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知的冒険 天正の瀬替えの真実(1)

(法要のあった寂照寺/伊勢市中之町)

長兄の嫂(あによめ)の49日の法要で、夫婦で伊勢に行った。先週に続く台風22号の動きを気にしながらの伊勢行であった。朝、五時半に出て、雨の中を走り、八時半には伊勢に着いた。3時間、新東名、湾岸道、東名阪、伊勢道と、ずっと高速道路を走って、無駄がない。

帰りは台風と追っ掛けっこの、豪雨の中を帰った。カーラジオで、10分置きくらいに臨時天気情報が入り、進行の前後を、大雨、雷雨、洪水、竜巻の警報が追っ掛けてきて、気忙しく走った。午後一時前に伊勢を出て、午後4時には帰宅した。夜には、台風は東海地方の南岸を東へ抜けた。

昨夜、朝が早いからと、早めに床に就いた。ところがなかなか寝られず、思いが色々と廻った。その一つが、わが郷土史の通説を覆す、歴史的発見についてで、しばらく前から調査をしていたのだが、おかげで、ブログにまとめてみようと、決心がついた。素人の考えなど、歯牙のも掛けられないだろうが。

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  知的冒険 天正の瀬替えの真実

先だっての土曜日(10月14日)、金谷宿大学の「駿遠の考古学と歴史」講座に出席した時の話である。

講座の前に、会社勤めの頃の、町内牛尾出身の先輩U氏が、その会場にひょっこり顔を見せた。U氏は毎月同じ時間に、同じ会場の別の部屋で、墨絵の講座を受けている。前回の講座の時に顔を合せ、U氏家蔵の古文書を解読して貰いたいとの依頼があった。近頃はそんな話が多い。頼まれれば、勉強にもなるから、必ず受けて、報告書にまとめ、御返しすることに
している。

その場で、パラパラと見せて頂いた。大正時代に記された、U氏の系図と地元の歴史を記したもので、筆書きながら楷書でしっかり書かれている。B5の用紙で40枚ほどのコピーであった。そんなに難しいものではないと思って預かった。今や、大正時代の文書も、100年近く経つわけで、立派な古文書である。

その日の、曽根辰雄氏の「駿遠の考古学と歴史」講座のテーマは、「山内一豊と中村一氏」、副題として「豊臣系大名の治政と『天正の瀬替え』をめぐって」となっていた。「天正の瀬替え」は、当地、金谷にとっては、町の成立にもかかわる重要な歴史で、今までに、歴史や郷土史の先生方に、何度か講演などでお話を聞いていた。このブログ上でも、その講演内容を何度か取り上げた記憶がある。

「天正の瀬替え」の通説は、「島田市史 中巻 1968年」の記載の通りで、次のようなものである。


(「天正の瀬替え」関連地図/掛川市パンフより)

大井川の流路は昔は横岡と相賀の間を流れ、牛尾山(相賀山または駿河山ともいう)へ突き当り、西へ折れ、横岡と牛尾山の間を流れて、河原町(金谷町)を経、持淵山に当って北に走っていた。このため持淵山の東地続きである鎌塚村の大井川に沿った平坦な山裾は耕地であったけれども、天正18年(1590)、この流路が変った。

その理由として、‥‥中村式部少輔一氏が駿河の国を領有するに当って牛尾山(駿河山)を開鑿して河道を変更したといい、また相賀山と牛尾山との間に低窪の場所があり、その東に当って大きな池沼があったので、大雨や大水の時にはこゝが流路の一筋となっていたといい、さらにこの場所へ人為を加えて分流したのを広げたものであるともいわれ、一方ではその場所が自然欠(決)壊して河道となったとも伝えられている。

(つづく)
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