平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
伊藤清次郎さんの「天災地変記録」(続き)1 - 掛川古文書講座
朝、掛川のY氏に電話した。3月始めにメールをもらっていたのに気付いたからだ。最近返却された茶畑に、デコポンを30本ほど植えようと、作業しているという。本格的に農業を始めるようで、ハルミというミカンも植えたらどうかと提案すると、実はそれも植えようと思い、これから苗を買いに行くところだと聞いた。ならば、ハルミの苗2本をついでに買って来てくれないかと頼んだ。実は、裏の畑のデコポンも、ネットでY氏と共同購入したものであった。
午後、掛川古文書講座に出席した。帰ってくると、Y氏から電話があったと聞き、折り返し電話すると、ハルミの苗が手に入ったと言い、苗を届けてくれた。早速植えてみよう。うまく育てられるか、楽しみである。
掛川古文書講座では、先月、今月の2回は2013年に同講座で読んだ、伊藤清次郎さんの「天災地変記録」の続きであった。2013年の分は2013-12-12のブログまで、8回に渡り分載している。その時は明治直前の、慶応3年の記事で終った。実は同記録には、その続きがあり、明治8年まで続いていた。今回、掛川古文書講座で、その続きを読んだ。以下に、その読み下したものを紹介して行きたいと思う。
天災地変記録
伊藤清次郎
一 慶応四辰年、正月十一日夜、一橋将軍様、御帰城に相成り候由、風聞す。四月、有栖川宮様御下向。閏四月九日大降り。官軍江戸へ着す。野州宇津ノ宮城、戸田様浪士の為に落城すと申す。その外、小川城、その外二ヶ城も落城と申す風聞なり。十五、六日頃より雨がちにて、廿一日中水、善光寺下水六、七尺。廿四日、浪人駿河辺より東海道を登る由にて、太田様御城下、御領分境まで、歩兵五十人ずつ御廻りに相成り、御厳重の御事なり。
五月八日中水、善光寺下水丈六、七尺。また十二日大満水、善光寺下水丈八、九尺。十四日またまた大降りにて、原川橋落ちる。十九日また大降り、廿日大満水、善光寺下水丈八、九尺。五月四日、さなぶりにて、廿日五つ時分まで、田面は一面水畔越しにて、久保通り残らず苗切れ、皆な仕付無き荒地と相成り。
※ さなぶり - 田植え終了後の祝いまたは休日。田の神が、田植えが終るのを見て帰る日。
六月三日、四條殿御下向、掛川様御人数百人ばかり、袋井まで御出向え。脱走人、上野にこもる。五月十五日、十六日、上野黒門前にて戦争これ有り。湯嶋天神辺り、浅草門跡辺りまで焼失いたし、未だ間々に小ぜり合いこれ有る由、風聞す。薩州様御人数下る。
※ 浅草門跡(あさくさもんぜき)- 浅草本願寺。
七月十六日中水。同十九日、中水。七月廿六日、徳川慶喜様、駿府へ御着。八月十五日、徳川亀之助様御着。雨天に付、田方へ虫、横領す。奥州、越後、出羽、野州辺り乱る。天子様御東幸、日々御沙汰これ有り。往還通り掃除厳しく、十月一日、天子様浜松御泊り。天龍川船橋掛ける。川井村より太田様御掛りにて、道筋掃除致す。見付御昼。掛川御泊り。
十一月、奥羽平定の風聞す。太田様より、五ヶ年収穫取り調べ仰せ出さる。十二月七日、四條様掛川御泊り。八日、天子様、江戸御発駕の由。九日、九條様御通行。十一日、御宿割御通行、天子様御登り。
※ 九條様(くじょうさま)- 九条道孝。新政府軍の奥羽鎮撫総督に就任。戊辰戦争では東北地方を転戦した。
改元有りて、明治元年と成る。十二月、太田様下総国へ御国替え仰せ付けらる。御領分村々毎戸、氏神様より、日坂宿八幡様へ御国替え御免に相成り候様にとて、寒中はだか参りする。弥々徳川様へ御引き渡しに相成り候。(つづく)
読書:「坊っちゃんのそれから」 芳川泰久著
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