河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1217- ズービン・メータ N響 第九 チャリティー2011.4.10 神々しいメータ

2011-04-11 01:23:19 | インポート

110410_173701

東京・春・音楽祭2011年は大震災の影響をまともに受けて、もろくも悲しく、そして重く重く過ぎていき。
それは決して祝祭的ではなくむしろ何かを後押しするような聴衆の拍手から始まった。
時間が来ていつも通りの場内注意アナウンスが流れ始め、アナウンスが流れている途中そうこうするうちに合唱のほうから一人ずつ舞台に入り始めた。ここでその拍手が起こり始めアナウンスはかき消された。来日演奏団体の場合はよくこのような儀礼の入場拍手があるが、国内団体ではまず無い。そのような異例な、祝祭的なものではなくなにか、後押しをするような聴衆の拍手が続いた。合唱が入りオーケストラが揃うまでその拍手は鳴りやむことがなかった。
チューニングが終わり、3.11のときフィレンツェ歌劇場とともに日本にいたズービン・メータが今度は単身で現れた。一人ゆっくりとポーディアムに向かう。シリアスな表情だ。演奏前なのにブラボーが飛ぶ。その勇気、信念、意志、指揮者と聴衆、日本人からの感動、賞賛のブラボーにほかならない。
メータは一度オーケストラの方を向いたがおもむろに聴衆に向きを変える。下手からマイクを持った通訳がメータにそのマイクを渡した。メータの淡々とした中にもこれ以上ない悲しみの分かち合いそして悼みのあいさつ、あまりにもシリアスな表情。メータのあまりにも深い思いを6列目に座っていた自分はひしひしと感じきった。他人(ひと)の悲しみを自分のものとしたメータ、否、地球スケールでの友と友そのような思いのあまりにもシリアスな表情にみえた。そしてまさしくベートーヴェンが描ききった強い意志の曲が今から奏される、これ以上ふさわしい瞬間はない。
メータは聴衆とともに黙とうをした。起立した聴衆、そして舞台のオーケストラと合唱団、その全員起立の様は、全てが同じ高さにあったように思え、聴衆と舞台の隔たりがなくなり一体化したように思えた静かで深い黙とうが、この静寂を破らないでほしいといったそのような思いが広がったように感じた。メータの意思がすべてに伝わった瞬間でした。まさに神々しいメータ。
そして、深い鎮けさからまるで催眠術が解けたかのように意識が覚醒した聴衆はこのあとの極度に緊張をはらんだメータに再度、魔術にかけられるとは、もしやある程度わかっていたのかもしれない。メータが聴衆に背を向け追悼の曲から演奏会は始まった。
.

東京・春・音楽祭2011
東北関東大震災 被災者支援チャリティー・コンサート
ズービン・メータ指揮/NHK交響楽団
特別演奏会
.
2011年4月10日(日)4:00pm
東京文化会館
.
黙とう
.
バッハ アリア
.
ベートーヴェン 交響曲第9番
.
ソプラノ、並河寿美
メゾ、藤村実穂子
テノール、福井敬
バス、アッティラ・ユン
合唱、東京オペラシンガーズ
ズービン・メータ指揮
NHK交響楽団
.

第4楽章の歓喜の歌の冒頭がこれほど悲しく聴こえるとは非常な驚きであった。異常な事態における研ぎ澄まされた神経が耳をもそのように支配してしまっている。わかっているとはいえこのようなイメージを構築させていくメータ、音楽というものの何が側面で主なのか一種、名状し難い悲しみの混乱が自分の頭を覆う。
この日ほど、第九の第1,2,3楽章の巨大さを感じたことはない。プレイヤーの感情の吐露がもろに音圧となって前面に出てきている。ピアニシモでも全力で奏すればこのようになる。ましてこれはN響でなければならない。折り目を求めそしてそれを越えた見事な演奏であったと言わなければならない。燕尾がもはや喪服であるように思えた深い悲しみをこの音楽で越えていこうとする意志。
メータがこうやって、やってきたからN響からこのような音が出る。圧倒的な第1楽章。音がぎっしり詰まっている。細部へのこだわりはなく一見大振り実は繊細な棒で音楽の大きな流れを造っていく。第九ソナタ形式の真髄を音の塊で表現。
メータの棒は真後ろから見ると大振りのように見えるが、少し角度を変えてよく見ると非常にデリケート。フレーズによって強く角度をつけたり滑らかに振ったり、右左ポイントを押さえた指示、遠近のメリハリが効き、結局、ほれぼれするようなバトン・テクニックであり、息の長い第1楽章を大きな縁取り、フレージングで強靭な流れで振り切る。お見事の言葉だけ。
第2楽章スケルツォもいきなり音がぎっしり詰まっている。今日のN響の音圧充実度!は大変なものであり、このような状況下のチャリティーコンサートだからということもあるし、さらに言えばホールが上野だからかもしれない。響きの充実度は素晴らしく、またピッチも見事、両者のすごさの証明は第1楽章、そしてこの第2楽章の終結の最終音のあとの残響の見事さを聴けば一耳瞭然。ホール、オーケストラ、一体化した充実の響き。
それでこの第2楽章ですがここでもメータのバトンテクニックが素晴らしい。バトンのためのバトンではなくて、そのバトンで何を表現したいか。突き詰めればそうなるんでしょうが、あまりにも見事な棒さばき。このスケルツォ、トリオでのバーをどのように区切って表現すればいいのか、こういうのもなんだが、知り尽くしているわけですよね。棒に興奮。オーボエ・トップの方のツイッターは有名ですが、彼自身棒振りとして国内行脚をしており、その彼がメータの棒を興奮気味にツィートしているのもむべなるかな。
そして、第3楽章こそは祈りの音楽。メータの棒は15分かかっていないかなりの高速モードなんですが、そのようなことをまるで感じさせない異様に丁寧で深い、粗末なところが微塵もない祈りの音楽となっておりました。変奏間のウィンド(含むホルン)ハーモニーの美しさ。聴きごたえがありました。特に演奏後のスタンディングはオーボエが一番先でしたけれど、ホルンパートは1番と4番がスタンディングのご指名を受けていて、もちろんそれはこの第3楽章のウィンドとしての彫りの深いソロパートの見事な演奏に対してのものなんでしょう。
この楽章がいかに見事な祈りの音楽であったとしても鎮魂にはいまだはるか遠い長い時間がかかる。ベートーヴェンの音楽がメータとともにその第一歩を踏み出させてくれた。そう思いたい。
この第3楽章の始まり前にソリスト4名が入場しましたが拍手はなくむしろこれは自然な感じがしました。メータの棒ではこうなるんですね。
そして第4楽章へはアタッカではいるわけではありません。呼吸を置き音楽の溜めを作りそれから音楽が響きます。どうってことないかもしれませんがやはりメータによりいろいろなことが考えこまれていると思います。
第4楽章も圧倒的な音圧がプレイヤーの熱い意志を感じさせます。それを越えたのが今日の合唱、明瞭な響きが非常な圧力で前面にでてくる。これはメータの力というしかない。合唱のコントロールと開放。歓喜の歌は一緒になって歌いまくっていたし、オーケストラを少し抑え気味にしてコラールを強調。そして合唱とオーケストラの見事なアンサンブルバランス。うーん、すごい棒だなぁ。
全員、全力投球、力を出し切っている。ここまでさせるメータはすごい。完全な歓びというよりも希望への道。そしてそれに向かう意思の力。
ソリストはまず巨大なアッティラ・ユン、殊の外、安定感と柔らかさがある。第九では出方がかなり難しいと思いますがこのようなタッチで歌いこまれると妙に安心感が出てきます。
並河、藤村、福井が硬質に聴こえてしまうぐらいの柔らかさなんだが、変な違和感はなく百戦錬磨のバイロイト組といったところか。いずれにしてもこの日の4人ともに全力投球の熱唱だったと思います。非常に熱かった。
今日のメータはコーダ終結部最後の小節でテンポを少し落としましたけれど、ほかはあまりアチェルランドしたりテンポの揺れをさせません。どっしり構えているというわけではありませんが、音楽の流れ、輪郭、縁取り、そのようなものを重視して音楽を進めていきます。遠近感、ダイナミクス、柔らかいフレージング、いろいろ感じさせます。全体のスケールの大きさにほれぼれします。
この楽章のコントラバスによる最初の歓喜の歌については冒頭に書きましたように悲しみの音楽に聴こえました。音楽の振幅を感じました。フルトヴェングラーだけがなしえた音楽の表現の多様性をこのメータがここでそのことを思い起こさせてくれたのも大きかった。
N響の上野での響きは格別なものがありましたけれど、それもこれもメータが単独で乗りこんできてこの音楽を作り上げたその力の大きさを忘れるわけにはいきません。
.

演奏後の爆発的な拍手はとどまるところを知らず永遠に続きました。聴衆がほぼ全員すぐにスタンディングして拍手をするあたりも普段の演奏会とはかなり異なり、それでもやはり祝祭ではなく悲しみでありシリアスなメータの表情は、引けた後のカーテンコールにおいても同じであった。聴衆に向けられた深いまなざしは最後まで変わらなかった。素晴らしい演奏会でした。
自分もこの演奏会を聴くことにより微力ながら被災地へのメッセージが形をかえて力になってくれればと願い、熱狂をあとにした。
.

この日の演奏予告のブログはここ
.

人気ブログランキングへ