河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1559- ロメジュリ、チャイコン、神尾真由子、春の祭典!!!、クシシュトフ・ウルバンスキ、東響2013.12.14

2013-12-15 01:37:23 | インポート

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2013-2014シーズン

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2013年12月14日(土)6:00pm サントリー
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チャイコフスキー ロミオとジュリエット 20′
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チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲
 21′6′11′
 ヴァイオリン、神尾真由子
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ストラヴィンスキー 春の祭典 16′18′
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クシシュトフ・ウルバンスキ 指揮
東京交響楽団
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この演奏会から何日が経ったが、ハルサイでのウルバンスキの身悶えする悶絶変則拍子ダンス棒が目に焼き付いたまま。また激烈な演奏も耳裏に張り付いたまま。
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RA席から眺めました。本人の振りスタイルがほぼ全部見える。左足を爪先立てて内また風にして身体が伸びる、左手は頻繁に何かをつかむようにする柔らかい動き、体の芯でこの曲の変拍子の刻みを感じて全体が神経細胞のようでもあり、脊髄まで滲みこんだアドレナリン満タン状態。変拍子であるためいたるところでビックンビックンきまくる。ものすごい、まるで生贄状態。している方なのかされているほうなのか。
聴衆はピクリともせず唖然とした状態で全身が動かない、ただ観るだけ。動いているのは圧倒的にガックンガックンと全身でトランス状態にさえ見えるようなウルバンスキ、それにひたすら応えようとするプレイヤーたちのマジ顔演奏の動き。
このルツボ状態にありながら、右手のてのひらに一方をあてた指揮棒の先は、ほとんど常に指揮者の胸より上にある。つまりプレイヤーから良く見えるポジションを保っている。指揮者としての肝、理にかなっているように感じた。このように腕がだいたい上方をさまよい、棒先はさらに斜め上を向くので、体の芯から湧いてくるような変則ビートのガックンガックンと併せ、下から上まで一種名状し難い、誰も何も言えない動けない唖然茫然の聴衆たち、自分も含め。
スコアなどあるはずもなく、楽譜から感じたことを一瞬のレントゲンモードでエクスプレッション!映画のクライマックスのワンシーンを息を止めて観ているような、リアルと非日常性がないまぜになったような錯覚が幻影か、クラクラするような酔いの連続。
それでも、自己陶酔しきっている状態というのではなく、自己の音楽表現の伝播、そしてその曲の最上の表現を成し得るための自己解釈の表出なのであって、つまり夢中になって曲を振っているのであって、そこらあたりでただの指揮者との境目がおのずと出ているのだろう。才能が溶岩の様に溢れ流れ出ている。

こうなると、最近の若手はよくディテールにこだわったり、わけもなく踊ったり(これは日本人指揮者)、などといった常日頃の妙な表面分析なんかはただの文句、不平不満であって一体意味があったのか、どっかいっちまってよい。そんな感じ。
スロー過ぎると思えたバスーンの出だしは予兆でしかない。
フレーズの指示は非常に的確で、アンサンブル毎、ソロ単位、ポイントを突いた明確な棒でありそれが全部頭の中からでてくるのでスコアを見ながらの‘ながら棒’とは基本的に異なり、全部生きている。また、サウンドの強弱や表情の濃淡に対する抑止開放指示もはっきりしている。そこらあたり遠慮はない。これはあたりまえではあるのだが、迎合指揮者たちとは一線を画す、この若者。そしてその通り音が変わるこの日のオーケストラ。
ウィンドのハーモニーは全てをさらけ出し、それがすべて限りなく美しいかどうかといったあたりはオーケストラの問題もあろう。このような個所では本番では不満を表してもしょうがなく、出来るだけもっともっと合わせて、と前向き。まぁ、非凡だと思います。うまく行かないかもしれない怖れを成功の可能性に導いていく棒、リスキーであろうとも。
若いって素晴らしい。
表現は細やかだがその色彩感を出すためにテンポがスローになるということはない。これは別の話しなのだろうね、きっと。
最初の強烈ビートは弦主体の乙女たちの踊り。ここらあたりからバッキンバッキンくるのだが、テンポ感は非常にすっきりしている。耳が洗われるようだ。強烈な大サウンドでも明確な縁取りはさらにクリアになってきている。見事なフレーム感覚。
だいたいこのような感じで進む。圧倒的な、大地の踊りまでほぼ一瞬。指揮模様は冒頭に書いた通りで徐々に加熱。第1部の比較的インテンポで多彩な色彩感覚、ここまででおなかいっぱい。スコア見ながらだとこのような表現は出来ないだろうなと逆に思わせるに十分すぎる濃い演奏。
第2部はいつも序奏が長すぎるのではないかと思ってしまうのだが、この日の演奏ではむしろ生贄の踊りに達するまでの舌なめずり的な効き目があり、ある程度長い方がより効果が出てきそうだ、このあとの圧倒的な悶え棒にとっていいえじきだ。
始まった、
乙女の神秘的な踊り、選ばれし生贄への賛美、祖先の召喚、祖先の儀式、選ばれし生贄の乙女。
聴衆が全く息が出来ない。息より大事なものを今、聴いて観ている。唖然。
あるツイッター氏が弾よけスタイルと言っていたがまさに言いえて妙。
体の芯からリズムをとっていて拍の頭前のアウフタクト部分で芯がビックンと動き、体の左半分と首のあたりに伝わり、銃の弾をよけているようなジェスチャーになるのだ。このわけのわからない拍子の頭揃えを呼吸とタメを作りながらプレイヤーたちに伝えていく。素晴らしく説得力のある‘からだ棒’。
連続した爆裂は比較的速めのインテンポ、爽快このうえない、生贄には悪いが。
オーケストラがついていけてないとしたらそれはテンポに対してではなく、どちらかと言うと序奏のあたり。特にウィンドのハーモニーのバランス感覚か。美しく流れていたがもう少し抑えながら揃っていたらさらにえも言われぬ響きになっていたことだろう。
とにかく、指揮台の上で全部晒してのたうち回るカブキ棒、いくら夢中になって振っていたとはいえ凄すぎる。才能の発露の表現がこれなんだ、という説得力がものすごくあり、プレイヤーたちもあれは出来ないと思っているに違いないし、要求に100%応えるための目に見える(耳に聴こえる)努力をしており、結果もついてきた。
爆発音響の最終音に負けず劣らず大きな絶叫がホールを埋め尽くした。
いやぁ、とんでもないものを観たと思いました。
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最初の曲はロメジュリ。
この日の公演はヤフオクをみるとプレミアム価格になっていて、だいぶ競っていたようだった。噂のウルバンスキがハルサイを振るとあって、居ても立ってもいられずといったところだ。
一曲目のロメジュリ、肩透かしと言うか、パンフやサイトなどの紹介記事から得ている若き鬼才風なあたりで身構えていたのだが、そうでもない。
芸風は非常に細やかで、かつテンポ感だれずに進んでいく。硬さが無くソフトな肌触り。無数の微妙なニュアンスをすぅすぅと運んでいく。なんだか、カラヤンでも聴いているような趣きだったのです。今思い起こすと、分解機能と言うか、ソフトなタッチながらセクション毎に分解されて聴こえてくる様は、あれはヴィトルド・ロヴィツキ風味だったのかもしれないなどど妄想。
この曲は好物で録音などもよく聴いている。ロシア的な爆音系ではなく、これは言われてみれば確かにソナタ形式の主張ととらえられなくもないと実感。音を一つずつ大事に扱った美しい演奏だったと思います。
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2曲目の協奏曲は、神尾さんが冒頭ねっとりとはじまります。オーケストラがはいってきてテンポが変わりました。両者の意識のずれのようなものがあるかもしれません。ヴァイオリンは比較的肉厚で殊の外、横広で、そのドレス姿とは随分と違うなぁと。
第1楽章のタイミングはロメジュリより長い。指揮者が黙って振っていたらもっと遅くなっていたかも。神尾さん自分の世界がありそうだが、リサイタルだとマッチ・ベターかもしれないと思った、ファンにとっての話だが。
全楽章随分と時間がかかってしまったが、その割にはコクがあったどうか。ウルバンスキの棒もロメジュリ同様いたって静かだった。演奏後何度か出てきたのはソリストだけで、ウルバンスキが出てくることはなかった。
それで思い出したが、ハルサイのあとのソロバウもなかった。最近では誰でもどんな指揮者でもやる奏者の迎合風な立たせ指示、かけらもなかったね。
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ウルバンスキは来年ベルリン・フィルを振るのがスケジュールされているようだ。この日のような演奏をすれば一気にスターダムにのし上がるかだろう。
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ベルリン・フィル
2014年5月23/24/25日
スメタナ わが祖国よりシャルカ、ヴルタヴァ
マルティヌー チェロ協奏曲 vcソル・ガベッタ
ドヴォルザーク 交響曲第7番
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来年の東響での聴きものはなんと言ってもこれ。
東響
2014年10月12日
ショスタコーヴィッチ 交響曲第7番
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ウルバンスキのサイトはこちら。(スケジュール掲載)
http://www.krzysztofurbanski.com/
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おわり