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道聴塗説 その四 4

(城北公園のハクモクレン)

午後、駿河古文書会で静岡へ行く。東名の上り、焼津、静岡間でタンクローリーがひっくり返る事故があり、通行止めになっているというので、国一は混むだろうと思い、新東名を使った。高速料金は千円ほど掛かるが、随分早く着いた。

三月三日は駿河古文書会の創立の日だと聞く。46年前のことだという。自分が会社に入って2、3年の時である。随分長く続いた会である。

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「道聴塗説 その四」の解読を続ける。

仮令(たとい)本願の正機たりと云えども、これらの失、難治不可得なり。(この意ならば、本願の正機は他力称名の人なるべし。かく他力の行者も、臨終の先途は兼ねてより定め難し、と仰せらるゝに似たり。今、詳するに、本願の正機は仏智と相応すべし。仏智の不思議にて定むる。往生には臨終正念も定むるべし。その仏智の上を凡慮として、極め難ければ、難治不可得の御事は心得難し。
※ 難治不可得(なんちふかとく)- 免れることができない。
※ 正機(しょうき)- 仏の教えや救いを受ける資質をもつ人々。


されば、聖人仰せに、めでたき御仏の御誓いのあればとて、わざとすまじき事をもし、思いまじき事どもをも、思いなどせんは、能々この世の厭わしからず。身の悪きことをも思い知らぬにて候ヘは、念仏に志もなく、仏の御誓いにも志のおわしまさぬにて候へば、念仏せさせ給う事も、その御志にては、順次の往生も堅くや候えからんと、あれはこれ本願に誇りて、悪を作る人は、念仏すとも往生は叶うまじと申すことを、順次に往くも難くや候へからんと仰せられたるは、かく本願に誇る、悪人なれども念仏を申す故に、この念仏の不思議は、凡夫として計り難ければ、邊地の往生などを得べきや。
※ 邊地(へんじ)- 極楽浄土の片隅の地。往生を願い求めながらも弥陀の本願に疑惑を抱いていた者が生まれる所。

報土の順次往生は成り難からん。それとも、決定して極め難きは、仏智の不思議なる故に、順次の往生も難くや候えからんと、不定げに仰せられたり。かく本願に誇り、悪を造る邪見の行者なれば、決定して往生遂げざることさえ、仏智を憚(はばか)り給いて、不定げに仰せらるゝに、今の鈔は仮令本願の正機たりとも、難治不可得とは余り厳しき仰せなり。
※ 報土(ほうど)- 業に応じて報われる国土の意。

これに依りて、鈔の意を按ずるに、凡情の疑端にて、本願の正機たりとも、臨終の正念を定めんことは、覚束なく思う旨を挙げて、その定め難き正念を期さねば、往生に非ずと心得たる機を、難治不可得とは仰せられたり。)
※ 疑端(ぎたん)- 疑念。疑点。疑わしい点。
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