小南一郎編『学問のかたち もう一つの中国思想史』(汲古書院 2014年8月)所収、同書127-148頁。
〔欧陽脩は〕『五代史記』(いわゆる『新五代史』)巻五十九の「司天考 二」において〔天人〕相関説を批判し、天文現象を単に事実としてのみ書き留めるべきだと主張する。以後の正史は欧陽脩自身の手になる『新唐書』を含めてこれを踏襲し、基本的に個々の日食がなぜ生じたのかを人間界の事象に結びつけて穿鑿する流儀をとっていない。 (「一 日食は天譴か」129頁)
『新五代史』「司天考 二」の該当する部分の原文は以下の通り。
自堯、舜、三代以來,莫不稱天以舉事,孔子刪《詩》、《書》不去也。蓋聖人不絕天於人,亦不以天參人。絕天於人則天道廢,以天參人則人事惑,故常存而不究也。《春秋》雖書日食、星變之類,孔子未嘗道其所以然者,故其弟子之徒,莫得有所述於後世也。然則天果與於人乎?果不與乎?曰:天,吾不知,質諸聖人之言可也。《易》曰:「天道虧盈而益謙,地道變盈而流謙,鬼神害盈而福謙,人道惡盈而好謙。」此聖人極論天人之際,最詳而明者也。其於天地鬼神,以不可知為言,其可知者人而已。夫日中則昃,盛衰必復。天,吾不知,吾見其虧益於物者矣。草木之成者,變而衰落之;物之下者,進而流行之。地,吾不知,吾見其變流於物者矣。人之貪滿者多禍,其守約者多福。鬼神,吾不知,吾見人之禍福者矣。天地鬼神,不可知其心,則因其著於物者以測之。故據其跡之可見者以為言,曰虧益,曰變流,曰害福。若人則可知者,故直言其情曰好惡。其知與不知,異辭也,參而會之,與人無以異也。其果與於人乎,不與於人乎,則所不知也。以其不可知,故常尊而遠之;以其與人無所異也,則修吾人事而已。人事者,天意也。《書》曰:「天視自我民視,天聽自我民聽。」未有人心於下而天意怒於上者,未有人理逆於下而天道順於上者。然則王者君天下,子生民,布行政,以順人心,是之謂奉天。至於三辰五星常動而不息,不能無盈縮差忒之變,而占之有中有不中,不可以為常者,有司之事也。本紀所述人君行事詳矣,其興亡治亂可以見。至於三辰五星逆順變見,有司之所占者,故以其官誌之,以備司天之所考。 (テキストは維基文庫)
このことは、吉川幸次郎『宋詩概説』にある、「欧陽脩は唐詩のうちもっとも悲哀の少ない韓愈を祖述しつつ韓愈よりもいっそうに悲哀を抑制しており、かつ、より広い視野に立ってさまざまな題材について叙述的となり、またそれにともないより論理的にもなっている」(要旨)という彼の詩作への評と、どこかで繋がるところはあるか否か。
〔欧陽脩は〕『五代史記』(いわゆる『新五代史』)巻五十九の「司天考 二」において〔天人〕相関説を批判し、天文現象を単に事実としてのみ書き留めるべきだと主張する。以後の正史は欧陽脩自身の手になる『新唐書』を含めてこれを踏襲し、基本的に個々の日食がなぜ生じたのかを人間界の事象に結びつけて穿鑿する流儀をとっていない。 (「一 日食は天譴か」129頁)
『新五代史』「司天考 二」の該当する部分の原文は以下の通り。
自堯、舜、三代以來,莫不稱天以舉事,孔子刪《詩》、《書》不去也。蓋聖人不絕天於人,亦不以天參人。絕天於人則天道廢,以天參人則人事惑,故常存而不究也。《春秋》雖書日食、星變之類,孔子未嘗道其所以然者,故其弟子之徒,莫得有所述於後世也。然則天果與於人乎?果不與乎?曰:天,吾不知,質諸聖人之言可也。《易》曰:「天道虧盈而益謙,地道變盈而流謙,鬼神害盈而福謙,人道惡盈而好謙。」此聖人極論天人之際,最詳而明者也。其於天地鬼神,以不可知為言,其可知者人而已。夫日中則昃,盛衰必復。天,吾不知,吾見其虧益於物者矣。草木之成者,變而衰落之;物之下者,進而流行之。地,吾不知,吾見其變流於物者矣。人之貪滿者多禍,其守約者多福。鬼神,吾不知,吾見人之禍福者矣。天地鬼神,不可知其心,則因其著於物者以測之。故據其跡之可見者以為言,曰虧益,曰變流,曰害福。若人則可知者,故直言其情曰好惡。其知與不知,異辭也,參而會之,與人無以異也。其果與於人乎,不與於人乎,則所不知也。以其不可知,故常尊而遠之;以其與人無所異也,則修吾人事而已。人事者,天意也。《書》曰:「天視自我民視,天聽自我民聽。」未有人心於下而天意怒於上者,未有人理逆於下而天道順於上者。然則王者君天下,子生民,布行政,以順人心,是之謂奉天。至於三辰五星常動而不息,不能無盈縮差忒之變,而占之有中有不中,不可以為常者,有司之事也。本紀所述人君行事詳矣,其興亡治亂可以見。至於三辰五星逆順變見,有司之所占者,故以其官誌之,以備司天之所考。 (テキストは維基文庫)
このことは、吉川幸次郎『宋詩概説』にある、「欧陽脩は唐詩のうちもっとも悲哀の少ない韓愈を祖述しつつ韓愈よりもいっそうに悲哀を抑制しており、かつ、より広い視野に立ってさまざまな題材について叙述的となり、またそれにともないより論理的にもなっている」(要旨)という彼の詩作への評と、どこかで繋がるところはあるか否か。