河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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1468- マーラー、交響曲第6番、悲劇的、シルヴァン・カンブルラン、読響2013.3.18

2013-03-20 21:47:00 | インポート

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2013年3月18日(月)7:00pm
サントリーホール
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マーラー 交響曲第6番 悲劇的
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シルヴァン・カンブルラン 指揮
読売日本交響楽団
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スケルツォをはじめとして多少の変拍子はあるもののいたって普通拍子の曲だと思うのだが、カンブルランの棒さばきは克明。20世紀後半の音楽の表現をほうふつとさせる。棒さばきというのは文字通り棒のさばき方のことで、こんなに拍子を克明に大きくとらなくても自然に流れていく曲なのにリズムを感じさせたり、音と音のぶつかり合いから出てくるものを際立たせ、また奥行き感の縁取りも明確にする。特に腕を大きく横に動かして「腕刀」のようにとっていくあたり古典とはとらえていない斬新な振りで、曲を新鮮にする。やっぱり一つ上のレベルの指揮者だ。
オーケストラは技術的な部分で十分に応えていたとは言い難い。
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第1楽章 22分 提示部リピートあり
第2楽章 14分 アンダンテ
第3楽章 12分 スケルツォ
第4楽章 28分
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タイミングはだいたいこんな感じで、さらに言うと
第1楽章の提示部、約10分
第4楽章の序奏、約5分
ぐらいの長さ。
スケルツォを第3楽章にもってきたことで、より古典的でさえある。
とは言え異常に膨れ上がった曲想や、多彩な音色追及の為に拡大した楽器編成。コントロールするカンブルランの棒さばきが気持ち良い。
ブーレーズ流と言えるかどうかわからないが、膨大編成ではあるが肥大化させない引き締まったアンサンブルを志向しておりソフトパッセージも感情に流されずリタルダンドの多用もない。ためを排したアシュケナージの演奏は確信犯的であったが、そのような一種作為的なものはない。現代音楽のオーソリティとしての6番解釈です。
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第1楽章はいきなり第1主題から入ります。最初の数小節がかなり重かった、オーケストラが。
たぶん前々日の1回目の同曲演奏の後、合わせていないからでしょうね。それでもすぐに感覚が戻ってきてギュッと引き締まった演奏が展開されました。
この提示部の第2主題にはいる前の経過句のちょっと前あたりにティンパニの打撃とコラール風モチーフが早速現われます。瞬間的に第4楽章の最後の最後で爆撃的に鳴る波形そのままです。なんというか、現代感覚に優れた指揮者が振ると、このような端端のことが妙につながって聴こえてくるんですね。音楽の感情論の前に、音楽構造ありきというのでもなくて、「響きのつながり」を感じさせる。響きで聴かせる。オーケストラがこの響きのつながりを表現するにはボテ系にふやけていてはだめで、引き締まったサウンドが求められる。余計なものがあると「つながりのパッセージ」の印象まで薄れる。
結局、カンブルランの感性の素晴らしさです。
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この楽章の提示部は昔はあまりリピートされなかったような気もしますが、楽章の長さバランス的には繰り返すことにより、ちょうどいい感じになります。結果、長さは長さを招く、長大なシンフォニーになっていきます。
再現部を考慮すると提示部をリピートすることにより展開部が相対的にコンパクトになったわけですが、カンブルランは立体感で聴かせます。遠近法的奥行き感と言った方がしっくりきますけれど、具体的には、いろんな響きが同一楽器、アンサンブル単位等で、そこかしこで独自に鳴っている。響きが奥や手前で束になって鳴っているので彫が深く感じられる。距離的に離れたポジションにあるインストゥルメントが強弱をつけてハーモニー重視で奏するのとちょっと違う。
ですので、この束ごとに「音のぶつけ合い」のような現象もでてきます。展開部はあっという間の出来事とはいえ、時間の流れとは別の火花の散らし合い的面白さがあります。カンブルランの感性の素晴らしさ。
読響常任の決めになったと個人的には思っているトゥーランガリラの演奏のような面白さがありました。
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再現部を聴いていると、カンブルランはもっともっとギュッギュッとオーケストラを引き締めたいように感じたのです。とはいえこの疾走の強烈な響きはむしろ逆説的潤いさえ感じさせる道端のタンポポ的「感情」のこもった部分であったのかもしれません。
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アンダンテを第2楽章にもってきている。古典形式だとこうなると思います。第九的な激烈さを求めるならこの楽章はスケルツォにしたかもしれない。それでも形式の分解ではない、ベートーヴェンがそれをしているので。カンブルランのしたいことはそのような主旨のことではない。
それで、この楽章も指揮者はリタルダンドをあまり使いません。昨今の指揮者が多用するウェットでズブズブでやわな演奏は、はなから眼中にない。基本的な方針は第1楽章と同じ。結果、ドライできわめて美しい演奏が繰り広げられました。耽溺する美しさではなく。
ホルンのソロは限りなく難しいと思われ、この日のようにやや線が細く際どい演奏もおつなものではありますし、また、化粧をしない顔のようなザラザラだがふくよかなサウンドのソロも可能性としては面白い。どちらとも言えません。ただこの日、浸るというより応援するモードに近かった感は否めない。
ウィンドに関してはカンブルランはもっとピアニシモを多用したかったような気がします。ありったけのデリカシー。そうすればホルンはじめソロの際どさがもっと映えていたように思います。この楽章は際どい美しさ、スレスレの美が面白いのです。
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第3楽章のスケルツォ
スケルツォを第2楽章に持ってくると、第1楽章再現部の圧力がそのまま継続モードで乗り移ってきます。あの圧力に押しつぶされないようにするにはスケルツォの方が正解かな、とも思います。それに楽想も相似的緊密さがありますし。ですが、この日はここにスケルツォ。
この楽章はハーモニーが厚くなったり薄くなったり、十二単が一枚ずつめくれていくような妖しさ、またその逆行。音色旋律のことはよくわかりませんが、そのような聴き方も面白いかなと。激しさばかりではない。
カンブルランはテンポをあまりいじらない。そうゆうことで面白さを引き出そうとしているわけではないですし、グロテスクな表現はもともと彼の頭の中にない。
ソロ楽器があちこち突き出てくるような大胆な響きを欲しているように思います。ちょっとここはオーケストラに妥協かな。
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最終楽章は序奏に5分もかかっちまいますんで、古典形式からの類推でいけばかなりの長さになることはだいたい予想がつくところですね。あまり「もったいぶった感」を出してしまうとそのあとの厳しいスコアにポシャってしまうかもしれません。ここは力を抜いて。
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展開部に入る前のところで序奏の速度で再帰する場面があります。非常に際どいスコアだと思いますけれど、ホルンがはずした、というより、揃わなかった。ここで一気に緩んでしまった。雪崩現象ですね。自分(私)だけ雪崩ていれば一番よかったんですが、そのあとの展開部のトランペットのハイ音の強奏も完雑モード。アウトに近い。糸が切れ、おのおのみなみな拡散モードで一気に緩みました。思わず1980年代のこのオーケストラのことを思い出してしまいました。
指揮者はすぐに持ち直しましたが、最初から指揮者の要求レベルの一歩下の方での演奏であったものがもう一歩下がってしまった。むろんこの最終楽章の困難さもあったのかと思いますので相対的であったところもあります。つまりミスがなくてもうまくいっていたかどうか怪しいところがあったということです。
いずれにしてもこの楽章が一番、指揮者のやりたいこととオーケストラの表現とのかい離が大きかったと感じました。
その指揮者のしたいことは、この巨大なフィナーレをそびえたつような演奏をするのではなく、引き締まった鋭い演奏、それは少しは達成された感はあります。
カンブルランは楽器を可能な限り減らして、響きのぶつかり合いの饗宴をやってみたいのではないかと個人的には思いました。
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全体的によかった」といった話よりも記憶を呼び起こし、曲のシーケンスに沿って追体験をしてみないと自分の記憶力の度合いがわからない。それに他人(ひと)の文面をとやかく言う前に自分はどうなんだ」というのがやっぱり必要。
前者に関しては、脳内での追体験はそれなりに楽しいことでもある。
おわり