カシメルマンはBARにおるんちゃうか

≪スケールモデルからアニメキャラクターまで、
幅広い分野の模型製作を詳しく解説!≫
(小さい写真はクリックで拡大)

「カメラ趣味」

2023年05月12日 | 昔回想
《フィルムカメラ時代》
親が外出好きで、子供の頃からよく家族旅行に出かけた。
その時親父は8ミリムービーカメラ、35ミリフィルムのカメラを持ち歩き、
家でも観光地を歩いている動画なんかをしょっちゅう上映して観た記憶がある。
そのあおりでか、小学校高学年になると自分もコンパクトカメラを持つようになり、
写真を撮りまわるのが楽しくなっていたっけ。

親父の持ってたカメラは“ミノルタSR-7”という一眼レフだった。
それはピントや露出まで全て自分で調整して撮るマニュアル式で
撮影時はまず被写体の近くまで行ってカメラに付いた小窓に光を入れて測光し、
レンズの根元のダイヤルを調整して、尚且つピントも合わせるので
レンズの周りはダイヤルだらけだった。
自分のコンパクトカメラはピントのみ合わせるだけなので簡単だ。
確か“オリンパス35ED”って名だった。
で、コレらはフィルムカメラだ。今はこんな方式のカメラを使う人は少ない。
いちいちカメラの後の大きな蓋を開け、円筒のフィルムケースから延びた
フィルムをカメラのスプロケットに噛ませ、巻き上げレバーを回したときに
ちゃんと中でフィルムが送られるかを確認しなければならない。
そしてフィルムの種類によって違う感光度をカメラのセレクターで設定する。
今考えればなんちゅうメンドクサイ事してたんだと思うけど、
好きが功して自分は小学生の頃からそれが何の苦もなく出来ていた。

↑オリンパス35ED。これにフラッシュユニットを付けた状態で持ち歩いた

中学生くらいになったら親父のSR-7も使ったり、
親戚の叔父が持ってた“キャノンF-1”も借りて使いこなした。
ミノルタSR-7、キャノンF-1はシャッターを切ると中のミラーが動いて
「バシャラッ」と重く凄い音がして、これがたまらなく快感だった。
スマホのカメラのシャッターを切るとコレを真似た電子音がしたりするけど、
本物はそれに加えて微かな振動もあるからね。
「シャッター切った!」って感じがたまらないのだ。

高校生になったら、この趣味が更に加速。
アルバイトで得た金銭で買ったのは“ニコンFE”というカメラだった。
電子機器が付いたカメラなのでピント以外はオートでやってくれるスグレモノだ。
親父はニコン製のカメラに憧れていたのでその時ちょっと羨ましがってたっけ。
そして更にはアクセサリーにも凝るようになり、望遠レンズや広角レンズ、
連続撮影が出来るモータードライヴというパーツも購入。
結局あんまり使わなかったけど、カメラの下に付けてピストルを撃つように
引き金を引いて撮影できる“ピストルグリップ”なんて云う部品も買った。
モータードライヴとこれを組み合わせると機関銃を撃つみたいにして
「バシャバシャバシャバシャ…」と連続にシャッターが切れる。
48枚撮りフィルムもアッという間になくなるから、これはあんまりやらない方がいい。
…とにかく、その時期は小使いを殆どこれに使ってたっけなあ。

↑ピストルグリップ

働くようになって、仕事仲間と遠出することも増えてくる。
その時感じたのが、カメラを持参するのが自分だけ、という状況だった。
カメラで写真を撮るというのをフツーの人はあまりしないのだ。
なので自分は何時もカメラマン的同行者になり、
後日、写真をプリントして皆に配るのが常になる。あたりまえではあるけど
そうなるとどうしても“自分自身が写った写真が圧倒的に少ない”のである。
記念撮影ではセルフタイマーで自分も入るが、スナップ写真は他人ばかりが写ってる。
ごくタマに、「…さん撮ってあげましょう」と言われる事もあるけど、
持ってるカメラのせいもありカメラオンチの人はまず言わない。
そんなこんなで自分が写った写真はほぼセルフタイマー撮影の写真だけだった。
ま、いいンだけどね。

その後、重たいカメラがだんだんおっくうになり、新しいカメラを買った。
これが“オリンパスL-1”というカメラ。
ニコンFEより安価で、高倍率ズームや連写機能がデフォルトで内臓されているし、
なんと言っても軽い。この「軽い」という事がなんと素晴らしいかに気がつく。
替えレンズとかの部品も持参しないのでヘンな肩掛けカバンも不要。
L-1を選んだ理由は、それまでの一眼レフカメラに比べ幅が狭くて前後に長く
上から見るとほぼ“L”の字形をしている。だからこんなネームなのかな。
とにかく形がカッコイイのだ。これは結構永い期間使ったね。

↑オリンパスL-1。前後に長く幅が狭いカメラだった。

でもその後暫くカメラ趣味から遠ざかってた時期があって、
その時期は“キャノン オートボーイ3”っていう安いコンパクトカメラを使ってた。
「まァなんでもイイから写りゃあええわ」みたいな感覚でね。
ピントまでオートで便利だったんだけど、ある時遠出先で集合写真を撮る際
大失敗をやらかした。三脚に固定し、セルフタイマーで数人一行が揃った大事な
記念写真だったのに、ファインダーを覗いた画面のピントを合わせるセンターの
レンジにタマタマ人が来ていなかったせいで奥の方にピントが合ってしまい
人物の顔が全員ピンボケになってしまった。
そういう場合のやり方も知っていたのに怠ってしまったのだ。
出来上がった写真を見てもの凄く悔しかったのを憶えているなあ。
…そう、フィルム写真は現像が済むまで映り具合を確認できないのだ。

《デジカメ時代到来》
パソコンを使うようになった頃、親が知り合いからデジカメを貰った。
その人は少し金持ちで、新しいのを買ったので前に使ってたのをあげる、
という事だったみたいだ。
でも当然、そのカメラを一番利用しだしたのは自分だった。
撮れた写真をカメラの後面の画面で確認でき、更にパソコンに繋げて
撮った写真をプリンターから出力できる。こりゃアなんと便利なことか。
印刷の紙にするだけなら現像に出さなくていい。
暫くソレを使ってたんだけどやはりもっといいのが欲しくなってきて、
“オリンパスSZ14”というデジカメを購入。
コンパクトなのになんとなく昔からの一眼レフカメラらしいスタイルで、
持ち歩き易く写真の解像度も貰ったカメラより格段にアップした。
本ブログをやりだした頃はコレを使ってたので、
初期の写真は全てこれで撮影したものだ。
小さい物を近接状態で写す場合は一眼レフカメラに限る。
“オリンパス35ED”や“キャノン オートボーイ3”のような
ファインダー窓が上に付いた(写す為のレンズと別の場所)タイプでは
覗いた画像と実際の写真が全く違うものになる。実際失敗も多かったしね。
まァ、デジカメは全て後の画面に実際の写る画そのものが出てるから
そんな心配はないのかな。

↑オリンパスSZ14…やっぱり自分はオリンパスに縁があるようだ

しかしまだ10年も使わないある日、突然ズームレンズが出っ張ったまま動かなくなった。
電源も入らない。「?なんだこれ、衝撃も与えた覚えがないのにいきなり動かん」
…で、家電量販店の修理コーナーに持っていったけど「直りません」と言われた。
なんといきなりお別れの時が…形もカッコよくて気に入ってたカメラだったのになあ(悲)。
電子部品が多くなって来ると突然こんな故障があるから困る。
ブログも続けられなくなるしで、早速新しいデジカメを買いに行ったんだけど
勿論もう同じカメラは売ってなくて、その他のコンパクトタイプに気に入ったのが見つからず、
結果昔のようなフツーサイズの一眼レフタイプカメラを購入。
“ニコン クールピックスB600”というヤツだ。 久々のニコン。
解像度も性能も格段にアップしたしデジカメではあるんだけど、
以前持ってた“ニコンFE”とほぼ同サイズで首から提げると物々しい。
大きいのでイベントや展示会に持っていく時はカバンが必要になり、
またややおっくうな状態が続いている。

↑ニコン クールピックスB600

《カシメル写真館》



↑万博記念公園にて撮影(2枚)

↑岸和田カンカンベイサイドモールにて撮影

↑港区Gライオンミュージアムにて撮影

↑中之島美術館にて撮影
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「モデルガン趣味」

2021年10月07日 | 昔回想

《序章》
幼稚園に行きだすか行きださないか位の頃から、テレビの西部劇に夢中になっていた。
プラスチック製の安っぽいピストルのオモチャをガンベルトに挿し、麦藁帽子と
チョッキでガンマンに扮装した自分が、ピストルを抜いて家の前で
ポーズをとっている古い写真が何枚かある。殆ど親父がやらせたんだろうけど、
確かに自分もピストルのオモチャは好きだった。
小学生くらいになると金属製のモデルガンもどきみたいなヤツを
2丁程買って貰ったが、いずれも西部劇に出てくるピースメーカータイプだった。
テレビで「ルパン三世」を放映し始めると、友達の間で「ワルサーP38」が流行る。
面白いのが、この時初めて、オートマチックのピストルが撃った瞬間に
スライドが後退して薬莢を排出することを知ったのだ。
だってソレまでのテレビでやってた刑事ものやヤクザもの番組では
オートマチックピストルを使うも全然スライドが動いている描写なんて見た覚えが
無かったんだから(笑)。宍戸ジョーとか梅宮辰夫がバキューンとか撃ってても
銃口から火花が出るだけだったのな。
その辺りからオートマチックピストルに興味が出てくる。

《覚醒》
一般に男の子はなにがしかこう云うモノには興味を持つものなんだろう。
小学校も高学年辺りになると俗に云う“モデルガン”を、
しかも複数持ってる友達が多くなってきてて結構羨ましかった。
ある友達の家に遊びに行った時、殺伐と散らかった机の上に「ワルサーP38」と
「南部十四年式」と「チーフスペシャル」、3丁転がってたのを見た。
当時でも数千円もする玩具なのでプラモのように頻繁に買ってもらう訳にはいかない筈なのに。
だが遂に自分も金属製の「コルトM1911ガバメント(CMC製)」を買って貰う。
この金属モデルのずっしり重たくて冷たい感じがたまらなくイイ、
と小学生なりにもこの“金属塊の魅力”に目覚めていった。
その頃のものは決まって色が金メッキで、触っているうちに段々薄くなって
地の色(鈍い銀色)が出てくる感じだった。
でももっと古い時期のモデルガンを持っている友達がいて、そいつの「ワルサーPP」
は鈍い反射の黒色でまるで本物みたいに見えた。それを見ると金色のものは
いかにもモデルガン、って感じで「なんでこんな色にしちゃったんだろう」と
残念な気分にもなった。
…で、自分のガバメントはブローバック仕様(火薬を撃つと実物のように
スライドが後退する)だったので何度か試してみた。
するとポン!といいつつもスライドは薬莢が飛び出す程後ろへさがらない。
火薬の量が少ないのかと思って薬莢に沢山詰め込むと今度は薬莢が飛び出たものの
薬莢のフランジがへし曲がり、銃本体のエキストラクター(薬莢を引っ掛けて
外にはじき出す爪)が折れてしまった。「なんだこれー」と残念がって
もう火薬を撃つのは止めにした。今考えるとスライドを元の位置に戻す為に
付いているリコイルスプリングが強すぎたのかなと思う。マニアはコレを切って調整するらしい。
それから当時の小中学生なんて手入れも出来ないのに火薬を発砲させまくって
そのまま置いてるもんだからかオートマチックの排莢口周りやリボルバーの
シリンダー前が緑色の錆びだらけになったりしていた。
綺麗なまま持っていたかったらいっそ撃たない方がいいよな。

《暗黒時代》
そんな頃、世間ではモデルガンを悪用した犯罪が横行したのか、
警察から「金属モデルガンは全て“白”又は“黄色”に塗装しなさい」という
とんでもない御触れが出る。
「ええぇーーーーーっ!!」自分はそれを聞いてもの凄くイヤだったね。
リアル趣向の自分は金色でさえなんとなく納得いかなかったのに“白”か“黄色”だよ!
そんなオゾマシイ色に誰が塗れるかい! やったとたんにゴミ同然になる。
モデルガンを悪用するどこかの不届き者のせいで、自分達の趣味がメチャクチャに
されてしまう。…その後白く塗ったモデルガンを持っているヤツを
見たような気もするけどいくら防犯の為とは言え自分はとうとうそんな事は出来ず、
外に持ち出すのを止めて家の中だけで楽しむ事にした。
暫くして、メーカーも金属モデルには未来がないと感じたのかプラスチック、
いやABS樹脂製のモデルガンが幅を利かせてくる。自分もガンショップの店頭で
樹脂製のガバメントを見せてもらう機会があったが、自分の金属ガバメントに比べ凄く軽くて
表面もツルツルで処理も何も無く“やっぱりプラスチック”みたいな蝕感に
「こんなのモデルガンじゃない」と思ったのだった。

《新たな希望》
それから10年、20年くらいはモデルガン趣味から離れていたろうか。
ある時期から某モデルガンショップ店頭のショウケースでやけにリアルに見えるものを
見かけるようになる。同じような樹脂製なんだけど表面がザラついてて、
いわゆる“サテン・フィニッシュ仕上げ”というか、色も真っ黒ではなく
鈍く金属色に光っている。触らせてもらうと金属モデルには及ばないが意外にズッシリ重い。
これは樹脂に金属粉を混ぜて成形した“へヴィーウェイト仕様”だそうだ。
「これなら見栄え的にも最初の時代のモデルガンを味わえる!」と
そこからまたズルズルと何丁か購入する事になるのだった。

近頃はこのテの品は“モデルガン”ではなく“エアガン”が殆どになってしまった。
リアルには出来ているがこれはBB弾を発射して遊ぶ、よりオモチャに近いものだ。
これもよく出来ているしピストルの殆どの種類がもはやこのエアガンしかないので
何丁か入手したが、自分はやはり的を撃って遊ぶよりもダミーカートリッジ(非発火弾丸)を
装填したりスライドを動かして排莢させたりして実感を楽しむ方が性に合っているようである。

(卓上のモデルはマルシン製「ルガーP08」金属モデル、
CMC製「M36チーフ・スペシャル」金属モデル、
MGC製「スィグ・ザウエルP220」ヘビーウェイトモデル、
MGC製「ベレッタM92F」スーパーメタルヘビーウェイトモデル)
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「デパートの屋上」

2019年11月11日 | 昔回想
…その昔、百貨店(デパート)の屋上は遊園地になっていた。
近頃は芝生のテラスだったり、ビアガーデン用の椅子とテーブルが
並んでいたりするけど、昭和40年代は何処のデパートも
屋上には観覧車やゲームセンターがあったのだ。
ママやおかあちゃんに連れられて百貨店に行った時は子供だった自分達にとって
とにかく屋上遊園地が目当てだった。おかあちゃんの買い物に付き合っている
しりから屋上が気になってソワソワしていたくらいだ。
ひとしきり買い物が終わると遂に屋上タイム。
“↑R スカイパーク”と書かれた階段の踊り場の壁を見た時から
もう気分が舞い上がってしまう。

で、決まって必ずあったのはヒコーキや自動車なんかの独り乗りの
ぐいんぐいん動く乗物。走るんじゃないよ、小さい子供用の椅子が
一つ付いた、ヒコーキやパトカー等のデフォルメモデルが
台に生えた一本足の上に付いてて、マシンに10円いれると一定時間
その場でビミョウに前後に揺れ動くんだ。 …今考えると何が
面白かったんだろうね。2~3才くらいの子には面白かったんだろう。
自分もその頃は乗った気がする。“鉄腕アトム”や“パーマン”とかの
デザインもあったかな。

5~6才になるともう少ししっかりした造りの自動車がわりと広い
サーキット状の道を走る乗物に乗った。運転をミスっても道の真ん中に
ある溝と車体が棒で連結してるから絶対脱輪しない。
まぁハッキリ言うと運転しなくてもちゃんと走る(笑)。
周囲の町並みがハリボテになってて、結構リアルな信号機とか
置いてあってこれは子供ながらに気分が出て楽しかったなあ。
色々な動物に跨って動く、スピードが凄く遅いゴーカート、とも云うべき
乗物もあったな。これはちゃんとハンドル通りに動くんだけど
速度が歩くより遅い。一定のエリア内を自由に動けるんだけど
速度からしてまず事故る心配はなさそうだった。

更に小学校から中学校に進学するような歳ともなると、
専らゲームセンターが目当てになってくる。
でも今のような液晶画面の中で格闘戦とかじゃなくて、
当時はもっと物体的なものだった。そもそもコンピューターなんて無いんだもの。
“ゲームセンター”とも呼ばず、“プレイランド”みたいな表記だった。
何が“物体的”かって、例えば「ドライヴゲーム」にしたって
動かすのは模型の自動車だ。一応筐体なんだけど、画面じゃなくて
形態としてはガラスケースだ。上から覗くとその中が上下に流れる
ベルトコンベアーになってて、ベルト面にくねった道が描いてある。
手前側から飛び出した棒に支えられた1/20位の自動車の模型があって
それが道の上に載っかってるんだ。
ケースの外、手前に実物大のハンドルがあって、それを回すと模型自動車の
前輪がリアルに曲がって左右に曲がる仕組みになってる。要は有線リモコンだな。
でもハンドルだけでアクセルペダルもブレーキペダルもない。
つまりスピードは調整できないのだ(怖ええ!)。
20円入れるといきなりガクン!とベルトコンベアーが等速で動きだす。
慌ててハンドルを握って運転しようとするんだけど、何の抵抗も無い
プランぷらんのハンドルだし、何処の角度が直進なのか掴むのに
時間がかかり、道の上を走らせるのが結構難しい。
やっとハンドル操作と車の曲がり具合の関係を把握して
道の上を走らせられるようになったとたんに時間切れ、とか(^^;。
またプレイ時間中流れるBGMがなんとも人を小バカにしたような音楽で
なんか腹立つ。意地になってもう一回やる。
なんとか調子よく道に沿って走ると道の真ん中にある突起を車のセンサーが
読み取って得点出来る、というか奥側に立ったパネルに地図があり
その地図上の地名のランプが移動する。例えば〈大阪〉→〈京都〉
→〈名古屋〉とか…。「おお、名古屋まで行けたぞ」とか。
このゲームでよかったのは模型自動車の前輪の曲がり方が「サンダーバード」の
車輌のようにリアルでしかもちゃんとサスペンションまで利いている感じだったところ。
しかも支えた棒で位置を強制的に動かすのじゃなくてちゃんと
“前輪の切れ”で曲がっているところだった。
“物体的”とは今のようなデジタル処理された画像ではなく
模型等の物体がアナログ的に動くところなのだ。

しかし自分が本当に好きだったのは「魚雷ゲーム」だった。
実はこんな名前だったのかどうかも憶えていない。ネットでググッても
写真すらヒットしないのだ。もしかしたらそれは自分の妄想で、
そんなもの存在しなかったのかと思ってしまうが、いや確かにあった。
市販のおもちゃで「魚雷戦ゲーム」ってのはあったけど、
当然デパートの屋上のはすこぶる巨大な筐体だった。
大体幅が4~5メートル、高さ2メートル、奥行きも2メートルくらいあったのかな、
子供の記憶なのでアテにならないけど、とにかく他のゲーム機械に比べて
一番大きかったのは確かだ。前側の面から中が覗けるようになっていて
覗くと全体が海のジオラマ模型だった。海のうねりや波が固体で造形されていて
あちこち戦艦の模型が配置されており、奥の壁には空が描かれてて空中戦をしている
戦闘機や、撃墜されて黒い煙の尾を引いて墜落している絵もあった。
正に太平洋戦争の海戦のパノラマだ。こんなの、プラモ好きの自分にとっては
血湧き肉踊る程のものじゃないか。
手前に実物大くらいの潜望鏡が横に3つ4つ並んでいる。幅が大きいのは
多人数で出来るようになっているからだ。普通潜水艦には潜望鏡は一つなので
おかしいけど、3人で一つの大ジオラマを目の当たりにしてやるのだからそれは楽しい。
潜望鏡の脇の壁、ジオラマを覗く窓の下辺りには荒削りではあるけど
パイピングや計器らしきモールドがあって、子供ながらに潜水艦の
司令室にいる気分が味わえた。…で、潜望鏡を覗くと真っ暗。
お金を入れて初めて映像がみえるのだ。で、コレも20円だった。
入れるとカチャン!と黒幕が解除されてそのまま奥のジオラマが
見えるんだけどお決まりの照準器みたいなタテヨコのバッテンがあり
距離計測の目盛りも切ってある。「わあ、リアル!」。

どう遊ぶかというとジオラマ模型の一番奥、水平線の彼方にちっこい戦艦の
ミニチュアが右から左に列になってゆっくり動いている。よく見ると僅かに上下に
ビリビリ揺れるのでベルトコンベアーみたいなのに取り付けられているんだろう。
潜望鏡は左右に少し動かせるのでそのちっこい戦艦を狙って右手の握りの
根元にある赤いボタンを親指で押す。
すると手前から海のうねりの下を光りが奥へ向ってパパパパっと移動する。
つまりそれが魚雷だ。でも奥まで到達するのに3秒くらいかかるので
まんま戦艦に照準を合わせて発射しても戦艦の動きでズレて命中しない。
狙った標的の前方のどの辺りを狙うか、というのが醍醐味のようだ。
上手くタイミングを見計らって命中させると「ドーン!」という
鈍い音とともにちっこい戦艦の辺りが赤く照らされ、戦艦は一瞬で
海面下に下がる(笑)。「…沈むの早ええよ。木っ端微塵になったか!?」
でも今思うと何隻も同じ方向に移動してるのに、撃沈した艦だけが消えるのも
すごい仕掛けだ。魚雷の表現もリアルに思えて凄く楽しい。
でも5発くらい発射すると終わり、くらいの時間だった。20円の威力もここまでか。
…で、ジオラマ模型の手前にはガラスなんか無くて、手を伸ばすと海のうねりの
手前縁が触れた。でもレイアウトされた戦艦模型には流石に届かない。
あたりまえか、届いたらすぐパクられてるな。でもなんだか埃っぽい
ジオラマだったのを憶えてる。自分が遊びだした頃にはもう古い筐体だった
のかもしれない。でもコレが小さい頃遊んだゲームで一番萌えたヤツだったなあ。
あったのは梅田の阪急か阪神百貨店だ。他にコレをプレイしたことある人いる?

…他にもヘンな、と言うと失礼かもしれないけど、変ったのを見かけたなー。
さっきのドライヴゲーム方式で乗馬の障害物ゲーム、みたいなのとか。
ベルトコンベアーが今度は野原になってて手前から騎手が乗った馬の模型が
棒に支えられて出っ張ってる。プレイすると馬の足がカタカタ動いて、
奥からハードルが流れてきて、ジャンプするタイミングで大きなボタンを叩くと
飛び越えられるんだ。ひっかかるとハードルが倒れて減点、みたいな。
イマイチだったんでこれはあんまやらなかったな。

あと、思い出すのはスティックで操る戦車のゲーム。
筐体の上の面に四角い窓があり、覗くとこじんまりした戦場のジオラマ。
真ん中あたりにそうだなー大きさ的には1/72くらいの戦車がいる。
でジオラマの4方の壁にはそれぞれ4つずつくらい、敵の戦車の絵が描いてある
大き目の四角いボタンが並んでいるんだ。つまりボタンは周囲に16個くらいある。
プレイしてみるとその内の一個のボタンが光る。つまりはそこに敵戦車出現!
という意味だろう。…で、どうやって攻撃するのかというとスティックレバーを
倒した方向に戦車模型が動く。その戦車の主砲の砲身でその光ってるボタンを
押せ、というのだ。主砲を撃つんじゃないよ、ほぼ体当たり攻撃。
「そ、そんなの戦車の使い方じゃねーよぉ」と思ってしまう(笑)。
上手く戦車を誘導出来なくてまごまごしてると光は別のボタンに移動してしまい、
逃げられた、みたいな。光ってる間に上手く砲身で突くとボタンが凹んで得点。
でもこの状況だと自分が攻撃を受けることは無さそうだ。
四角い戦場で必死に光るボタンを追い掛け回す、という地味なゲームである。
これも2回くらいやったぐらいかな。

5年前、旧梅田阪神百貨店の取り壊し寸前時点で
屋上スカイパークの写真を撮りに行ったんだ。
曇りだったせいか人もまばらでなんだか寂しい感じだった。
その中にポツンと大きなドラえもんのロボットみたいなので、
後ろの穴から中に乗り込むと操縦席みたいになってて子供が
2人くらい座れるようになってる乗物があった。
大人が入るには窮屈で、椅子もちっこすぎて座れないけど
顔だけ突っ込んで雰囲気を楽しんでみた。…へんな奴(笑)。
そういえば同じシリーズで“ロボコン”とか“ガンダム”っぽいのもあったよな。
もう今の子供はPSPとかばっかやっててこんなのじゃ遊ばないんだよなー(--)。

(卓上のモデルは「海底大戦争」に登場の“スティングレーMk.3”)
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「スーパーカーブーム」 ~人混みをぬって車の写真を撮った思い出~

2019年06月08日 | 昔回想
自分が小学5~6年生くらいの頃、世間は“スーパーカーブーム”だった。
…なんだよ、そのスーパーカーって。と思う人が今や多い筈。
“スーパーカー”って言葉自体、とっくに死語なんだよな。
スーパーカーってのは最近の言葉で言うと“エキゾチックカー”かな。
え?それも知らない?…うー、そもそも自動車好きな人しか使わないかそんな言葉。
近頃は若者の“車離れ”が進んで一頃に比べると自動車の売り上げも少なくなって
きているらしい。でも自分達の親の世代は経済成長期で、マイカーを持つことが
家電を買うのに並ぶ民衆のステイタスだった。
最近「高齢者ドライバーの免許返納」が話題になってるけど
割合が多いのはちょうどそんな時代に免許を取得した世代だからだ。
叔父さんに「男はみんないい歳(20歳くらい)になると必ず車に憧れるんだよ」と
言われたと小学校の友達から聞いたことがある。
「ふーん、そんなもんかなあ」とまだそうも興味がなかった自分は思ったんだけど、
それから間もなく学校でもスーパーカーが流行りだしたんだ。

ハナシを戻すけど“スーパーカー”とか“エキゾチックカー”というのは
要するに“もの凄いスポーツカー”て意味かなー。この場合殆どが外車だった。
その頃の国産スポーツカーには無い排気量で馬力があり、形も背が低くて
幅の広い、まァそれはそれはとんでもない姿してるんだよ。
そんな日本の街ではとても見かけないような車が小学生の間で話題になった。
きっかけの一つは「サーキットの狼(池沢さとし氏著)」というコミックだった。
題名でも想像つく通り自動車レース物で、主人公やライバルの乗っている車が
そのスーパーカーのオンパレード。そこから人気が出たところが大きいと思う。
そんな状況の中自分も流石に興味湧いてきて、友達とスーパーカーの話で盛り上がった。
流行りにのって本屋では専用の図鑑、文房具屋とかでもスーパーカーの形の
消しゴムとか売り始めて、それらを沢山集めてる奴もいた。
プラモデルも皆んなスーパーカーばっかり作ってたね。
以前、自分が好きな車は“ランボルギーニ・カウンタック”だったと当ブログで書いたけど、
その頃友達が持ってた本にカウンタックの前、後、横から撮った写真が載ってて
とてもこの世のモノとは思えないデザインに「かっこえー!」と一目惚れしてからだ。
「最高時速300Km/h」とか書いてあって、まるで羽根がない飛行機みたい。
遂にプラモデルが発売になった時は飛びついて買ってもらった。

更に拍車をかけたのは後に公開の「キャノンボール(1981)」という洋画だった。
オープニングのテロップと音楽が流れるところで、女性2人が乗った
黒いカウンタックが追いかけてきたパトカーをおちょくるシーンがあったんだ。
このカウンタック、なんと“LP500S”というチューンナップしたタイプの上、
更にウィングが前と後に付いた特殊なスタイルで、多分早回し処理がかかった画面だけど、
フルスロットルでパトカーをブッチ切るシーンが痛快で大好きだった。
(上写真の黄色いボディーはLP400(ノーマル)、青いのがLP500S)

「サーキットの狼」の主人公が乗ってたので
“ロータス・ヨーロッパ(最上部の写真)”も人気があった。
排気量とか性能は並だったもののコミックのせいでかスーパーカーとして認められてたな。
カウンタックよりスピードが出る、という売りで“フェラーリBB(上写真のもの)”、
それよりもっと速い“デトマソ・パンテーラ”ってのもあったなあ。
…で、目立ってファンが多いのが“ランボルギーニ・ミウラ”、
更にそれのル・マン仕様の“ランボルギーニ・イオタ”だ(これもミニカーは不所持)。
イオタはワンオフ車で世界に1台しかなかったもので、後に誰かが事故って
オシャカにしてしまい、現在イオタの形をしてるのはミウラの外見をドレスアップした
レプリカしか無い、という幻の名車。外見はミウラの幅を少し大きく膨らせて
スポイラー(空力特性を良くする羽根に似た部品)をつけたような車だけど、
もちろん初めに作られた“本物”は車体の構造から全然別物だったんだ。

“ポルシェ”のファンも根強かったな。
上の写真のミニカーは“911”というタイプだけど、これは比較的最近のモデルで、
当時のものはもっとヘッドライトがボンネットの上に飛び出ていてもろ“カエル”みたいな顔だった。
でも一般的なモデルの911に対し、これにターボ(過給器)を搭載した“930”
の方が人気があったみたいだけど。これは後ろのタイヤ幅が更に大きく、
それに伴ってフェンダーの張り出しが大きくて、後ろから見ると“グラマー”だった。
他には“マセラッティー”、“ディーノ”、等、まあ殆どがヨーロッパの車だった。
中にはブームに乗っかって作った国産の“童夢ZERO”ってのもあったけど。
“ベンツ”、“BMW”にもカッコイイスポーツカーはあったみたいだが
スーパーカーの類からは除外されてた。一方その頃国内の道路でかろうじて見かけたのは
“フォード”、“リンカーン”や“ダッジ”とかのアメリカ車だ。
ヤタラにでっかい車体で高級感はあったけど勿論これもスーパーカーではない。
ブームになって久しくなるとスーパーカーにヤタラに博学な子供が増えてきたので
テレビではとうとうスーパーカー関連のクイズ番組も出現。見ると回答者は全員子供(^^。
「アタック25」みたいに横一列にゴンドラに座ってるんだけど、
その席に車のハンドルが付いてて、答えが解ったらボタンを押す代わりに
そのハンドルを思い切り右か左に切る、っていうシステムだったのに笑かされたね。
車の特徴から名前を当てるとか、カウンタックみたいな形を「クサビ型」って言うんだとか
そんな問答だったかな、流石に子供なんで排気量とか燃費の話までは出なかったと
思うけど(^0^A。自分はそうも詳しくないので出たいとまでは思わなかったなー。

…で、大きなイベント会場で「スーパーカーショー」も何度か開催されて
まだ交通機関も使い慣れていない中学生の友達同志で見に行ったりしたんだ。
親のカメラ借りたりしてね(笑)。入場前からもの凄い人が並んでて
押し合いへし合いなので子供には辛い。やっとの思いで入場。
だだっ広い会場内にランダムにスーパーカーが置いてあって、1台づつとか
2台づつその周りに車から5メートルくらい離して円形に柵がしてある。
監視員も立ってる。つまり触れるほど近づくことは出来ないわけだ。
やっぱり人気はカウンタックやフェラーリBBなんだけど、
柵の外にドーナツ形に人だかりが出来てて、とても車に近づけずよく見えない。
大学生くらいのちょっといいカメラ持った人たちが壁になってて中学1年生くらいの
自分達には殆ど見えない。「おっ、今スキマからチラッとタイヤが見えた」みたいな。
結局、比較的人気がない“マセラッティー・メラク”とかの写真だけ撮って
帰る、みたいな感じなのな(泣)。今のモーターショウとかでもそうだけど、
やっぱ展示場は子供にはキツイわ。
そんな中、同級生に家が金持ちの子がいて、そいつが何かのイベントでカウンタックの
助手席に乗って走らせてもらえた、なんて噂を聞いたときは羨ましかったね。
そういう権利に応募して当ったのか、コネなのか忘れたけど(^^;。
そいつしばらくヒーローだったね。

今回は萌えたけど案外疲れる趣味の「スーパーカーブーム」のハナシでした。
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「袋ジャム地雷 ~小学校の給食~」

2019年01月03日 | 昔回想
2019年です。今年は平成の次の元号になってしまうという、
呑まずにいられない事態となってます。だって足掛け元号三つ分、
同時に世紀も二つ跨いで生きてンだから。

新年一回目は《昔回想系》の咄で始めようかと。
今となってはもう二度と口にすることはない、記憶の中で「美味」と
印象付いている子供の時食べた食材の思い出は皆さんにも多いと思う。
小学生時代、自分が通っていた学校では授業の合間に時々“肝油”が配られた。
今思い返すと“肝油”だったと判るんだけど、当時は確か“ローヤルゼリー”と
呼んでいたと思う。先生が直径10センチ程の平たい缶カンを取り出し、
蓋を開けると中に三日月状でオレンジ色のゼリー菓子が入っていた。
一個づつ生徒に配って食べさせたのだけど、それがまた旨いのなんの。
もっと欲しかったけどいつもたった一個。なんでこんな美味しいものが
お菓子屋さんに売ってないんだろうと思っていたが
今思うと健康食サプリメント系の食材だったんだよな。
昔あったけど今ではつぶれちゃった食堂、とかではなく今回はその類のハナシをする。

まァだから殆ど学校での事になるのかな。
自分達が小学生の時はお昼ゴハンは決まって“給食”だった。
今は学校によって給食だったり弁当だったりしてるのかな。
僕等の時代、一クラスの人数は平均40人、一学年で7~8クラスあった。
今は少子化だからそれより全然少ないんじゃないかな。
クラスの中では6~7人くらいの班6つ位に別れ、当番仕事はその班単位で行った。
…で、給食当番がまわってくる。給食当番は白いスモッグを着て帽子をかむり、
マスクをする決まりだった。
最初の仕事は“給食室に食材と食器を取りに行く”ことだ。
メニューは決まって【食パン】と【牛乳】と【おかず】。おかずは日替わりで色々あった。
運ぶ内容としては【食パン】、【牛乳×2】、【重いおかず】、【軽いおかず】、
【食器】の6つ。ここで誰が何を運ぶかで一旦もめる。何故かというと
モノによって重量が違ってくるからだ。
先ず【食パン】は取っ手の付いたでっかいアルマイト製のケースに入ってて、
基本2人で運ぶ。でっかいから持ちにくいけど軽いのでなんとか1人でも運べた。
【牛乳】はガラスの牛乳瓶が針金を組んだようなフレーム2ケースに25本づつ
入ってる。実質40人分前後だから20本くらいづつかな。
班の人数の加減からこれは1人で1ケースづつ運んだ。結構重たい。
また取っ手がコイル状になった針金なので指に跡がついて痛かったしな。
【重いおかず】【軽いおかず】はアルマイト製バケツに入ってる。これに1人づつ。
【重いおかず】はたいがい汁モノなので重いしこぼれないよう技術も必要だ。
【軽いおかず】は果物とか乾物系なので気楽だ。
一番厄介なのは【食器】である。【食器】はさっきの針金フレームに
クラス全ての分の食器が納まっている。パン皿、お茶碗、それとスプーン。
アルマイト製とはいえ40~45名分となるとかなりの重量だ。
しかも帰りは当然食器が汚れているので運が悪ければ服についたりするのだ。
流石にこれは2人で運ぶようにとのおふれが出ているが、班の人数によっては
単独運送を強いられる場合あり。比較的力持ちな奴にお願いする。
この作業は非力な自分には小学3年の時が一番辛かった。
なんでかと云うと自分達の教室が給食室から運動場を挟んで一番遠い
位置だったからだ。距離約100メートル、しかも2階だった。
牛乳なんか1人で運んだひにゃあ、何回も休憩をとってタイヘンだった。
友達に重いおかずをこぼしたりしたヤツがいたりしたかな。
まあ確か予備があってそれを取りに行き直し、重いおかずナシなんて
事態にはならなかった記憶だけど。

給食係のハナシでダラダラ書いてしまったけど、この食材の中で思い出すのが
【軽いおかず】にあった“肉団子”だった。【軽いおかず】はパン皿の横に
区切られた小スペースに盛り付ける。ここで云う肉団子は甘酢がけ、とか
そんなのではなくカラカラに乾いた感じの、少し脂っこい揚げモノだった。
一番近いイメージは揚げシューマイかな。これが自分は美味しくて好物だった。
いつもこれが2個づつ配られる。直径が3センチないくらいかなー、小さいので
どうも食べたりないのだ。食事中はどのタイミングで食べようかと大事にしたくらいで、
攻めて4個くらい欲しいなとか。
配った後必ずバケツにちょっと余るので欲しい奴が集まってジャンケンする。
自分はよく負けるのでやっぱり二つ、運が良くてもMAX3つだ。
今でもその味は覚えていて、今現在酒の肴にして食べても絶対旨いと思う。
子供の時は考えもしなかったけどビールにも絶対合うな。
最近になってどこの給食センターから仕入れてたんだろう、
とか全く同じものがスーパーに並んでいないかとか探した事もあった。
皆さんの中にも同じものを食べたことがある人もいる筈である。
また食べたいなあ…。

…で、給食の主役はやはり“食パン”だ。
これに銀紙に包まれた“マーガリン”を塗って食べる。
ビニール袋に入った“ジャム”や“チョコレートディップ”が付いてる場合もあり。
今のような冬の季節には教室に石油ストーブがあるので先生に言って
その上でト-ストしてもらうツワモノもいた。自分もやってもらった事がある。
冬場のあったかいト-ストはサイコーだった。
更にこの時期は余ったパンの端部分が取り合いになったりする。
端部分ってのは食パン一斤の両端部分、つまり薄っぺらいヘタの塊みたいなトコである。
通常食パンを買うとここは既にはじかれているが、ここではしっかり端まで入ってた。
これをストーブで焼くと香ばしくてやたら美味なのだ。
…パン屋さんでは廃棄してるんだよなあ。
食パンばかりではなく、たまにコッペパンも出た。
通常普通のコッペパンだけど稀に色がちょっと黒ずんだ、なんかコーヒーっぽい
味の付いたやつもあった。この黒っぽいのも好きだったなあ。
なんとなく甘くて香ばしい、何もつけずに食べても美味しかった。
食パン残してカビ生やす奴いたけど、これを残す奴は皆無だったね。

…あー、でさ、下校する時、食べなかった“ジャム”や“チョコレートディップ”を
車道に置いて自動車に踏ませようとするイタズラをやった事がある。
…って、結構みんなやっててしょっちゅう見かけたんだけど。
人呼んで「袋ジャム地雷」だ。上手く車が踏ん着けると「ビュっつつ!!」
と飛んで豪快なんだけどだいたいの車はサッと避けるね。
結構運転席から見てるんだな、当たり前だけど(笑)。車汚れたくないだろうし。
ちょっと前カラスがクルミを車道に置くCFがあったけど、
イタズラなんか滅多にしない自分もそういうのはやった。実は“裏悪ガキ”だったかもな。
バリバリの昭和生まれの人にはなんとなく思い当たる咄だったのでは…。

(卓上のモデルは「ミラーマン」に登場の“ジャンボフェニックス”)
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「コンパクトカセットの時代」

2018年07月09日 | 昔回想
自分は昔から結構音楽を聴く方である。
カシメルBARとして使っているテーブルの上に“CDラジカセ”があって
ここで呑んでいる時とか、だいたい何時もBGMをかけているのだ。
ビクター製で、ラジオ(FM、AM)カセット、CD、そしてMDまでが再生できる。
最近は大手の電気店に行ってもこんなラジカセが少なくなってきていて、
特にカセットがかかるヤツに至っては機種が凄く限られてきている事に気が付いた。
コンパクトなオーディオセットも新しいメディア対応のみだったりと、
だからこのラジカセが壊れたらどうしようかと心配になっていたりとかね。

↓CDもいいけど、自分の場合はカセットテープ(コンパクトカセット)で聴くのが主。
なんでかと言うと人生の大半かけてかき集めた好みの曲がほぼ全てカセットテープに
収まっているからである(笑)。持ってるケータイがガラケーで、ネットから曲を
ダウンロードするなんて事をしない時代遅れの輩にはしょうがない話でもある。
CDは買ったりするのだけど、例えば好きなヒット曲が聞きたくてそのアーティストの
アルバムを購入したとする。でも大体はその目当ての曲ともう一曲くらいイイのが
入ってるだけで、あとはパッとしない地味な曲が殆どなパターンが多かったりと。
聞き込むうちに気に入ってくるのもあるけど、やっぱりコスパは悪い。

…で、学生時代はよくラジオから歌謡曲や洋楽のヒット曲を録音したりした。
俗に云う“エアチェック”というヤツである。なのでその頃のカセットテープには
時代ごとのベスト10に入ってきたような曲ばかりがひしめいているのだ。
'80年代の洋楽が一番多いかなー。兎に角濃い曲目である。
アルバムを店で借りてきてダビングしたのもあり。その頃はCDとかじゃなく
「レコードレンタル」だ。勿論レコードプレーヤーがあってそこからテープに録る。
全曲そのままコピーしたのもあるけど、レコード何枚分もの目当ての曲目だけを選んで
収録する場合もあった。ややプチプチ雑音の入った曲は多分レコードから来たやつだ。
古いモノは40年くらい経ってるのもあるけど、不思議に「テープが伸びちゃって
聴けなくなってしまった」なんてのはまだ出ていない。
今もカセットテープ売ってるけど、流石にかつて程のバリエーションはない。

↑カセットテープのデザインは様々で、その時の気分でカッコイイと思ったのを購入した。
一番多いのはこのSONYの長方形の窓が付いたヤツかなー。写真のは白とエンジだけど
黒いのやらグレーのやらもある。この左の「SUPER PACK」と手書きしたのに
エアチェックの曲が詰まっている。「5」は勿論5本目という意味だ。
かけると洋楽邦楽のヒット曲ばかりがランダムに聴けてまるで有線放送を聴いている
ような感じ。

↑この左側の全部透明ってのも好きだった。確か「TDK AD-スプレンダー」とかいう。
真ん中のもTDKでクリアーブルー成形が綺麗なタイプ。右の乳白色パターンは少ないけど
2本くらい所有。

↑自分が持ってるので一番古いのはこのタイプ。おそらく40年以上昔のヤツ。
当初はテープの残量を確認する為の真ん中の窓がこんなに小さかったのだ。

↑時代ごとに変わったデザインを見かけると買っていったので、変り種の形も多々あり。
因みに収録してあるアーチストを挙げると
「YES」「カーズ」「ハート」「A-Ha」「シンディーローパー」「ネーナ」「マドンナ」
「ジャーニー」「プリンス」「U2」「ホールアンドオーツ」「ユーリーズミックス」「ポリス」
「レベッカ」「ELO」「ダイアーストレイツ」「トーキングヘッズ」他…。
…な。1980年代バリバリでしょ(笑)。ウォークマンに入れて外出したりもしたなあ。

↑この左は窓がクリアーブルーで粋なデザインだ。そして見た瞬間に飛びついたのが
右のヤツ。大昔の“オープンリール”時代をイメージさせる奇抜なアイデア。
…大昔と言ったけど、自分は小学低学年のときウチにオープンリールのプレーヤーがあって
それで音楽聴いてたけどなf(^^;。因みに聴いてたのは「ベンチャーズ」とか親父のあおりで
「軍歌」とか。‥小学生で「加藤隼戦闘隊」とか知ってたんだよナマイキに。‥なんだかなあ。
こんなコンパクトカセットテープを初めて見た時は「ちっこいー!!」とか
「供給側と巻取り側が一挙にひっくりかえせる!」と革命を感じたくらいだった。

↑カビが生えそうなハナシは置いといて、最後の写真はメンテナンス用カセットである。
右のヤツはまあ大体判るかもしれないけど“クリーニング用”。
下側に付いたスポンジにクリーニング液をつけてプレーヤーにかけると
中のギアーがまわってヘッド(テープ内容を読み取るところ)をクルクル拭き取る
仕組みになっている。左のヤツは“ヘッドイレーザー”というシロモノ。
これを見かけるまで自分も知らなかったのだけど、プレーヤーのヘッドにはだんだん
余計な磁気が溜まってきて綺麗な音が聴けなくなってくるらしい。
それを除去するのがこのマシン。これを入れてプレイボタンを押すと
「キュン!」というノイズと同時に一瞬で磁気を除去。
当然ながら電力が要るのでボタン電池が入ってる。
最近気にしてないけど今も売ってるのかなー。レコードと同じでテープを好んで
使う人がいるので沢山は見かけなくなっているもののもっといいモノがあるかも知れない。

今回はまだまだけっこうマニアが居そうなコンパクトカセットの思い出でした。
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「ロックギター時代」

2017年04月11日 | 昔回想

高校生になったとき、同じ高校に通うことになった古い友人の
影響でエレキ・ギターを買ったんだ。
その友人は中学のときからハードロックバンド“KISS(キッス)”が好きで、
家に遊びにいく度にBGMの如く同バンドのナンバーを散々聴かされていた。
自分もかなり聴きこむうちに好きな曲目とかも出来てきて、カセットテープに
ダビングしてもらったりして自宅でも聴くようになった。
…で、高校入試に合格した勢いで「楽器買わないか」という話になって
それに乗ったワケだ。そいつはエレキ・ベースを買い、自分はエレキ・ギターを
購入して一緒にキッスを演奏しようぜ、みたいな。
…とは言うものの、学校の音楽の時間にリコーダーさえマトモに吹けなかったので
そりゃあ少々不安ではあった。リコーダーは千円くらいで売ってるけど、
エレキ・ギターは一揃えでウン万円以上だ。全く演奏できなかったらシャレにならない。
しかし「ウン、これも青春!」と貯金してたお小使いを全部はたいた。

でもそのとき高校生の間では楽器を弾く事が結構トレンドになっており、
エレキ・ギターを所有しているヤツが多くて、友達同士でバンドまで結成している事も
珍しくなく、この趣味のせいで友達が増えたくらいだった。
文化祭の時とか、教室をライヴハウスに改造してバンド演奏なんてアチコチやってた。
自分達はバンド結成とまでは行かないし、スタジオを借りるなんてとんでもない話なので
誰かの自宅でカセットテープをかけてそれに合わせて弾いたりしていた。
まあ知ってるだろうけどエレキ楽器は本体単体では音は鳴らず“アンプ”と呼ばれる
でっかいスピーカーを電源に繋ぎ、そこに繋ぐことで初めて鳴らすことができる。
ボリュームは調整できるものの、ギター2~3本一緒に鳴らせば破壊的な音量である。
これを自宅でやったんだから近所迷惑はほぼ間違いなかった筈だ(^^;。

演奏した曲目は勿論「キッス」。ヒットナンバーの「デトロイトロックシティ」とか
「ラブ・ガン」とかetc…。初めは“耳コピー(耳で聴いてどの音階を鳴らしているか
判断しながら演奏をコピーする)”したり、音楽関連の雑誌の“TAB譜(ギター演奏に
とって分かり易い表現で書いた音符)”をみたりして練習した。
すると結構弾けるようになるもんである。やっぱ練習とは大したものだ。
自分はギターパートなので遂には“リードギターソロ(曲の中ほどでギター単独で
前に出て弾く比較的技術を要する部分)”もやるようになった。
自慢ついでにいうと“高中正義”の曲も弾いたりしたぞ。 …もう今はできないけど(笑)。
他のバンドでは「ディープ・パープル」、「レインボー」系の曲が目立ったかなあ。

自分が使っていたのは“レスポール・モデル”というギター(写真のもの)。
これはアメリカの“ギブソン”というメーカーの人気モデルを国内の“グレコ”という
メーカーがコピー生産したもの。本物は高校生が買えるような値段じゃないからね。
…しかしコイツがまた重たい!体のキャシャな自分は3曲くらいやるとストラップが肩に
めり込むような痛さと肩凝りにみまわれる感じだった。
当時同じような人気機種に“フェンダー”社の“ストラット・キャスター”というのが
あったけど後にソレの方がずいぶん軽い事を知った。
貧乏くじなのを選んじゃったなあと後悔したけどデザインが気に入って買ったし、
キッスのリードギターが主にこれを使ってたってのもありで…。
35年間袋戸棚に入ってたのを先日懐かしくて引っ張り出してみたら、弦が錆びていた。
でもボディーはキズもなく全然綺麗なのな。アンプは嵩張るのでとっくに廃棄済み。
ハードオフに売りに行こうかなー、でも思い出が詰まってて愛着もあるし。


閑話休題

…で、暫くそんな趣味をやってると他のギターにも目がいってくるもんである。
このエレキ・ギターというのは形のバリエーションが凄いのだ。
この“レスポール”やさっきの“ストラット・キャスター”はオーソドックスな
形だけど、“フライングV”や“エクスプローラー”なんていう変形タイプは
珍しい形をしていて人を「こういうヤツもいいかなー」なんていう気にさせるのだ。
ボディーがガラスのように透明なスケルトンモデルと云うのもあったり。
音が電気部品のみで鳴らせるのでフォークギターのようにボディーの中での反響
なんかを気にせず形が自由に造れてしまうのである。
自分が見た中で最も気に入ったのは“B・C・リッチUSA”というメーカーの
“モッキンバード”という機種。ヘンテコリンなデザインだけどめちゃカッコイイのだ!
勿論これも結局高くて買えなかったけど。
今現在はもっと種類が豊富で自分も時々楽器屋にいってどんなデザインがあるのか
見て回ったりする。「もう弾けないけど、これ壁飾りにほしいなー」とか。
今でもそれくらいの魅力を感じているワケだ。
まぁでも当時結局は他のを買うこともなく、バンド結成なんてこともせず、
高校を卒業すると同時にギターも全く弾かなくなってしまった(^0^;。
根っからの楽器好きでもなしにやってたこと、それに周りに一緒に楽しめる
ロックギター好きが多かったのは高校生の時だけだったというワケだ。

今度のユニバーサル映画の「SING(2016)」にパンクロックやってる“アッシュ”という
ヤマアラシの女の子が出てくる。このコがエレキギター鳴らすシーンを見て
実は今回の話をネタにしたのな。
本編で歌うのが「Set it all free」。この曲ももの凄くカッコイイ!!
CVがスカーレット・ヨハンソン。…というとアレですよ、
最近ではハリウッド版「甲殻機動隊」で草薙少佐やったりしてるアクション女優。
元々歌手だったみたいだけどこんなに歌が上手いことを知って自分もたまげた次第。
あーまたDVD買ってしまうのかなあ~(泣)

↑ユニバーサル映画「SING」より
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「同人誌ディーラー時代」

2017年01月09日 | 昔回想
中学生のとき、友達に凄くマンガの上手い奴がいて、そいつは家で大学ノート
みたいなやつにクラスメイト数名を簡略化したキャラクターに見立ててマンガを
描いていた。イラストではなくホントにコマ区切りのストーリーになったマンガだ。
もちろんストーリーも自分で考えて、そんときはSFっぽいマンガだったなあ。
通ってた学校の先生まで登場して顔も似てて結構面白かったんだ。
で、その友達の家に遊びに行くと、そのストーリー半ばのマンガを見て
そこからのストーリーを友達数名で考えたりする。
自分も絵心あったんで作画を手伝ったり、もうひとりの友達も
マンガが上手かったので3人くらいで共同作成状態。
それが超楽しくて一時は休みの日どころか、放課後まで
そいつの家に入り浸りだった事もあった。合同製作は事の他面白いのである。

そのうち自分単独で描きたくなってきて、新しいノートに
自分の家でもオリジナルのマンガを描くようになる。
学校での例の友達との挨拶は「マンガ描いてるか!」だった。
プロの漫画家のように下書きしてペン入れとかではなくて
完全に鉛筆のみの作画だったけど、定規でコマ枠を描いて
ベタ(黒く塗りつぶす部分)も全部鉛筆。
なのでシャープペンシルの芯を大量に消費するようになり、
右手の中指に硬いペンダコが出来た。…勉強で出来たのではない(笑)。
遊びに来た別の友達とかにもストーリーが進む度に見せたりしたら、
そいつも楽しみに読んでくれるようになったりとか、中学時代は
そんな事で長い間楽しんだ。

モデリングサークルAPCを結成して久しくなったころ、
自分も社会人になっていてマンガなんか描かなくなっていたけど
サークルメンバーに“コミックストリート”や“コミックマーケット”に
同人誌販売に行く人間が現れて、当然自分も一枚加わった、…というか
加わってしまった、と云うべきか。
初めはテレビアニメのキャラクターのイラストを描いたり同人誌一冊に
数ページ分投稿する程度。でも今度はちゃんとペン入れして
オマケにスクリーントーンまで施す手の込んだもの。
二束三文の価格だけど持っていくと買ってくれる人が居る、
という事に嵌ってしまったワケだ。
暫くするとサークル内でそっちをやるウェイトが大きくなってしまって
プラモもあまり作らなくなっていたかなあ。
するとまた中学時代のマンガ描きが楽しかったのを思い出して
とうとうマンガ本を作るようになってしまった。…泥沼化である。

そんな中、イベント会場でガレージキットらしきモノも売っている
ディーラーを見て、簡単な一体成形のレジンフィギュアなども
出そうと考える。当時は版権等の厳しい規制もなく、
既成のキャラクターでもコレといったおとがめは無かったのだ。
だいいち同人誌自体の内容が既成アニメのパロディーが殆どだった。
数は10個とか自宅で作れる最小限だったけど、そこそこ売れたし。
それが発展して後に“ワンダーフェスティバル”等の本格的な
ガレージキットイベントにも進出する事になっていくのだけど、
ここでは割愛する。

しかしここ10年程の間にだんだん本来の模型サークルの雰囲気に戻ってきて
模型を作るメンバーも増えてきた。いつのまにか同人誌なんか作らなく
なって久しい。モデリングの世界でももっと対外的にAPCの知名度を
上げる意味もありメンバーの一人が会のゆるキャラを作ることを提案。
名前が“エピ子ちゃん”と“エピオくん”(笑)。
…ちょうど自衛隊の“ピクルス王子”と“パセリちゃん”みたいなノリか。
まあ初めはホントに冗談半分だったんだろうけど。
エピ子ちゃんだけメンバーがデザインして主催展示会の看板に
アレンジしたが、いまひとつギャラリーの反応は無かった。
やはりイラストだけではワケが解らないし云うまでもない。
折角作ったキャラなのにこのままじゃア寂しいと思い、
自分はサークル会誌にエピ子ちゃんのマンガを描いて載せたんだ。
まぁそれでも会員からの反応も全然だったけど…f(^^;。
コレは今のとこ会員しか知らないので因みにココにも載せておきますね。
(他への拡散はしないでください)

この“ディテールダウン”というのはこれまたメンバーの一人の語録。
ここではジャケット(衣料品)の事ではない。
「最近金型の技術が進歩してきてキャラクターモデルでも実物と紛う出来に
なったのはいいが、実物モデルを重んじると殺風景な部分に余計なモールドが
アレンジしてあるのが逆に目障りだね」なんて話が出て、
「ディテールダウン(つまりワザワザ形状を消して実物に近付ける)しないとな」
というセリフを聞いてこのマンガネタを思いついたんである。
ともあれウチのサークルも発足から35年以上経って、
その間にはメンバーも入れ替わり立ち代りし、やってる内容も激変の歴史だったのだ。
尚、“エピオくん”のデザインは未だ決まっていない。

(卓上のモデルは昔イベント販売していた「W3(ワンダースリー)」の“ボッコ少佐”)
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「紙芝居」 ~昭和の一風景~

2016年02月18日 | 昔回想
もう10年近く前だけど、テレビで今はもう殆ど居なくなってしまった
“紙芝居のおじさん”がまだ活動しているところがある、っていう
番組をやってたのを観たことがある。その場所は自分の地元、都島区だった。
モロに知っている場所が映ってたのでかなり興味深く鑑賞した。
…でもさすがに今は見かけないなあ、絶滅してしまったかも。

自分がそう、小学1~3年生くらいの頃、友達と公園や民家の横の路地みたいな
所で遊んでると、自転車に乗った“紙芝居のおっちゃん”をよく見かけた。
いつも同じ人で、“おっちゃん”、と云うよりもう“おじいちゃん”くらいの
年だったような…。自転車はよくある昔の大きい、ドロップ型ライトの付いた
タイプで、ブレーキレバーもチューブに繋がっているのではなく
一体のままハンドル軸の辺りまで来てて、金属ロッドでブレーキに繋いである
感じの。でスタンドは4箇所で地面に立つすごくガッチリしたやつで、
後輪の辺りを思い切り上に持ち上げながらガチャッとかけるヤツだ。
だからスタンドの地面に擦る部分には小さい車輪が付いてる。
もっというと、よく売りに来る豆腐屋さんとかが使ってるのと同んなじヤツ。
…あー、“売りに来る豆腐屋さん”自体、今はいないよなあ。

その自転車の荷台に小さいタンス、ともいえる引き出しのいっぱい付いた
木製の箱が積んであって、テッペンの面全体が蓋のように開けられるように
なっている。開けるとからくりの様にカタン、と紙芝居の画面が垂直に立つ
仕組みになっているんだ。おっちゃんは辺りに子供が多数居るのを
確認するが早いかその“移動式紙芝居劇場”を素早く組み立てる。
子供もそれを見ると自動的に周りに集まってくる。
ただ暗黙の了解があって、そのまま只で紙芝居が見れるわけではなく、
おっちゃんはそこでまず駄菓子を売り始めるのである。
つまり自転車紙芝居の正体は外回りの駄菓子屋さんと云う訳だ。
誰が教えられたともなく、子供は皆駄菓子を買ってそれを食べながら
紙芝居を見物するというシステムを心得ていて、たまたまお小使いを
持ってる子は駄菓子を買い、それを見るや慌てて家にお小使いを
もらいに走る子や、中には諦めていじけて帰る子もいたりする。
別にお菓子を買わずに紙芝居だけ見ていた所で「あんたは帰りなさい」
とまで言われないけど、一応子供なりに“タダ見”の後ろめたさはあるのである。

で、売ってるお菓子はどんなかというと、殆どの子供は開口一斉に
「おっちゃんパリパリー!」と叫ぶ。
…“パリパリ”とは切手よりやや大き目の板状に加工された砂糖菓子で、
うーん、名前を知らないのだけど見た目にはラクガンのもっとキメの細かいヤツ、
というかデコレーションケーキの上に載ってる飾りの材質に近い。
厚さは1ミリくらい、色は淡いオレンジや緑で片方の面に細いミゾで
動物やら何かの絵が描いてあり、それが細かい粉にまぶさって紙に包まれている。
価格は10円。
お菓子は全てタンスの引き出しに詰まっていて、それを皆に配り出す。
そのままぱりぱり食べてしまってもいいが、コレを買うメリットは他にある。
皆んな何をしだすのかというとこの動物の絵を一生懸命ミゾに沿って形に
切り出し始めるのである。上手く形通りに切り出せるとソレをおっちゃんに申請。
すると更に高い、30円くらいの駄菓子がもらえるのだ。
しかし絵柄にも当たり外れがある。ランダムに渡されるのでどんな絵に当るか
紙を開けるまで分からないのだ。“亀”みたいに比較的太い形で
抜き易いのもあれば、“フラミンゴ”みたいな絶望的なやつもある。
そういう場合は「おっちゃん替えてー」と1回だけチェンジ可能。
それも裏目に出て更に無慈悲な形に当ってしまう事もしばしば。

さて、周りの子を観察すると形の抜き方には2通り確認できた。
1つは指で少しづつペリペリ割って残していく方法。
もう1つはミゾの無い裏面をゆっくり舐めて切り出す方法、ミゾの僅かに
繋がった部分を溶かして自然に分かれるのを狙った方法である。
前者は比較的簡単な絵だった場合、後者はフラミンゴみたいな絵に使う手だ。
…でヘンな所から割れてしまうと諦めて食べる。成功すると30円のお菓子だ。
記憶の限り、過去成功した友達は1人しか覚えていないけど。
もちろん自分も上手く行ったことがない。今思うと30円のお菓子に
そこまでの労力使うかよ、と子供の熱血加減に感心する。
その他のメニューは主力としてぺらぺらのウエハース状のせんべいに
どろっとしたソースを挟んだ“ソースせんべい”とか、このソースの代わりに
練乳が挟まってるのとか。割り箸につけた水飴もあった。
水飴は二本の割り箸で透明の飴とカラフルな粉を練り合わせ、
乳白色の綺麗な色にして食べる楽しみがあり、コレは後に“ねるねるねーるね”
とか云う製品の原型になったと思う。…共に確か20円かと。
因みに30円のお菓子はこのせんべいにドロッとした汁の付いた昆布が
挟まったヤツ。食べた記憶は無いけどあれは多分美味しいぞ。
まだ他にもあったかも知れないけど憶えていないなあ…。
でも大体は普通の駄菓子屋に売ってるようなものよりもっとチープな、
いくら食べても腹の足しにはなりそうにない軽い食材ばかりだった。

肝心の紙芝居の方は、なんかそのおっちゃんの考えたオリジナルの内容で
確か「(頭部分不明)…キン坊」とかいう題名だった。
坊主頭の少年が主人公でギャグのような、道徳っぽいような、勉強にも
なるような、1~2分くらいで終わるような内容の短い話である。
絵も当然おっちゃんの作で綺麗な色で仕上げた原紙だ。
当時コピー機も無かったしね。
…でその漫画だけじゃなく“とんちクイズ”もセットになってて、
絵と文字の組み合わせなんかを見せながら「はいこれ何と読む~?」
とか問題が出ると解った子は「なんとかー!!」とか答えながら
手を出す。当ってたらその子にまた駄菓子をくれるワケだ(笑)。
だいたいこんな流れだったかなあ。
家にテレビが1台あったか無かったかの、「バリバリの昭和」話である。
でもバカにしちゃあいけない、あの昔テレビアニメになってた
「黄金バット」は最初はこの移動紙芝居のネタだったそうである。

(卓上のモデルはその当時人気商品だった「宇宙戦車アトラス」)
コメント (2)
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「ガンプラブーム」 ~プラモ買うのに店頭に並んだ思い出~

2015年03月16日 | 昔回想

自分が中学生から高校に上がって間もなくくらいかな、そんな時期に
ガンプラが流行り出した。その頃自分は“カウンタック”とか
“ポルシェ”とか、スーパーカーと呼ばれる部類のプラモをよく作って
いたので「機動戦士ガンダム」の番組も存在は知ってたもののあんまり観て
なかったんだ。なのでそのブームで初めて登場するモビルスーツのデザインを
意識し始めたくらいだった。

MSで初めに気に入ったのは“ズゴック”。ソレまでのスーパーロボットに
よくある人間に近い顔したのとは違い、頭が無くズングリした形に凄い
センスを感じたので。で、1/144のヤツを購入するワケだが、
そんときボディーに塗った色が「薄紫」(笑)。
…もろ「ガンダム」観てない奴の典型だな。
でも素組みじゃなく改造したゾ!  …え?何処かというと“爪”。
爪が本編の絵に対して長すぎないか?ってのには気がついて、
半分くらいの長さに切って丸くヤスった。短い方が本編画像の雰囲気に
近いと思ったんだ。これは後に同スケールでシャアズゴックを作った際にも
同じことをした。まそりゃどーでもいいかf(^^)。
ガンプラはアニメキャラクターでありながらゼンマイ動力とかが無い
ディスプレータイプの商品だったせいかその後ももの凄く流行った。

「モデリングサークルAPC」は実はこの頃に発足した模型サークルだ。
自分が馴染みのおもちゃ屋さんの店主から、プラモをやってる
連れと自分の2人で店の常連の子供に塗り方とか教えてやってくれないか、
という提案を受けたのが発端。…後で思うと店のプラモ販売の戦略だったんだけど。
でも呼びかけると5~6人集まった。初期の集会はおもちゃ屋さんの
ダイニングキッチンを借りてやったんだ。 …超アットホーム!(笑)。
テーブルクロスの上に持って集まった作品はやはり基本ガンプラだった。
APCはガンプラブームに乗って出来上がったサークルと云っても過言ではナイ訳だ。
そんな頃かな、巷では「ガンダムが買えずに泣いてる子供がいる」とか聞いたのは。

当時自分はスケールモデルが好きだったので1/100とか1/60とか、
でかいガンプラは買わなかったけど300円のはガンダム、ザク、etc買って
作った。で、アッガイが欲しくなった時にその常連の店とは違うところで
買おうとしたんだけど、その時店頭で整理券を渡された。
「わ、こんなシステムなの?」つまり新製品は取り合いになるので
こうしてるとのこと。整理券があたらなかった子は並んでも無駄ということだ。
そこで初めて“泣いてる子供がいる”実感がした。300円のプラモ買うのに
こんなタイソウな、とも思った。自分はもう高校生なので券持って並んでるのが
後ろめたくなるくらいだったのな(汗)。

でもそんなのはまだ序の口だった。
ある街のプラモ店では、1/144のガンプラに1000円くらいのレシプロ飛行機
やら戦車やら、一個づつ紐で縛って置いてあるのを見かけた。
なんでも、ガンダムばかりが売れて他のが全く売れないから、ガンダムと他の商品
とをくっ付けて「これが欲しけりゃコレも一緒に買え」みたいな暴利な事を
してるらしい。いわゆる“抱き合わせ”と云うやつだ。
ガンプラ1個に2個くらい大きなスケールモデルが付いたヤツも
見かけた気がする。ウソではないよ、本当に見たんだから。
いくら売れ行きが偏ったって、そんな事しちゃ駄目だよなあ…(^^A。

近頃のガンプラはほぼ設定の形にクリソツでおおよそ文句のつけようが
ないスタイルだけど、その頃のはみんななんとなく肩幅大きくて頭がでかいような
不自然な感じだった。そんな中ザクとかで流行った改造は決まって頭を左右方向で詰めて
小さくするのと胸のパーツの腕の付け根面を削り込んでハの字にし少しイカリ肩にするとか。
んでサークル会誌(定期的に会員に配るコピー誌)に投稿する製作記事に、
〈設定〉と〈キット〉の絵を並べて描いて得意気に修正箇所を説明するワケだ(^^)/。
あとはモノアイを左右に可動させたり。…その頃あそこは透明部品もなくて単なる
モールドだったもんな。足も完全に平行に前を向いてたので、大河原邦男氏のイラスト
みたいにガニマタにする改造で皆「おおーっ!」ってなってた時代だったのだ。
まー当時自分はそこまでしたこと無かったけど…。
最近は別売改造パーツとかも凄い充実してて、「当時こんなのあったら小躍りしてた」
って思ったりするよな。

(卓上のモデルは1/100「“赤い彗星”のザク」)
コメント (4)
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