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「竹下村誌稿」を読む 108 質侶郷 8

(裏の畑のオダマキソウ)

裏の畑の甘夏の下のオダマキソウが咲いているのを見付けた。この所、裏のアパートの半分が取り壊されて、今日、二階建ての建物がすべて無くなり、土台を毀していた。工事はもうすぐ終わるだろう。この後、何か建物が建つのかは判らない。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

その製品は主として日用品を造り、傍(かたわ)ら装飾品をも出せり。その生産価格(大正元年)二千六百円を算し、県下及び東京に販出す。また近古、この地にて作り出せし陶器は、堅牢雅致ある茶器を以って名あり。その内、祖母懐焼(そぼかいやき)と称する茶壺を、最も有名とす。筆の序(つい)でに、この焼物に関する古文書を、掛川志より転載して参照となすべし。

志戸呂陶器は、尾州瀬戸の陶工、初めてこの里に来たり、造り出せしより、志戸呂焼と称す。天正十六年(1588)、御朱印を賜り、それより相続きて焼く。また相賀、神座の二村に移り、またこの村に移り、初め竈屋の段にて焼き、後、村の西に竈を造りて焼く。今は造ること多からず。僅かに耕種の助けとするのみ。元来ここより出ずる物は、大方下品なれども、昔は陶器も少なくして、今の如くには非ざりし故に、茶家者流などにおいて、稀に名称あるものもあり。その中、祖母懐茶壺を以って最名物とす。
※ 耕種(こうしゅ)- 土地をたがやして、種や苗を植えること。
※ 者流(しゃりゅう)-(名詞に付いて、接尾語的に用い、その種類の者であることを表す。)その仲間の者。その連中。


陶家旧十三軒あり。その家存するもの、今九軒、加藤忠右衛門、加藤平七、永井伝右衛門、永井伝八、鈴木金右衛門、鈴木善右衛門、鈴木新五兵衛、永井清兵衛、鈴木源右衛門、この内、加藤氏は名人藤四郎の子孫と云う。(加藤四郎を略して藤四郎と呼び習わしたり)

「祖母懐」昔尾張と美濃の山中、姥が懐と云う所にて、初めて作り出せるに因って、祖母懐と名付く。この村の陶工も、また尾州より来たりし故に、祖母懐を以って名とすと云う。本州民間に蔵する祖母懐壺を観るに、壺の底を、「祖母懐加藤四郎」「姥懐」「前朝祖母懐」「金右衛門作也」「祖母懐延宝九年正月吉日」「瓶谷鈴木伊右衛門作之」など記せるもあり。その中「祖母懐加藤四郎」「姥懐」「前朝祖母懐」と記したるは最古物なり。その外は、延宝以後までも相継(つ)いで造り出せるを、皆な祖母懐と称せしなり。今は祖母懐と称する事なし。
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