平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
私の古文書遍歴のルーツを発見
今、思い返してみると、自分が古文書というものを初めて見たのは、遥か昔、50年前のU氏の実家であった。同窓会でそんな話をU氏にした。一度、仲間で、城崎のU氏の実家に泊ったことがあった。城崎温泉の通りに面した、木造三階建ての家は、廊下を歩くと、ミシミシと建物全体が揺れるような古い家であった。
その一室に座机があり、机の上に筆で書かれた古文書を写真で撮ったものがあった。当時はまだコピーなどという便利なものもないから、写すには手書きか、写真に撮るしかなかったのだろう。一瞬見ただけだったので、あれは本当に古文書だったのだろうか。古文書解読を勉強するようになってから、そんな思いが、時折り去来していた。U氏のお父さんは高校の国語の先生だったと聞いている。おそらく、何かの研究テーマを持って、古文書を解読していたのではないかと思った。しかし一瞬見たものを50年も記憶に留めていたのは、この世界に縁があったのだと思う。
今度の古希同窓会で、U氏にその点を尋ねてみた。自分の予想は当っていた。往時、U氏のお父さんは国語の教師をしながら、同好会に参加していて、「青谿書院の池田草庵」を研究しており、関連古文書の解読していたという。U氏のお父さんは早くに亡くなられ、研究も頓挫したが、その資料は今もU氏の弟さんが保管されていると聞いた。
青谿書院の池田草庵という人はどういう人なのか調べてみた。草庵は、文化10年(1813)に、宿南村(兵庫県養父郡にあった村)の農家、池田孫左衛門の三男として生まれ、文政8年、13歳で広谷村(養父郡にあった村)にある満福寺で出家し、仏道に励むかたわら、読み書きを学んだ。17歳のとき、広谷村に滞在していた京都の儒学者、相馬九方の講義を受け、学問に目覚め、僧侶になるより儒学の道を選んだ。
天保元年(1831)に19歳で上京し、京都の相馬塾に入門した。相馬九方は荻生徂徠の流れをうけた古文辞学派の儒学者である。23歳の夏には相馬塾を去り、京都梅宮に移転して、翌年の天保7年(1836)に、松尾神社の神官の草庵を借りて、読書思惟に没頭した。その時から草庵の号を使うようになった。
天保14年(1843)に、郷里からの懇願によって但馬に帰り、弘化4年(1847)、35歳の時に宿南村に青谿書院を建てた。ここで、終生自分の学問と修養につとめた。慶応元年(1865)、53歳で豊岡藩や福知山藩にたびたび出講するようになった。草庵の学問は朱子学と陽明学を融合させたもので、明治11年に66歳で亡くなるまで、全国30ヶ国から集まった673人もの人材を育成し、「但馬聖人」と呼ばれている。
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先日の同窓会、小生も初参加だったのではっきりしませんが、これまでで最多の参加だったのではないかと思います。幹事役が手慣れていたので、これまでの同窓会も彼らが企画していてくれていたようです。次回からは幹事役を中学校グループで回り持ちでという話でしたが、さてどうなりますことやら・・・。
きのさんは同窓会に参加するだけでなく、甥御さんに会ったり風呂に入ったりU氏を墓参に連れて行ったりと活動的なのに感心しました。おまけに不参加だったK氏に電話までして・・・「変わりがない」という事で安心しました。
きのさんに倣って、小生も交野市のS氏に先程電話しましたが、「この電話は現在使われておりません」ということでした。
後縦靱帯骨化症というのは頸椎の内側の靱帯が骨化して頸椎内の神経を圧迫して手足のしびれ等色んな症状を引き起こすもので、何故靱帯が骨化するのかその原因が分らないので国指定の難病となっているものですが、手術そのものは壁となって圧迫の原因になっている頸椎を切り開いて圧迫を無くしてしまえという単純なものです。だから靱帯の骨化そのものは今も進行中ということです。
国指定の難病と言われて驚きましたし、部位が頸椎なので間違って下半身不随なんてことになったら大変だと思いましたが、手術が上手く行ってやれやれといったところです。2007年でした。
国指定の難病というのは一定数の患者がいてしかもそれを研究する機関がいくつかないと指定されないのだそうです。指定して治療費が無料になる代わりにレントゲン写真やMRAの写真を患者本人には無断でそれらの機関に提供しますよというのが条件です。
小生としては生まれて初めての入院でなかなか楽しい一か月でした。入院中に顔見知りになり神戸から城崎まで訪ねて来てくれた人も何人かいました。
大阪のK氏は元気で、近いうちに京都辺りで会おうと話しました。そのときには誘います。U氏の来京と予定を合せれば、もう少し拡大出来るかと思います。
S氏の容態はどうなんでしょうか。お互いに、何時何があっても不思議ではない年令になり、音信は頻度を高める要があるのかもしれなせん。
音信不通の私の消息、ご心配をおかけしました。(何しろ生活圏??が三途の川近くの仙境なもので)
氷ノ山へは、天気の関係で遅れ、明日登ります。熊には気を付けたいと思っています。
乗鞍岳剣が峰の登山は、いい天気で紅葉もきれいで快適でした。
多くの英文字イニシャルの名前は大体わかりましたが、完全ではありません。
「深海生物展示」の失敗はよく記憶していますが、その発案者は実は私です。検討会の数日前に深海生物の特集グラビア記事を科学雑誌で見ていたため、つい口から出てしまい、皆が賛成して決まってしまったと言わけです。
これに似た失敗の経験がもう一つあります。
数年後の大学祭の時に、もう夢がなくなったから「夢の葬式」をしようと教室で言ったら、皆がすごく賛成して決まり、死者となって街を行進しました。これも失敗でした。
乗鞍岳には登山道のそばに東大宇宙線研究所があり、以前関係していた地球コロナ観測やオーロラ観測の話や、ハレー彗星の観測人口惑星などが「はやぶさ」の快挙につながっていった話などを思い出し、ロマンがあって、感慨深いものがありました。
京都あたりでのミニ同窓会、ぜひやりましょう。
力餅さんの、退職祝賀会記念がいいと思いますが。
S氏の件は、私も気になっています。
ブログにprof.N氏が登場していないのはなぜ?
”滅びゆく大草原”の弟子で古文書の権威(大石理久研究)の故S氏も登場しないのはなぜ?
N氏には挨拶はしたのですが、その後、話す機会がなくて、彼もやや今浦島状態のようで、後で、話に行けば良かった思っています。N氏とは共通の話題が意外と少なかったかなと思います。
故S氏とは、余り親しくなくて、でも今生きていたら、話を聞きたい所が多々あって、親しくなれたかもしれないと、思います。
ミニ同窓会、出来るだけ早く実現しましょう。