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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

ウィキペディア 「非理法権天」 項

2015年02月11日 | 日本史
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E7%90%86%E6%B3%95%E6%A8%A9%E5%A4%A9

 非理法権天は、中世日本の法観念としばしば対比される。この時代において基本的に最重視されたのが『道理』であり、『法』は道理を体現したもの、すなわち道理=法と一体の者として認識されていた。権力者は当然、道理=法に拘束されるべき対象であり、道理=法は権力者が任意に制定しうるものではなかったのである。

 なお、「(道)理とは人々がおよそ是認する道義的規範を指」すとある。ならば道理を"正義”と読みかえることも可能だろう。げんに瀧川政次郎は「非理法権天考」でそうしている。それによれば、「理」は「道理に合ったこと、万人の是とすること」であり、「非の反対概念であって」、「道理すなわち『理』」であり、「『理』は、当代の人々が良識に随って判断するところの正義である」とされる。

『漢典』「条理(條理)」項を見る

2014年10月20日 | 東洋史
 http://www.zdic.net/c/1/e/20382.htm

 「条理」には、『大漢和辞典』と『辞海(1979年版)』では「脈絡」「手順」「秩序」という意味が示されている。そしてこの『漢典』ではさらに「法令」と、また動詞としての「処理する」「片付ける」の意味が挙げられている。だが日本語の条理のような「道理」「物事の筋道」といった意味あいはない。また瀧川政次郎「非理法権天考」も参照。

瀧川政次郎 「非理法権天考」

2014年10月05日 | 日本史
 2014年09月10日「ウィキペディア『非理法権天』項を見て」より続き。

 瀧川政次郎『非理法権天』(青蛙房 1964年6月)所収、同書19-30頁。
 少し違ったことが書いてある。語源については触れられていない。「法」「権」「天」については、中国の儒教および律令制における法(治主義)に影響を受けた、中世・近世日本の語彙または概念とされている。ただし「理」は「道理に合ったこと、万人の是とすること」(21頁)であり、「非の反対概念であって」(同)、「道理すなわち『理』」(同)であり、「『理』は、当代の人々が良識に随って判断するところの正義である」(同)とある。また、「『天下の大法』と呼ばれた中世の慣習の立脚点」(同)「自然法学のいう法であり、太政官の布達にいう『条理』でもある」(同)と説明されているところ、日本固有のそれを専ら指すようである。
 ところで、「貞永式目を貫く精神」(20頁)であり、繰り返しになるが「当代の人々が良識に随って判断するところの正義」であるところの道理を支える「良識」とは、分析的・具体的に言えばどういったものであるのか。

ウィキペディア「非理法権天」項を見て

2014年09月10日 | 日本史
 2013年08月16日、笠松宏至校注「御成敗式目 付 北条泰時消息」より続き。

 「非理法権天

 よくわからない。

 非理法権天は、中世日本の法観念としばしば対比される。この時代において基本的に最重視されたのが『道理』であり、『法』は道理を体現したもの、すなわち道理=法と一体の者として認識されていた。権力者は当然、道理=法に拘束されるべき対象であり、道理=法は権力者が任意に制定しうるものではなかったのである。

 ここまではわかる。だが、

 こうした中世期の法観念が逆転し、権力者が優越する近世法観念の発生したことを『非理法権天』概念は如実に表している。

 これがわからない。

 1. その権力者の上に「全てに超越する『抽象的な天』の意思」が新たに現れた事をどうして指摘せずその意味や意義の説明を行わないのか。
 2. 行わない理由は何か。
 3. その欠落と中世期の法観念が逆転し、権力者が優越する近世法観念の発生したことの間には何らか関係はあるのか。

これらの諸論点が欠けているがゆえに論旨が理解できない。