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雨桜天王社神主の一件(4) - 掛川古文書講座

(庭のリョウノヒゲの碧い実)

午後、掛川古文書講座へ出席した。本日解読したのは「雨桜天王社神主の一件」で、今日は訴えられた側の、戸塚肥前、中村因幡の反論である。この一件は天明四年(1784)に始まり、(1)から(3)までの文書は、一応の決着を見た寛政二年(1790)に、訴えた側の上村筑後が、郡奉行所に宛てて記した報告書であった。本日の文書は天明六年(1786)、時系列的には一件の決着の四年前に出されたものである。以下にその文書を読み下し文で示す。

     恐れながら返答、書付けを以って申し上げ奉り候
一 上村筑後申し上げ候一々、私共へ仰せ聞かされ、承知仕り候、その趣、格別相違も御座なく、かつ雨桜天王、六所大明神、両社絵図、これまた筑後差し上げ候通り、相違御座なく候えども、釣鐘の銘に、私共先祖両人に御座候、相違なき儀は、古来万治三年までは皆々社人仲間、平名にて御座候、則ち、万治三年までの名前、左の如くに御座候

     平尾長門先祖
       平尾四郎兵衛
     近藤淡路先祖
       近藤太郎左衛門
     山崎出雲先祖
       山崎源左衛門
     戸塚肥前先祖
       戸塚三郎左衛門
     中村因幡先祖
       中村三郎右衛門
     上村筑後先祖
       上村新兵衛

右、万治三年までは、何れも同様の儀に御座候処、この儀を筑後申し候は、釣鐘の銘を我が先祖か、人の先祖か、相知らず候と、申し上げ候由、全く遠州国などにおいて、左様のみだりの儀、御座なく候、何れ名字大切と致す仲間の内外に、中村と戸塚の名字御座なく候、かつ六所大明神の内陣棟木に、神主とは御座なく候えども、戸塚三郎左衛門、中村三郎右衛門と御座候えば、両家の先祖に相違御座なく候、惣氏子も存じ候事に御座候、右の趣、村役人相談を以って、御領主表へ申し上げ、庄屋奥印仕り、差し上げ候儀に御座候えば、少しも相違御座なく候

六年以前、丑年までは上村筑後、何れも仲間同様に、社役相勤め申し候えども、四年前より、只今の筑後に相成り候て、社役等上下を付け、その上筑後申し候は御朱印の儀は、こなたよりくれ置き候間、皆々のものども、我ら手下と存ずべき旨、申し候、仲間ども一同に心よからず存じ候えども、筑後は漸々四年前、江戸表より養子に参り候ものに御座候えば、勝手も存ぜず事うえ、仲間ども了簡仕り罷り居り候


「御朱印の儀」とは、御朱印状により、公儀より七十五石をいただいており、社役に応じて配当していることをいう。

上村筑後が四年前に江戸から養子に来た者であることなど、上村筑後の文書にはなかったことが、ここには書かれていて興味深い。(明日へつづく)
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