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清水磨崖仏群

(鎌倉時代の線刻の三大宝篋印塔)

「吹上の千本楠」を見た後、道すがら、同行者に、かつて女房と中山道を歩いたとき、滋賀県の守山宿の近くで遭遇したエピソードを話した。

街道を歩いていて「磨崖仏」の案内板を見つけた。近くにあるものと思い、場所を聞いたところ、お堂に招じ入れられた。やがて作務衣を着て首に輪袈裟をかけた高齢の老人がおぼつかない足取りでやってきた。合掌させて般若心経を上げたのち、無料だと言ってお守りを寄越した。

話すうちに、我々がお参りに来たのではないと察したようだ。そして昔話を始めた。軍隊から帰って戦後大阪で木材市場を始めるなど、実業界で活躍したのち、80歳になってから坊主になろうと発心し、高野山や延暦寺の門を叩いたが、高齢を理由に断られた。ようやく三井寺で許され、修業して坊主になった。現在92歳、最近脳梗塞で少し身体が不自由になったが、人々を救いたいという意欲は衰えないと、波乱万丈の一代記を語ってくれた。「磨崖仏」は梵字を刻んだもので、故郷の鹿児島に現在もあると聞いた。祭壇にはその梵字の拓本がご本尊のように祀られていた。

80歳で発心するとは、世の中にはすごい人がいる。あれから5年経つが、高齢だったからもう亡くなっているかもしれない。鹿児島にあるという梵字の磨崖仏をいつか見てみたいと思っている。

金峰町で食事を採り、川辺町を車で走っていると「清水磨崖仏群」の標識が見えた。もしかしてその磨崖仏であろうか。急遽、見学しようとハンドルを切った。

清水磨崖仏群は、清水川沿いの高さ約20mの崖に彫られている。現在200ほどが確認されているという。遊歩道を歩いて行くと、左側の壁面に線刻された宝篋印塔、五輪塔などがたくさん並んでいる。時代は古くは平安時代の終わりから、鎌倉、室町、明治の各時代に亘っている。その規模や仏教的価値から、昭和34年に鹿児島県の文化財に指定された。


(室町時代の浮彫り五輪塔)

鎌倉時代には線刻の宝篋印塔や五輪塔が多く、室町時代には浮き彫りにされた五輪塔が多い。明治時代には浮彫りの十一面観音像や阿弥陀像なども刻まれた。宝篋印塔や五輪塔は供養塔で、特に室町時代には生前に刻むのが慣わしであったようだ。


(明治時代の十一面観音像)

注目した梵字を刻んだものは一組あった。守山で見た拓本は菱型の枠内に刻まれていたが、ここのものは丸枠内に刻まれている。ここのものではなかった。
(※ 帰宅して5年前の記録を調べたところ、目的の磨崖仏は薩摩川内市樋脇の「倉野磨崖仏」と記してあった)
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