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‟直虎”文学散歩(1) - 掛川文学鑑賞講座

(三の丸広場にある瓦のシャチホコと掛川城)

朝から、掛川文学鑑賞講座の“直虎”文学散歩に参加した。駅まで息子の出勤の車に同乗したので、駅からゆっくり歩いて来たけれども、8時30分集合の所、8時前には集合場所の三の丸広場に着いてしまった。さすがに誰も姿がない。お天気が良いので何とも気分は良い。紅葉を入れた掛川城などを、デジカメで撮ったりして、時間をつぶした。参加者が集まり出したのが8時15分ごろで、市のバスも図書館の担当も集った。そして30人の参加者を乗せて、予定通り8時40分に出発した。

最初に訪れたのは、浜松市祝田の鉢前神社である。ここには既視感があった。「遠州濱松軍記」をこのブログに解読掲載していた時、三方ヶ原の根洗松から細江方面に下る旧道、祝田坂を訪れていた。この祝田坂で、信玄と家康は三方ヶ原の戦いの火蓋を切った。その麓に蜂前神社があり、おそらく当時、戦いのただ中にあっただろう。その時、この神社にも訪れていた。


(祝田の鉢前神社)

三方ヶ原の戦いは、元亀3年(1573)のことで、それよりわずか20年足らず前の、弘治元年(1555)、直虎の許婚だったと伝わる、亀之丞(後の直親)が、身を隠していた信州から帰還し、井伊家の領地だったこの地、刑部郷に住み、桶狭間で主君・今川義元と同時に戦死した直盛のあと、井伊家の家督を継いだ。奥山因幡守の娘を娶り、後に徳川四天王に数えられる井伊直政が生まれている。

それから、直親は10年足らず後の、永禄5年(1563)、家老小野但馬守の讒言を、弁明に向かう途中の掛川で、今川家の重臣・朝比奈泰朝の襲撃を受けて討ち死にした。享年28。その時、20人の一行であったが、全員殺され、直親の身だけが当地に運ばれて、家臣たち19人は現地で葬られた。それが、今に掛川に残る十九首塚(平将門の首塚と伝わる)だという新説が出ている。

この鉢前神社には、還俗して直親の跡、家督を継いだ直虎に対して、今川氏真から迫られた徳政令(拒み続けるも、2年後実施)に関係する直虎が出した書状がその花押とともに残っており、現存する直虎唯一の花押とされている。(この書状は先週の「駿遠の考古学と歴史」講座でも話があったが、鉢前神社の所蔵とは認識していなかった。)


(井伊直親の墓)

鉢前神社を後にして、それほど離れていない、井伊直親の墓に行った。直親の墓は、都田川の土手下にあった。直親の屋敷跡と墓地は都田川添いにあったが、川の改修で無くなり、墓のみ、この地に移されたという。その小さな墓は当時の井伊家の置かれた位置を示している。墓前の2基の石灯籠は、桜田門外の変時の大老・井伊直弼が、井伊家の御先祖の墓参に訪れた時に、寄進されたものという。(つづく)
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