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‟直虎”文学散歩(3) - 掛川文学鑑賞講座

(井殿の塚)

朝一番で、当班が地区の宮掃除の当番に当り、出向いた。秋のお祭りの終わった後で、もっぱら、落ちた枯れ葉の掃除をした。落葉樹ではないけれども、照葉樹もけっこう葉を落す。新陳代謝しなければならないから当然なのだが、竹ぼうきで玉砂利の上を掃きながら、そうなんだと改めて思う。

一昨日、駿河古文書会で通った、城北公園では、風が吹くわけでもないのに、ケヤキの枯れ葉が、雪でも降るように、下を歩く身体に降り注いでいたのを思い出す。もちろん地面は枯れ葉で敷き詰められていた。すでに掃除の作業車が入っていたが、これを掃くのは大変だろうと同情した。

宮掃除は一時間は掛かると思い、皆さんより少し早めに仕舞わなければと考えていたが、存外に早く終わってしまった。そのあと、予定の駿河古文書会の見学会に、静岡へ出掛けた。会場の社会福祉会館には、10時の集合より随分早く着いた。(見学会の話は後日)

‟直虎”文学散歩の続きである。

井伊谷城跡から下る。登りと違って下りは楽である。会員のY氏と元気よく下った。途中の分かれ道で来た道とは別の、二宮神社へ通じる道を下った。講師の和久田氏より、分かれ道を下り、二宮神社へ訪れることを勧められていたので、行ってみた。


(二宮神社)

下った所に二宮神社はあった。かつては、井伊郷の荘司、三宅氏の始祖多道間守(たじまもり)を祭神とし、三宅神社と呼ばれていた。井伊城を拠点に、中部、関東の諸国に活躍した、後醍醐天皇の皇子、宗良親王が当地で亡くなったあと、その尊霊をこの三宅神社に合祀し、以後、この二柱を祭神として、二宮神社と呼ばれるようになったと、神社の由緒にあった。

地元の方に尋ねながら、集合場所の図書館に戻る途中、「井殿の塚」に寄った。玉垣に囲まれた狭い矩形の地に、タブノキの大樹と、小さな2基の宝篋印塔が立っていた。「井殿の塚」は、直虎の祖父21代直宗の弟、直満(直政の祖父)と直義を供養したもので、井伊氏居館の一画にあったという。直満、直義兄弟は、井伊家の家老、小野和泉守の讒言により、謀反の疑いをかけられ、駿府で今川義元によって殺害された。井伊氏一族の苦難の歴史、その始まりの事件であった。


(共保出生の井戸の橘)

この後、龍潭寺へ移動、最初に井伊氏初代共保出生の井戸を訪れた。訪れるのは3度目だろうか。そばに橘(ミカン)の木があり、キンカンより少し大きいくらいの、小さい実をたくさん付けていた。訳知りの会員が、この実は江戸時代には収穫して、彦根城の家臣たちに、縁起物として配られたと説明があった。もっとも橘の根元にはライオンズクラブ植樹との表示杭があり、もちろんこれがその橘というわけではない。(つづく)
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