平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
“菊石”と菊川
旧国道一号線を島田市金谷から西へ向かい、峠を越えて下ってきた所に、東海道筋で有名な「夜泣き石」の土産物店がある。その店に出る直前に、右側に「菊石」という標識が立っていた。いつも気になっていたが、先日右側に逸れる道に入ってみた。
すぐ左に、丸い四阿(あずまや)風の小さな屋根が葺かれた下に「菊石」はあった。東海道のお駕籠を模した地区の集会場が道路から見えるが、その裏手である。かつては「夜泣き石」の土産物店の裏手の階段を登った高台に、「夜泣き石」と並べて置かれていたが、元の場所に戻そうとの地元の要望で、平成15年8月に移転されたのだという。
地元の要望で移転した割には案内板もなく、小さな賽銭箱が一つ置かれているだけで、丁寧には扱われていないように思った。「菊石」といえば化石のアンモナイトのことをいう。しかしここの「菊石」は違う。ひび割れが菊の花びらを思わせるのでそういわれているのだろうが、どうしてこんな石が出来たのかは判っていないようだ。例えば巨大な草食恐竜が落とした脱糞が、天日に干されてひび割れ、さらにそのまま化石となって、現代に現われたものと勝手に想像してみた。ちょうどそんな大きさだ。草食恐竜の糞を見たわけではないが。
ネットで調べると、鎌倉時代、都から盗賊退治にきた貴族と白菊姫が恋に落ちて‥‥‥というお決まりの説話がこの菊石にも残っていた。白菊姫が身を投げた「桜が渕」から、網にかかって「菊石」が上がってきた。両親は石を寺に納め、白菊姫の供養をした。ところが姫は実は助かって、そのまま京に旅立っていたという。後日譚無しで、そこで説話が終わる。おいおいここで終わりかよ。とにかく「菊石」のいわれが判ったから、説話も終わりでいいか。
そばを流れる川を菊川といい、このすぐ下の地区を島田市菊川、さらに下流には菊川市がある。これらの「菊川」の地名の由来には諸説あるが、その一つに「菊石」にちなんだという説がある。
これらの情報はすべてネットから探し出した。地元の方に一言。こんな内容でいいから案内板を作りませんか。
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