河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2564- ショスタコーヴィッチ、VnC1、パヴェル・ベルマン、5番、バッティストーニ、東フィル、2018.5.31

2018-05-31 23:36:14 | コンサート

2018年5月31日(木) 7:00-9:20pm サントリー

ボロディン ダッタン人の踊り  11

ショスタコーヴィッチ ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調Op.77  11-8-14+5
 ヴァイオリン、パヴェル・ベルマン

(encore)
J.S.バッハ 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第1番よりサラバンド  3

Int

ショスタコーヴィッチ 交響曲第5番ニ短調Op.47  17-5-15-10

アンドレア・バッティストーニ 指揮 東京フィルハーモニー交響楽団


ショスタコーヴィッチのシンフォニーは時折、暗黒の楽章が有ってそれも含めた全体の構成が鮮やかでシンフォニストの腕の冴えを感じさせてくれるもの。今日のヴァイオリンコンツェルトはそれらシンフォニーのさらに上をいくような真っ暗な世界が第1楽章に広がる。シンフォニストの面目躍如たる作品で深刻なシンフォニーとしか聴こえない。この作品は、交響曲第9番と第10番の間に位置していますね。完全に10番のほうに寄っていると思いますけどね。
余りに暗すぎて、きっとこのまま終わるだろうなと、シンフォニーでもそうだし。の通り何が何だかわからないうちに初楽章は終わる。ヴァイオリンソロは譜面不要のパヴェル・ベルマン。どうすればあのような暗黒の作品をこんなに見事に弾けるのか素人目には一滴もわからない。太めの音で確信に満ちた弾き。オーケストラともどもムードがシンクロしている。
生で聴くこの曲はオーケストラの弦の束が割と強調されたようなサウンドバランスなんだがそれはこの楽章だけなのかもしれない。

もんもんとしているうちに次の楽章へ。
シンフォニーの型通りのスケルツォで、気分がやや変わって軽くなるものの、ウィンドが空気のない自転車の車輪の転がりを感じさせるようなトリッキーな響き。スケルツォ、トリオが拡大されていて結構な規模で長め。この2楽章まではソロはシンフォニーの中にあるような具合の動きで、シンフォニー的な楽しみ方もありですね。

次のパッサカリア、折角スケルツォで明るさを取り戻したのも束の間、初楽章の闇が戻ってきて、暗闇を抜けるとそこは暗闇だった、の世界。
トランペットとトロンボーンが無く、チューバが1本という異様なブラスセクションの構成。チューバがなにやら沈殿物のような鳴りで弦、特にベースと絡む。全く異様な響き。この光景の異常さはやっぱり生で観て初めてわかる。ベルマンはチューバとベースのずっと上のほうのオタマだと思うのだが、実際のところは幅広で安定感のある音、ヴィオラのように聴こえてきます。
沈殿物が引き伸ばされて止むと、5分ロングのカデンツァが始まる。その前のゆっくりとした流れのモードを保ちながらウェットなヴィオラ風サウンドが心地よい。徐々に速度を上げ、音域を上にあげていき激しさを増して、ショスタコーヴィチならこれは極めて自然な流れで、追い込みをかけていきアタッカで終楽章に突入。
ティンパニ強打、回転する音、そのなかをソロが快適に進む。困難なパッセージが続いていそうだ。各インストゥルメントのアンサンブルの中にソロが駆け回る。凄い迫力でフィニッシュ。
東フィルのノリが特筆に値するものでお見事な揃い具合。圧巻の演奏でした。

バッテの振る5番。単音同士のむき出しのぶつかり合いは無い。フレーズの流しかた、呼吸等々、現音チックな装いとは反対方向のもので、これが彼の理解によるショスタコーヴィチ像なのだろう。
終楽章の3拍子からファンファーレに突入する加速、そしてもの凄い急ブレーキ、一体どういったことからくる解釈なのか、とにもかくにも初めて聴く流れでした。
全体の精度が今一つ、バッテはこのオーケストラの首席指揮者だけれども、両翼にいるチョン・ミョンフン、プレトニョフ、彼ら二人がこのオーケストラの水準を高めているのは明らかで、毎回圧倒的な演奏にうならされる。両翼に配しているということの意味を一番よく知っているのはオケメンだと思う。
激しくエネルギッシュなバッテの指揮、実はオケメンが振られているのではなくて温かい眼差しでバッテを振っているのだろうと思います。相応に良好な関係なのでしょうね、音にも色々とよくあらわれています。
おわり