杜牧 江南春
千里鶯啼綠映紅
水村山郭酒旗風
南朝四百八十寺
多少樓臺煙雨中
この絶句をいま白文で卒然と読んで、最後の“多少”は疑問詞ではないのかと疑った。
高校で習った以来の訓読では、「多少の楼台煙雨の中(うち)」、すなわち平叙文として、「多少」を「多くの」という意味に取っている。
そこで、先日購って積読にしていた松浦友久・植木久行両先生編注の『杜牧詩選』(岩波書店 2004年11月)をさてこそと披いてみた。
「江南春」は劈頭の第一首である。同首のくだんの第四句結句は、「多少の楼台煙雨の中」と、訓読こそ同じながら、現代日本語訳では、「どれほどの数の楼台がおぼろに霞んでいることか」と、疑問文に解してある。ただしその後の語釈では、この「多少」について、
疑問詞『どれくらいの』が基本義であるが、ここでは派生義としての『多くの』のニュアンスをあわせもつ。
とあって、そうかと教えられた次第。少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。
千里鶯啼綠映紅
水村山郭酒旗風
南朝四百八十寺
多少樓臺煙雨中
この絶句をいま白文で卒然と読んで、最後の“多少”は疑問詞ではないのかと疑った。
高校で習った以来の訓読では、「多少の楼台煙雨の中(うち)」、すなわち平叙文として、「多少」を「多くの」という意味に取っている。
そこで、先日購って積読にしていた松浦友久・植木久行両先生編注の『杜牧詩選』(岩波書店 2004年11月)をさてこそと披いてみた。
「江南春」は劈頭の第一首である。同首のくだんの第四句結句は、「多少の楼台煙雨の中」と、訓読こそ同じながら、現代日本語訳では、「どれほどの数の楼台がおぼろに霞んでいることか」と、疑問文に解してある。ただしその後の語釈では、この「多少」について、
疑問詞『どれくらいの』が基本義であるが、ここでは派生義としての『多くの』のニュアンスをあわせもつ。
とあって、そうかと教えられた次第。少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。