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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

杜牧「江南春」の“多少”の語について

2016年12月03日 | 思考の断片
 杜牧  江南春

 千里鶯啼綠映紅
 水村山郭酒旗風
 南朝四百八十寺
 多少樓臺煙雨中


 この絶句をいま白文で卒然と読んで、最後の“多少”は疑問詞ではないのかと疑った。
 高校で習った以来の訓読では、「多少の楼台煙雨の中(うち)」、すなわち平叙文として、「多少」を「多くの」という意味に取っている。
 そこで、先日購って積読にしていた松浦友久・植木久行両先生編注の『杜牧詩選』(岩波書店 2004年11月)をさてこそと披いてみた。
 「江南春」は劈頭の第一首である。同首のくだんの第四句結句は、「多少の楼台煙雨の中」と、訓読こそ同じながら、現代日本語訳では、「どれほどの数の楼台がおぼろに霞んでいることか」と、疑問文に解してある。ただしその後の語釈では、この「多少」について、

 疑問詞『どれくらいの』が基本義であるが、ここでは派生義としての『多くの』のニュアンスをあわせもつ。

 とあって、そうかと教えられた次第。少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。