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道聴塗説 その四 5

(静岡、城北公園内、日本庭園のカモ)

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「道聴塗説 その四」の解読を続ける。

況んや、本より自力の称名は臨終の所期、思いの如くならん。定めて邊地の往生なり。(邊地の往生にも臨終正念なるは、大経の、下輩の夢見彼仏の如し。これ邊地に生ずれば終には報土に転生すれば、天道などに生るゝより甚だ勝れたれば、臨終も正念なり。)
※ 所期(しょご)- 期待すること。また、期待するところ。
※ 大経(だいきょう)- 浄土宗・真宗で、「無量寿経」のこと。
※ 夢見彼仏 - 大経より「此人臨終、夢見彼仏、亦得往生」(訳:この人の終りに臨んで、夢の中で彼の仏を見て、往生することができる。)
※ 天道(てんどう)- 六道の一つ。天人の住む世界。


如何に況んや、過去の業縁逃れ難きによりて、これらの障難に遇わん機(人)涯分の所存も達せんこと難きが中に難し。その上へまた懈慢、邊地の往生だにも、叶うべからず。これ皆な本願に背くが故なり。
※ 涯分(がいぶん)- 身分に相応していること。身の程。分際。
※ 懈慢(けまん)- 懈慢界。極楽往生の願いを自力で達成しようとする者が生まれる世界。快楽が多く、極楽浄土に生まれようとする本来の目的を見失うという。


今按ずるに、この一章は機を疑う行者の意に隨いて、安心を示し給う。これ故に、自力称名などと標して、覺信房の臨終念仏は他力不思議の致す処を決し給う。今世の道俗、この旨を心得違うて、他力の行者は臨終正念は要らぬことと存ずるは、大謬妄なり。
※ 謬妄(びゅうもう)- 根拠がなくでたらめなこと。

但し凡情の上にて臨終を沙汰せば、正念のほど、覚束なきこと、数多なるべし。過去の宿因に感じたる身なれば、如何なる死縁にて、水、火、怨賊の害、免れ難く、その刹那に及びて、正念を取らんこと、凡慮として定め難きこと、道理なり。
※ 怨賊(おんぞく)- 盗賊。七難の一つ。「法華経」では、七難を、火難・水難・羅刹難・刀杖難・鬼難・枷鎖難・怨賊難という。

かく凡慮には存すれども、仏智の不思議として、覚信房の如く重病に臥し、呼吸くるしき中にも、称名を相続するは、如何が心得べきや。また凡慮の上には、臨終正念までは待たず、流義に伝わる、最初皈命の一念に往生は決定と心得る事も、悪業深き身にて、何とて信ずべきや。これ仏願の不思議にて、往生すると心得ぬるには、身の善悪に拘わる事もなし。他力に依りて信を得てみれば、念々の称名、皆な正念なり。
※ 皈命(きみょう)- 帰命。全身全霊をもって仏陀に傾倒すること。

行巻に「今、弥勒付属の一念は即ちこれ一声、乃至正業は即ちこれ正念、正念即ちこれ念仏」と仰せられて、平生の念仏の外に、別の正念なし。
※ 行巻(れい)- 親鸞著の「教行信証」は浄土真宗の教義を組織体系化した書として知られるが、教・行・信・証・真仏土・化身土の6巻で構成されている。「行巻」はその2巻目。
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