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「さあ、巡礼だ」を読む

(加賀山耕一著「さあ、巡礼だ」)

図書館で見つけて、久し振りにお遍路体験本「さあ、巡礼だ」を読んだ。自分で本を出す前と後ではお遍路本の読み方が全く変わった。常に自分の体験、記録と引き比べながら読んでいる。そして、同じ八十八ヶ所を歩いた経験なのだが、体験が全く違い、その記録も大きな違いがあった。

著者の加賀山耕一氏は1993年、37歳の時に14年振り2回目のお遍路に出かける。塾の経営からライターとして独立する決断のお遍路であったようだ。同じ歩きでも、彼は若かったから野宿を主としての歩き遍路である。自分は宿へ泊まる歩き遍路であった。同じ歩きでも、この違いが予想以上に大きいことが知れた。

もちろん、彼と自分では遍路の時期に20年近い隔たりがある。遍路道の整備など、遍路事情も大きく変化している。当時、年間1000人ほどであった歩き遍路が、今では3000人といわれるように、歩き遍路も3倍に増えたお遍路ブームもあって、すいぶん改善されていると思った。当時の遍路ころがしも、遍路道が整備されると普通の山道になってしまう。

野宿のお遍路は24時間、お遍路しているのに対して、宿泊りは宿に入る間は心も身体もお遍路から離れて休むことが出来る。これはとても大きなことで、我々の年齢では野宿は無理だったであろう。野宿のお遍路は宿に泊まるお遍路とはなかなか交流が難しい。一方、宿泊まり同士なら、宿での長い時間に色々な交流が出来る。情報の交換もそこで行なうことが出来る。一方、野宿の遍路は野宿の場所を決めるために、地元の人たちと交流が生れる。つまりは、同じ四国の空の下で40日を越える日々を過ごしながら、全く別の人々と交流しているようである。それは宿泊まりには味わえない、すごくスリリングで感動的なふれあいである。

いつ風呂に入り洗濯したか判らない青年遍路と、毎日風呂と洗濯は忘れない爺さん遍路では、四国の人々の見る目が違うようだ。前者は危うくて放って置けない気持になるが、後者は大丈夫と気にもならない。第一、心配になるたそがれ時には、後者はとっくに宿に入っている。宿に泊まれないほど、お金も無いのだろうと、前者には御接待が集中するし、後者へは御接待も限られているようだ。

そういう違い以外に、この本は記録の方法が違っている。自分はその日その日に記録をブログに書き、大きく書き加えることも無かったが、彼の遍路記はメモを元に、戻ってから実に七年掛かってまとめ本にしている。総頁で400ページを越えるもので、歩きながらずいぶん色々と人生、社会、宗教などを思索している。自分のお遍路に照らしていえば、遍路中はほとんど難しいことは考えていなかった。毎日一人ずつ自分の身の回りで亡くなった方を思い出して、ブログに書いて行こう思ったが、すぐにそんな事は無理だと気が付いた。

「さあ、巡礼だ」を読んでの感想は、一言で言えば、お遍路が元になっているかもしれないが、帰ってきてから作り上げた作品で、現実に歩きながら感じたり、思ったことは限られているのではないかということである。その作品化の作業のために、お遍路の苦労や感動などがかなり薄まっていると思った。これはこれで一つの作品ではあるが、この本に触発されてお遍路へ出ると、実際とのギャップにかなり戸惑うことになるであろう。
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