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623- メロディーの枯渇とひらめきの欠如 エルガー 交響曲第3番 2008.6.17

2008-06-18 00:46:12 | 音楽

そして、もうひとつ、付け加えるならば、形式感のわざとらしさ。

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昨晩、TMSO東京都交響楽団の演奏する似非エルガーの交響曲第3番を聴きに行った。

(TMSO:TOKYO METROPOLITAN SYMPHONY ORCHESTRA)

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1

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2008617()7:00pm

サントリーホール

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シューマン/ピアノ協奏曲

 ピアノ、中野翔太

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エルガー/交響曲第3

 (アンソニー・ペイン補筆による完成版)

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ポール・ワトキンス指揮

東京都響

まず、オーケストラに苦言を一言。

音合わせぐらいもう少し丁寧にやって。。

オーボエがなんとなく音を出して、そのあと金管が、ただ、ブゥァアー、と一回鳴らすだけ。他の楽器も推して知るべし。すこし粗末すぎるぜ。

いくら、うまい楽団ほどチューニング時間が短い、とは言え、短ければ全部うまい楽団だ、というわけでもない。

大丈夫かい。TMSOさん。

最近のプログラム・ビルディングがいいのとは裏腹に一抹の不安を感じる。

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というわけで、超問題作エルガーの交響曲第3番を生で聴く機会はめったになく、これも行くしかない。

結果的には似非エルガーさんが作ったシンフォニーという思いが強くなった。

だって、第1楽章の第12主題がまともにあるぐらいで、あと4楽章までほぼ断片のみ。

エルガーの作曲とはとてもいえない。

一言、三言で言うならば、

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メロディーの枯渇とひらめきの欠如、そして、形式感のわざとらしさ。

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たとえば、最近の例でいえば、尾高さんの振ったエルガーと比べればあまりの駄作に耳をおおいたくなる。

尾高エルガーNO.1

尾高エルガーNO.2

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それで、この第3番ですが、

1楽章の落とし所のない不安定でうるさすぎの第1主題、か弱すぎて輪郭不明瞭な第2主題。

そのあとのさえない展開部。

終結部はまるで第2番第1楽章のように登りつめるが、唯一違うのは、最後、調和音のロングトーンで終わることか。なんだか音合わせを思い出した。ここだけ聴けばピッチはよく合っている。

2楽章、スケルツォ - トリオ。で、またスケルツォに回帰する雰囲気はない。なんと中途半端な曲だろう。

ロンド形式とするにはちょっと難がある。対比感がないので。。

3楽章、アダージョ楽章だが、あまりに形式感が明白すぎ、いままでエルガーはこんな感じで交響曲を作っていないので、このような明白さは第12番のあとの第3番ではなく、第1番の前の第0番というか、習作のように聴こえてくる。

4楽章、これもソナタ形式がわかりすぎで時代逆行の雰囲気。

ここ、とくにオーケストラのバランス悪し。ブラス意味なく強すぎ。うるさすぎるわ。

ただ、音の強さに比例して曲が盛り上がるわけではなく、最後のピアニシモは効果なし、というか作為的であり、曲のドラマ性がいま一つ浮かび上がってこない。

結局、第1楽章から第4楽章まで、もう一度聴いてもいいが、今聴いたものをなんにも覚えていない。ひとつぐらいわかる節だせや。。この点、ひらめきゼロだなぁ。。

やっぱり、本人の曲ではない。

これはこれで有意義ではあった。

前半のシューマンですが、オーケストラとピアニストが別方向をみているのでは?

息が合っていないというよりも、異質。

違う方向みて仕事しているのでは?

オーケストラの伴奏は歌わず、ルーチンワーク。

ピアノは、歌に無理がある。こなれていない。

指揮のワトキンスは良かったと思いますよ。わりとオーバーアクションだが、動きに無理がなく不自然さを伴わない。音楽をひっぱていく姿勢に好感がもてる。彼だからこの似非エルガーをここまで構築できたのかもしれない。共感がなければ、きっと、隙間だらけの音楽となっていたかもしれない。

おわり

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