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私の古文書遍歴のルーツを発見

(散歩道のコマツヨイグサ)

今、思い返してみると、自分が古文書というものを初めて見たのは、遥か昔、50年前のU氏の実家であった。同窓会でそんな話をU氏にした。一度、仲間で、城崎のU氏の実家に泊ったことがあった。城崎温泉の通りに面した、木造三階建ての家は、廊下を歩くと、ミシミシと建物全体が揺れるような古い家であった。

その一室に座机があり、机の上に筆で書かれた古文書を写真で撮ったものがあった。当時はまだコピーなどという便利なものもないから、写すには手書きか、写真に撮るしかなかったのだろう。一瞬見ただけだったので、あれは本当に古文書だったのだろうか。古文書解読を勉強するようになってから、そんな思いが、時折り去来していた。U氏のお父さんは高校の国語の先生だったと聞いている。おそらく、何かの研究テーマを持って、古文書を解読していたのではないかと思った。しかし一瞬見たものを50年も記憶に留めていたのは、この世界に縁があったのだと思う。

今度の古希同窓会で、U氏にその点を尋ねてみた。自分の予想は当っていた。往時、U氏のお父さんは国語の教師をしながら、同好会に参加していて、「青谿書院の池田草庵」を研究しており、関連古文書の解読していたという。U氏のお父さんは早くに亡くなられ、研究も頓挫したが、その資料は今もU氏の弟さんが保管されていると聞いた。

青谿書院の池田草庵という人はどういう人なのか調べてみた。草庵は、文化10年(1813)に、宿南村(兵庫県養父郡にあった村)の農家、池田孫左衛門の三男として生まれ、文政8年、13歳で広谷村(養父郡にあった村)にある満福寺で出家し、仏道に励むかたわら、読み書きを学んだ。17歳のとき、広谷村に滞在していた京都の儒学者、相馬九方の講義を受け、学問に目覚め、僧侶になるより儒学の道を選んだ。

天保元年(1831)に19歳で上京し、京都の相馬塾に入門した。相馬九方は荻生徂徠の流れをうけた古文辞学派の儒学者である。23歳の夏には相馬塾を去り、京都梅宮に移転して、翌年の天保7年(1836)に、松尾神社の神官の草庵を借りて、読書思惟に没頭した。その時から草庵の号を使うようになった。

天保14年(1843)に、郷里からの懇願によって但馬に帰り、弘化4年(1847)、35歳の時に宿南村に青谿書院を建てた。ここで、終生自分の学問と修養につとめた。慶応元年(1865)、53歳で豊岡藩や福知山藩にたびたび出講するようになった。草庵の学問は朱子学と陽明学を融合させたもので、明治11年に66歳で亡くなるまで、全国30ヶ国から集まった673人もの人材を育成し、「但馬聖人」と呼ばれている。
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