とも、休番へ御下げ渡し分、当番へ請け取り、賄い金に相成り候とも、助郷一躰に相成り候上は、村々とも、人馬の儀は惣代より触れ当て次第、聊(いささ)かも差支えこれ無き様、差し出し申すべく議定、就いては何村より惣代罷り出で相勤め候とも、会所賄い方、逼素(質素)倹約、諸村、専一助郷筋のため、永続相成るべき様仕り、万一当方より違変に及び候わば、右受け取り置き候金子相返し申すべく候。右の通り双方睦み合い、不服村御座なく候。これにより議定取りかわし、村々連印仕り候処、よって件の如し。
   文久三亥年九月七日           当番村々
                         庄屋名  ㊞
        休番村々
          役人中

読書:「すずらん通りベルサイユ書房リターンズ」 七尾与史 著
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