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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1466- ワーグナー「リング・サイクル」とタランティーノ「ジャンゴ 繋がれざる者」の関連

2013-03-14 23:34:05 | NYT

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ジャンゴ 繋がれざる者」にワーグナーの指環を絡めた批評がニューヨーク・タイムズに載ったのは先月2月のことで、日本ではこの映画の封切前でした。
3月1日公開となりましたので、この批評を意訳してみました。
(映画はまだ見ていないので細かいニュアンスのところはわかりませんが)
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ニューヨーク・タイムズの記事オリジナルはここ
こちらにもあります。
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2013年2月21日 ニューヨーク・タイムズ
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批評家ノートブック
ワーグナーのサイクル以前に、その伝説にはよく知られたリングあり
By ZACHARY WOOLFE

クエンティン・タランティーノの「ジャンゴ 繋がれざる者」、この映画のサウンドトラックにはエンニオ・モリコーネや、リック・ロスといったワイドビスタな響きがこだまする。
この映画の中で最も重要な音楽セレクションのひとつであるはずのものは決して聴こえてこない。それはワーグナーの「リング」サイクルである。
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五つのアカデミー賞にノミネートされたこの映画、ある晩二人の主役がキャンプファイヤーをしながら、ワーグナーの「サイクル」にもとづく昔話をしている。黒人の解放奴隷のジャンゴ(ジェイミー・フォックス)の妻はいまだに捕虜になっている。彼女の子供の頃の先生はドイツ人でブリュンヒルデと呼ばれていたとジャンゴは明かす。正確には、ブルームヒルダ・フォン・シャフトと言い、意味深い神話と漫画チックな陽気で現代的なブラックスプロイテーションを足し合わせたものだ。
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ジャンゴの新たな友、賞金稼ぎになったドイツ人の歯医者キング・シュルツ(クリストフ・ヴァルツ)は、ブルームヒルダを救う行動はより大きな文化様式への適合であると即座に気がついた。というのも、かつてブリュンヒルデと呼ばれていた囚われの身の女性を救った恐れを知らない若いヒーローがいたからだ。その名はジークフリート。
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シュルツは語る。「ドイツ人なら誰でも知っているよ」
神々の王を父にもつブリュンヒルデが反抗し、火の中に眠らされ、最も勇敢なものだけが彼女を救える、という物語のことを。これはサイクルの2番目のオペラ「ワルキューレ」の終結部、そして3番目のオペラ「ジークフリート」の始まりに位置している。この魔の炎の音楽は、このオペラで最も頻繁に取り上げられるところ。
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「ジャンゴ、繋がれざる者」では、今年の5月22日に生誕200年を迎えるワーグナーを明示的に示すのではなく、「ドイツ神話」の物語の源を示すだけだ。ワーグナーの「リング」を表立って出すのは時代錯誤だろう。ジャンゴの時代設定は1850年代後半で南北戦争前、1869年にミュンヘンで初演された「ラインゴールド」よりもずっと前。言うまでもなく1870年にミュンヘンで初演された「ワルキューレ」、1876年バイロイトで初演された「ジークフリート」はずっとそのあと。
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しかし、タランティーノはこの映画や作品のもとになっている時代錯誤的なものをほとんど切り捨てていない。今日、多くの聴衆がジークフリートとブリュンヒルデの物語を知っているとするなら、それはワーグナーへの熱烈な支持によるもの。つまり、「リング」神話を持ち込んでくるということは「リング」を持ち込んでくるということである。「ジャンゴ」にワーグナーを持ってくる理由は一体なんなのか?
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クリストファー・ベンフェイはニューヨーク書評のウェブサイトで次のように示唆している。在庫処分のビールを浴びせられているような「プロットの中に拡散しているように見える」シュルツ(すなわちヴァルツ)のドイツ語のアクセント、それを説明する試みとして始まったものであることを示唆している。「リング」物語はジャンゴの物語に、叙事詩のメモを加えたもので、クライマックスの大火災を予期させる。
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19世紀来、「リング」神話に関しては特別なアメリカ人がいると思われていた。アメリカの批評家ヘンリー・クレビールはかつて次のように書いた。
あたかもタランティーノを予期するかのように、アメリカ人は「これまでジークフリートのような人気ヒーローのキャラクターはもってなかった。祖先の故郷、家を奪った民族、たしかに男らしくて強くて、少し無鉄砲ではあるが、そんな伝説のヒーローの人気キャラクターは持ち合わせていなかった。」
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しかし、アメリカ南部の農場での反抗的な奴隷や激しい暴力行為の映画が、「リング」からの神話的な背景があるというのは、民族に関するワーグナーの見解が辛辣で反動主義的傾向にあることを考えると、少なからず奇妙なことではある。「ジャンゴ」におけるワーグナーの隠れた存在は、このワーグナー生誕年において、ワーグナーと民族に関する諸問題を余儀なく浮かび上がらせることになる。
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それらの見解にはいくつかの曖昧なところがある。ワーグナーは自著のなかで、自分の愛するドイツ人でさえ、複数の人種からなっていると認めている。彼は人種が「取り返しのつかないほどに異なる」と認めているが、白人の為に黒人を押さえておくといったメキシコの地における黒人認可のような平等の主張を嘲笑した。
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ワーグナーは1883年に亡くなっているので、彼の音楽がナチによって利用されるところを見たわけではないが、「リング」、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」といったオペラは、ユダヤ人をモデルにしたように見える哀れみの泣きや執念深いキャラクターの描写があり、それはワーグナーの個人的所信の表れでもあるため、その暗い流れから逃れられるものではない。
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今、メトロポリタン・オペラで上演されている卓抜な新演出のワーグナー、気高い告別であるパルジファルでさえ、腐敗や堕落がないわけではない。音楽歴史家ジョゼフ・ホロヴィッツはこう書いている「要求される種の保存というのは「パルジファル」がもつれていく混乱のテーマで形成されている。」
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それでは、タランティーノによるワーグナーのこのかすかな気配は冷酷で無慈悲なジョークなのか。彼はそのイデオロギーの側面を無視して、単に物語に引き付けられただけなのか?たしかなところはよくわからないが、「ジャンゴ」は、今日ワーグナーに関する考察という観点でこの重要な役を演ずるべきだ。
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ある友が指摘していたが、ヴァルツは「ジャンゴ」で演じているのと同じくタランティーノの「イングロリアス・バスターズ」に同じような役で出ていると。格式マナーを持ったクレバーで多言語を話す殺人ハンターだ。
全く異なるのは、「バスターズ」ではナチの悪漢役、「ジャンゴ」では、我々がルーツと思っている誰か、我々サイドの誰かであるということ。
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激烈な奴隷反乱の物語に「リング」を絡めるのは、ヴァルツを円滑に奴隷廃止論者に変えていく前に、彼にナチの役を与えるのに似ている。
これらの並置は、我々が奴隷廃止論者と「グッドガイ」を見ているときにナチが映像にでてきて、ナチを呼び起こすため、両者をより深く考えさせることになる。
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同じ方法で、「ジャンゴ」は新たな予期しないアメリカ奴隷制度の文脈に「リング」を、この二つが不可分になるよう、入れさせることになる。
私たちは、ワーグナーの外国人嫌いの著書や、彼の作品の問題面等を忘れてはいけない。しかし、私たちは彼の音楽を回避するべきでないし、それを楽しむことが出来ければならない。
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タランティーノのこの映画は、意識しなくてもこのようなことを思い出させるので、我々がするべきことはというのは、気づくままにあれ、ということ。ワーグナーのオペラは歴史や政治の外に存在するものではない。レパージュの「リング」・サイクルのプロダクションは政治には無関心なものだが、4月にメトロポリタン・オペラにリングが戻ってきて、たくましいブロンドのジークフリート、ジェイ・ハンター・モリスが魔の炎にはいりブロンドのブリュンヒルデ、デボラ・ボイトを目覚めさせるとき、聴衆は自分たちの中に「ジャンゴ」を想起することになるだろう。

以上、河童の意訳。
おわり