平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
水掛地蔵、99小菊堂、手無地蔵 - 駿河百地蔵巡り 15回目
(昨日の続き)
次の水掛地蔵として、事前調査で地図にポイントしたのは、伊豆箱根鉄道、三島田町駅の南、100メートルほどのところであった。そこまで行ってみるが、お地蔵さんらしきものはない。地元の人を呼び止めて訪ねていると、たちまち3人ばかりが立ち止まって、25000分の1地図を中にして、首をひねり出した。所在地が南本町というと、それなら300メートルほど西だと教えてくれた。電柱に南本町の表示を見つけて、水掛地蔵を探したが、見つからない。再び、散歩の老人を呼び止めて聞いた。首をひねっていたが、そこの食堂の前にあるお地蔵さんのことだろうと、教えてくれた。
半信半疑で行ってみると、小さなお地蔵さんがあった。胴体の割に顔が大きな、今風のお地蔵さんである。脇に「水掛地蔵」の立て札があった。そばに竹筒から一筋の水が落ち、その水を柄杓で掛ければ願いごとが叶うという事らしい。この地蔵、後で調べると「佐野美術館」とあり、そこは佐野美術館の前であった。はじめからそれを知っておれば、途中に幾つも標識があって、最短距離で導かれたはずであった。三島は町中に富士山の湧き水があちこちに湧き出していて、水掛地蔵とは、いかにも三島らしいお地蔵さんである。
(小菊堂)
第九十九番小菊堂は、三嶋大社の鳥居前から真っ直ぐに南下する、県道141号線を500メートルほど行った左側にあった。朱色の屋根の地蔵堂である。立て看板に「駿河一国百地蔵尊第九十九番 言成地蔵尊(小菊堂)」と書かれていた。
小菊堂(言成地蔵尊)の由来を書いた案内板があった。貞享四年(1687)、小菊という6歳の娘が、播州明石城主松平若狭守直明の行列の供先を、向側の母親の元へ行こうとして横切った。当時、大名行列を横切れば切り捨てられても仕方がなかった。役人は「犬だ、捨ておけ」と言ったが、供先下役人が小菊を捕らえ、短気な二十五歳の大名は怒って切り捨てるように言った。
三島宿は大騒動となり、町名主、問屋場、本陣、さらには玉沢妙法華寺二十四代日迅上人まで出て、命乞いをしたが、聞き入れられず、小菊は切り殺された。小菊の父源内は娘の仇を討つため、箱根山中、塚原新田で行列を待ち受け、鉄砲で打ったが、察知されて空駕籠だったたね、無念が晴らせなかった。小菊のあわれな死を悼み、里人は地蔵尊を祀り、大名の言い成りに斬られたところから、言成地蔵尊と名付けた。
行列を横切っても、相手が子供で悪意が無ければ、犬だから咎めるに足らないと、事を荒立てないのが、当時でも大人の対応であった。馬鹿な大名の下で、めったに起きないことが起きてしまった。立派な小菊堂は庶民の痛烈な批判であったはずだが、江戸時代を通じて咎められることもなく、現代まで残った。供先を過ぎる事件としては、幕末の生麦事件を思い出す。
(手無地蔵)
次の手無地蔵は、伊豆箱根鉄道に沿って、さらに2キロほど南下した県道端にあった。空腹を抱えていたので、お参りの前に、地蔵堂の縁側に腰を下し、途中のコンビニで求めたサンドイッチを食べた。
手無地蔵に付いても、謂れが立て札に記されていた。焼けて荒廃した神社跡に地蔵堂が建った。そのそばにあった石地蔵は、よく化けては人を驚かせていた。ある時、いつものように化けて、若侍の髪を引いたら、逆にその若侍に左手を切り落とされてしまった。それで手無地蔵と呼ばれるようになったという。なお、その若侍は源頼朝だという言い伝えもある。そういえば、この辺りは若き日の頼朝が育った地域である。立て札には記されていないが、その左手の欠けた石地蔵がこの地蔵堂に祀られているのであろう。(つづく)
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