河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

609‐エルガー・尾高 驚異の演奏炸裂 2008.5.17

2008-05-20 23:26:22 | 音楽

尾高が十八番をやる。

前半も聴き逃せないし、これは行くしかないだろう。

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2008517()3:00pm

NHKホール

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ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第3

エルガー/交響曲第1

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ピアノ、ブルーノ・レオナルド・ゲルバー

尾高忠明 指揮

NHK交響楽団

エルガーのフィナーレはこれ以上ないブラスが音による最高の快感を表現し、抑制がきかなくなるような響きの感動を与えてくれた。

尾高のエルガーは完全なる十八番とわかっていてもさらにその上を行く出来だった。こんな見事なエルガー聴いたことがない。

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今日のNHKホールはなぜかステージが前のオケピットのところまで出てきている。

何席分なのかわからないが、とにかくオーケストラも全体に前の方に移動するようなかたちで座っており、したがって音の鳴りが全然違う。

いつも奥の方で多目的ホール独特のどうしようもない響きしか聴いていない人が聴くとびっくりするに違いない。

音がリアルでそれぞれの楽器群の位置が明瞭に定位し、かつ音が前面に迫力をもって自然に押し出される。

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そんななか休憩後の後半のエルガーがはじまった。

序奏は異常なていねいさを通り越して、ほのかな香りさえ漂う、

この空気感!!最初から絶妙に近い。

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パルジファルを想起させる序奏が限りない音の香りを漂わせ締めくくられ、次の第1主題はやや唐突に現れる。序奏の魅力的なフレーズに比べるとやや落ちる。それが第1主題なら、心の準備をして第2主題を待つことになるのだが、その第2主題は限りなくわかりにくい、覚えにくい節だ。というよりも道端に咲くいろいろな草の合奏のようだ。

そこらあたりから方向感が薄められていく。

展開部では第2主題の展開の前に序奏部分の音楽が現れたりして、形式の方向感が微妙にわからなくなる。

2楽章のアレグロは迫力ある音楽で、明確な音楽だが後半だんだんとトーンダウンしていき、そのままあてもなく果てしもない美しい第3楽章アダージョ楽章にいつの間にか迷わされる。ここらあたりまでくると、もう、終楽章に形式の明確さを求めることはしなくなる。

もつれてはときほぐされる響きのあやの世界にどっぷりつかっていればいい。

あとは尾高が唖然とするほど見事な腕で調理してくれる。そうだ、尾高にまかせておけばいいのだ。

その第3楽章アダージョで、自席2階やや左前方から指揮者越しにコントラバスを観ることになるのだが、そのコントラバス、自分たちの番がないフレーズに、まるでオペラのストップモーションのように誰も動かない。なにか感動の空気が彼らに乗り移っているような見事な瞬間であった。

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エルガーの聴き方は、前にも書いたがいわゆるブラバン風な鳴りの音をイメージするとわかりやすい。

独特な響きが次から次と変化を連ねていく。ある部分、響きの連鎖のような音楽なのだ。

4楽章コーダで咆哮するブラスセクションによる序奏の再帰を聴くとき、あまりにも立体的に、あまりにも見事に表現されるその強奏に耳がクラクラとなり感動の震えを抑えることが出来ない。最高のエルガーであった。生きていてよかった。

尾高の譜面台には決してめくられないスコアらしきものが置いてある。完全なる掌握。

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半年前のエルガー2番はここ

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さて、前半のベートーヴェンであるが、思えばこの第3番のオーケストラによる長い長い提示部のこれまた異常にていねいな響きにまずふれたのが最初の幸せだった。

ごくごく丁寧に整理された響きは、ジョージ・セル/クリーヴランド管弦楽団の様相を呈した。

大げさな話ではなくあのような均質でいて、透明な響きというのは、団員の心が落ち着いた状態で、かつ、響きのバランス重視というひとつの掲げられた目標、それに向かって全員のベクトルが方向性を合わせなければ決して出てこない音だ。

思えば、尾高もついにそのような芸風に達したのかと、なんだか感慨深くなる。見事なオーケストラの響きだ。

もちろん、N響という高性能のオーケストラでなければなしえなかった響きであるが、N響がいつもそうであるとは限らない。マーラーが言ったという、下手なオーケストラはない、下手な棒振りがいるだけだ、というのは、前提がやっぱり高性能のオーケストラを前にしてのことであろうし、N響にはいつでもマーラーのセリフの上をいって欲しい。

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それであまりの響きの素晴らしさに、ブルーノ・レオナルド・ゲルバーのことを忘れそうになった。

この3番のような本格的な曲はこのように伴奏されてこそピアニストの本領がでるはずだ。

昔、ゲルバーは、好きなピアニストでたまに聴いていた。というよりも聴きに行ったコンサートが素晴らしく、その後も聴くようになった。

ピアノの音は幅広で堂々としており、一聴とするとロシアっぽく感じられる。セル/クリーヴランドによるエミール・ギレリスのほうの録音を想起するが、オーケストラの具合は今日のN響と双璧だが、ギレリスのピアノはもう少し線が細いというか透明な響き。セル好みと言える。

ゲルバーは響きが豊饒であり、むしろ、リサイタルのほうが表現の幅を明確に聴くことができるのかもしれない。

今日はゲルバー&尾高&N響に拍手ということにしよう。

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記憶では昔のゲルバーは補助の器具を使っていたように思うが、この演奏会では自力であった。河童の記憶も錆ついてきた。

久しぶりに観るゲルバーは太ってしまったが、響きの峻烈さは今日のところは、変わったのか、いやそれとも昔どおりなのか、いまひとつわからなかったが。

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