新国立劇場でのラ・ボエームは4回公演。はかない公演数であるが最低一回はいかなければならない。
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2008年1月24日(木)7:00pm
新国立劇場 オペラパレス
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プッチーニ/ラ・ボエーム
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演出/粟国 淳
マウリツィオ・バルバチーニ指揮
東京交響楽団
新国立劇場合唱団
TOKYO FM少年合唱団
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ミミ/マリア・バーヨ
ロドルフォ/佐野成宏
マルチェッロ/ドメニコ・バルザーニ
ムゼッタ/塩田美奈子
ショナール/宮本益光
コルリーネ/妻屋秀和
べノア/鹿野由之
アルチンドロ/初鹿野剛
パピニョール/倉石真
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ラ・ボエーム、それは交響曲。
悲しくもはかないそれでいてこれ以上ないオペラ。
今日の白眉は、というよりも、いつも白眉は第3幕の極めて美しい4重唱。
この日の第3幕は、他の幕を圧倒した美しさであった。約30分がほんの5分か10分ぐらいにしか感じられない圧倒的充実感。
冒頭の二つの打撃音にはいろいろなものが想起されるし、またその幕を同じ打撃音で締めくくる。
マルチェッロに語るミミ、ロドルフォの真意はどこに。ムゼッタは相も変わらず。音楽は対比の激しいアンサンブル。ついにはミミとロドルフォは大きな弧を描き美しく歌い、マルチェッロとムゼッタは自分たちの悲しくもおかしい人生を歌う。4人の重唱は糸がもつれ、そして解き放たれる。
音楽はウィンドと弦を中心に歌いきらなければならない。弦はもっともっと火の出るような、これでもかこれでもかと強く強く歌わなければならない。ここら辺はオペラオーケストラをもたない日本の悲劇でもある。
オペラ、オペラ中のオペラであるボエームの音楽を火の出るように歌いきれないオーケストラ、環境的に仕方がないとはいえ、日常オペラを演奏していないオーケストラとはこうゆうことをいうのである。
でもぜいたくは言うまい。今日の第3幕の歌は最高の出来だったのだ。
ようやく調子が出てきたころあいだったのかもしれない。
第1幕での佐野のロドルフォは石橋をたたきすぎ。
今日の聴衆の空気をまず、見よ。オペラ特にボエームを愛している連中がウジャウジャといるじゃないか。この静かさを聴け。なのに、佐野はしくじらないように安全に歌う。誰も彼の歌うロドルフォに安全運転の歌を聴きにきているわけではない。しくじってもいいのだ。一発勝負しろ。パヴァロッティのように第1幕最終音を一オクターヴ上で歌え。カレラスのように泣き節を聴かせろ。そこまで言うと贅沢すぎるが、昔の一流どころを忘れさせてくれるような思いっきりのいい声を聴かせてほしい。それがリアル現実の歌い手が生きていく道なのだから。
チェチェリダマニーナ、音楽に構え、起伏のないのは指揮者のせいもある。何と冷たい手、あっさりしたものだ。第1幕の最高の局面はロドルフォが歌い、ミミが引き継ぎ、最後に、重唱で一気に盛り上がる、はずなのだが、なんだか譜面が舞台の上を停車することなく通過してしまった。あっけないもの。
同じ流れが第2幕でも続く。塩田のムゼッタは立派なものだが、なぜか全体があまり盛り上がらない。どうも指揮者のせいもあるようだ。自分の思いを奏者に思うように伝えられないもどかしさがある。ここはこう引き伸ばしてこのように歌うんだ、と棒で示しても、オケはなぜか棒歌い。
第3幕になり、歌い手も調子を上げ、オケにとっては静かな音楽だし、雪の降る中、しんしんとした音楽がようやく最高のアンサンブルを魅せてくれた。ここは4人のアンサンブル重視の音楽であることもあり、一人で羽目を外すような個所もない。日本人向きの音楽でありそれが成功した。
第4幕はドラマとしての緊張感のあるストーリーが音楽の方向感を示してくれるし、自然に素晴らしいものが出来上がる要素を多く含んでいる。だから、たいがいうまくいく。
ファイナルシーンでミミはどの瞬間で死んだのであろうか。手の落ちた瞬間なのだろうが、ストーリー的には少し不明確な部分でもある。同じような感覚はヴェルディのトラヴィアータでも感じる。体が軽くなり生まれ変わるのよ、あたりで死んだことになるのだろうが、そのあと本当に倒れたところでもって天国へいったはずだ。
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いずれにしても、佐野はもっと危険を冒さなければならない。オペラゴアーズにとっていまさら安全運転のボエームなどでは満足しない。
なんだか、全体が二流どころといった手かせ足かせを自分たちではめているのではないだろうか。一流になるには突き破るべき壁があるのであり、単なる積み重ねだけでは一流どころへの天井の蓋はかんたんにはあかない。と感じた。
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