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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

「パンチェン・ラマ10世 の告発/本文」 から

2009年07月17日 | 抜き書き
▲「ダライ・ラマ法王日本代表部事務所」、「チベット亡命政府 情報・国際関係省『The Panchen Lama Speaks』」、山際素男訳。 (部分)
 〈http://www.tibethouse.jp/panchen_lama/pl_speaks_text.html

 チベットの貴族階級は何代にもわたって政府に仕えてきた。彼らはダライ・ラマ法王を深く信奉し、現世、来世両方の拠り処としてきた。民衆もまた同様に深い尊敬と献身性を保ち続けてきた。これは否定し難い事実である。然るに後から、貴族たちは反乱の指導者として糾弾され迫害された。これは絶対に間違いであったと私は信じる。嘆願書の中で私はこのことを明記した。そしてそれゆえに責められ罰せられた。だが真実は永遠に不変である。もちろん私の嘆願書には幾多の間違いがあった。しかし明確に声を大にしたことにおいて、私はいささかの過ちをも犯してはいない。嘆願書の中で犯した間違いは過去、今日においても間違いは間違いとして変わるまい。しかしながら、何処で私が過ちを犯し、何処で私が正しかったのか区別は明らかにしなくてはならない。

 最初のカムパ族ゲリラの拠点となったロカについて語ろう。ダライ・ラマ法王14世がその地を通った時、住民は心から喜び、バター、大麦粉その他の食料を自発的に寄進した。これは全く人びとの愛情の表現であった。しかしその後この人びとは抵抗運動の活動分子として処罰された。どうしてこんなことが出来るのか?これはチベット人であれば誰しもが知っている慣わしなのだ。
 当時私自身同じように通りすがりの住民から手厚い歓迎を受けたものだ。それが今になって政治的陰謀だとどうしていえよう。人びとはその宗教心と習慣によって私への敬意を表明したに過ぎないのだ。チベット独自の習慣や伝統に正しい配慮がなされなくてはならない。
 反乱を鎮め、改革を進めることは原則として正しい。だがそのやり方には極左的偏向が色濃かった。こうしたことは、2度とくりかえしてはならず、正さねばならない。30年間の中国共産党政権下で多くの良いことがなされ、かつ悪いことも行われてきた。
 これらの事柄は、第11回中国共産党全国大会、第6回大会において検討され、国際的にも広く知られた。自らの過ちを公表することは党のイメージを損なうよりは、むしろそれを救うことになるだろう。

 青海省で犯された残虐行為一切を記録したフィルムがもしあれば、それを観た人びとを戦慄させずにはおかないだろう。ゴロク地区では、大勢の人が殺され、その屍体は丘の斜面から深い凹地に転げ落とされた。そして中国兵士たちは遺族に向かって反乱は一掃されたことを喜べといった。人びとは死者の体の上で踊ることを強制され、しかもその後で機銃の一斉射撃によって瘧殺され、その場で埋められたのである。
 現実にこれら地域総てに反乱が発生したわけではなかった。が、カム地方ではもちろん方々で反乱が起こった。アムドのジローン・パルポ、ミリでは、遊牧民たちは武器をまとめて中国軍に差出した。彼らは賞賛され、特別な催しまで行ってもてはやされた。だがそのお祭り騒ぎが終わるや否や村に追い返され、そこで逮捕され長期間投獄された。その中には相当な老人たちがたくさんいたのである。
 アムド、カム地方ではいい尽くせぬほどの残虐行為が行われた。人びとは10人、20人と1まとめにして射殺された。このようなことを喋るのは好ましくないのは重々承知している。しかしこれらの無数の残虐行為がどれほどチベット人民の心に深い傷を与えたかを告げたいのだ。

「ガザ参戦のイスラエル兵が証言、『まず撃て』『民間人を盾に』と軍が指示」 他から

2009年07月17日 | 抜き書き
▲「AFPBB News」2009年07月16日 18:09。 〈部分)
 〈http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2621767/4362189

 発信地:エルサレム/イスラエル。

 前年12月-今年1月のイスラエル軍によるパレスチナ自治区ガザ地区(Gaza Strip)攻撃に参加したイスラエル軍兵士らが、軍上層部から「疑わしければまず撃ち、結果はその後で心配すればよい」といった指示や、パレスチナ民間人を「人間の盾」として使用するよう指導されたと証言した。イスラエル退役兵らで作るグループ「沈黙を破る(Breaking the Silence)」が15日、報告書を発表した。

▲「Time.com」Thursday, Jul. 16, 2009, Tony Karon「Dissident Israeli Soldiers Turn a Harsh Light on the Gaza War」 (部分)
 〈http://www.time.com/time/world/article/0,8599,1910820,00.html

 But the report's weaknesses leave the IDF 〔Israeli Defense Force〕 plenty of room to shoot it down. A number of the allegations are based on not what a soldier claims to have seen himself but rather things he was told by others. And then there's the fact that the accusers have chosen to remain anonymous, usually avoiding reference to specific units or locations so as to prevent them from being identified ― which also prevents independent verification. "A considerable portion of the testimony is based on rumors and secondhand accounts," an IDF representative told the Israeli media in response to the report. "Most of the incidents relate to anonymous testimony lacking in identifying details, and accordingly it is not possible to check the allegations on an individual basis in a way that would enable an investigation, confirmation or refutation." The IDF, she said, would investigate any specific allegations brought to its attention. 

小長谷有紀/シンジルト/中尾正義編 『中国の環境政策 生態移民』

2009年07月15日 | 社会科学
 副題「緑の大地、内モンゴルの砂漠化を防げるか?」。
 歴史的に、黄河流域から長江流域へ、平野部から山岳部へと耕作地を求めて開拓の手を伸ばしてきた中国人(漢人)が、ついに中国内地を越えて現在の東北三省・内モンゴル・西北各省・台湾を目ざすようになるのは、19世紀半ば(太平天国時期)以後であるという(シンジルト「序章 中国西部辺境と『生態移民』」本書5頁)。かなり新しい現象らしい。

 以下、関心に基づく抜き書き。

 共和国成立以前の一九四七年に生まれた内モンゴル自治区は、中国は諸少数民族を国家に統合する過程で、民族統合のモデルとして起用されてきた。同様に現在進行中の国民統合の過程においても、内モンゴルは少数民族地域における国民統合のモデルとしての役割を果たすことが期待されており、その役を内モンゴル自治区政府は演じようとしている。たとえば内モンゴル自治区はその西部のアラシャ盟において、退牧還草事業を、二〇〇〇年の時点ですでに実施しており、家畜一五万頭を連れた牧畜民二〇〇〇人あまりを生態移民として賀蘭(へらん)山から転出させた〔中略〕。そして内モンゴル全体からみても、「退耕還林還草」や「退牧還草」を積極的に実行してきた。二〇〇三年に正式にスタートした「退牧還草」事業は、「一二の盟市が管轄する六五の旗県」、つまり内モンゴルのほぼ全域で展開された〔後略〕。 (シンジルト「序章 中国西部辺境と『生態移民』」 本書24頁)。

 「生態移民」を推し進める論理は、「これまで破壊されてきた森を、これからどう救済すべきか」に焦点をあてており、「だれによって、なぜ、森が破壊されたのか」については、ほとんど関心を払っていない。 (シンジルト「第10章 『生態移民』をめぐる住民の自然認識」 本書258頁)

 「もし林場や林場道路がなければスダロンの森林は依然そのまま残っているはずであり、われわれの生活も豊かなはずだった。けれども現在、森林が減ったため山崩れが発生し、降水量も減った。雨が減ったたまえ牧草も枯れている。今われわれは乾燥した木(死んだ木)を使うことにも金を払うことが義務づけられている。そういうなら、湿っていた木(生きていた木)を大量に倒した林場はなぜ責任をとらないのかとわれわれは林場の人間にも言ったが、彼らは林場は当時国の指示に従っただけだというのだ」 (シンジルト「第10章 『生態移民』をめぐる住民の自然認識」 本書258-259頁に引く、甘粛省張掖市粛南ヨゴル〔ユグル・裕固〕族自治県A村の村人の話)

 (昭和堂 2005年7月)

村田良平 『村田良平回想録』 上 から

2009年07月14日 | 抜き書き
 実は六〇年の交渉時、寄港及び領海通過には事前協議は必要でないという秘密の了解が日米間にあったのである。〔中略〕この問題は、〔中略〕後日日本が五つの海峡については当然の権利として領海の幅員を一二海里に拡張できるのに、未だに三海里にとどめる自主規制を行っている原因でもあり、〔後略〕 (「第四章 企画課の新設と米国との出会い」 本書207頁)

(ミネルヴァ書房 2008年9月)

村田良平 『村田良平回想録』 下

2009年07月14日 | 伝記
 「東アジア共同体構想」とは「アジアの指導権を求める中国の野望の一つの実現手段としての対中国朝貢国会議」だそうだ。まあそうだろう。それとは別に、著者によれば「これ程馬鹿げた構想はない」そうで、「東・南アジアにはかかるものを形成する実績」も「最低限の文化的基盤」もないからだそうだ。それに、「すでに中国自体がASEANと合意している二〇一〇年の自由貿易協定とか、日本もASEAN諸国と合意したような自由貿易協定に基づ」いて「貿易、サービスの障壁を漸減」してゆけば用は足りると言う。「それ以上のものは必要ではないし、のぞましくもない」(本書237頁)。
 ならば日中の関係改善の必要性を論じるに当たって、東・南アジア各国の利益・地域全体の利益という要素は考慮からはずせるということになるか。

(ミネルヴァ書房 2008年9月)

「日本が与那国島に自衛隊を配備、その牽強付会の理由」 から

2009年07月14日 | 抜き書き
▲「人民網日本語版」12:58 Jul 13 2009、編集NA。 (部分)
 〈http://j1.peopledaily.com.cn/94474/6699120.html

 与那国島に陸上自衛隊を配備する理由について、日本政府は防災と防衛を挙げている。周知のように、日本は防災システムが最も整った国であり、その防災システムに空白エリアはない。それを突然、他国との国境から最も近い地区の防災措置を強化し、レーダー施設も増設すると言い出すのだから、人々はこれを牽強付会と感じる。

 It's none of your f**king business. それから“人々”って誰だ。自分以外の具体的な個人名を挙げてみよ。衆人に訴える論証、しかも確たる証拠がないという、二重の過誤を犯している。これは馬鹿としか言いようがない。

「『7・5』事件の裏にいるラビア・カーディル」 から

2009年07月12日 | 抜き書き
▲「中国網 チャイナネット」2009-07-10。(部分)
 〈http://japanese.china.org.cn/life/txt/2009-07/10/content_18112496.htm

 これらの事実は全てラビアとつながっている。
 
 どこが? 粗末だなあ。

 新疆ウイグル自治区党委員会の王楽泉書記によると、その後〔出国後〕すぐ、彼女は海外のテロリスト、分裂分子や極端勢力と結託した。

 中国人の常用する権威に訴える論証の一例。

Andy Chang 「政治建国と人民建国」 から

2009年07月12日 | 抜き書き
▲「AC論説」No.284(2009/07/12)。
 〈http://www.melma.com/backnumber_53999_4540837/

 馬英九の報復として陳水扁に違法送金の嫌疑をかけ、陳水扁一家の皆殺し(誅三親滅九族)を図っている。まだ起訴されていないのに、陳水扁は既に半年も違法拘禁されたままだ。残忍で恐ろしい中国人の報復である。
 馬英九を攻撃することが最も効果的である。違法送金のほかにはアメリカの居住権問題、馬英九が同性愛者でチョコレートと言う渾名を持つ黒人と曖昧関係があったことを攻撃したこともあった。これ以外に他の方法もあるに違いない。とにかく執拗に攻撃して相手に防御にてんてこ舞いさせることだ。 (「馬英九を攻撃しろ」)

 前半は、そうかもしれない。だが、よしんばそうだとしても、勝つために、革命を起こすために、手段を選ばないのは、彼の敵であるところの中国人とおなじではないか。馬英九が同性愛だなど、もし事実としても、それがどうしたというのだろう。それとも同性愛は悪なのか。こんな考え方の人間が天下を取った日には、おのれに百パーセント服従しない者は容赦なく弾圧・撲滅していくのではないか。かつての敵と同じように。

西川一三 『秘境西域八年の潜行』 上巻 から

2009年07月11日 | 抜き書き
 由来、蒙古人は殆ど商業には携わらない。蒙古においての商業は、シナ商人の手に殆ど独占されている。シナ商人と蒙古人の取引は、蒙古人は交易品の家畜を追ったり、羊毛、皮革、乳製品をラクダの背に漢人地帯に出て行く場合もあるが、内蒙古方面においては張家口、大同、平地泉、綏遠、包頭に店舗を構えている山西人、すなわち山西省出身のシナ商人の手に殆ど占められている。彼らは蒙古奥地に進出し、王府や有名な廟の近くに小さな店舗を構えたり、「揆子」と呼ばれる資本も少額な、小は一人一頭のラクダから大は二、三人二十余頭のラクダに商品を携えて奥地に入り、包から包へと歩き回り、あるいは、地を選んでテントを張り、蒙古人相手に交易し、蒙古人から得た物資を携えて基地に帰り売却する商人や、「販子」と呼ばれる資本も大きい主人のほか、七、八名の使用人と百頭近くのラクダと共に、春秋二季の羊毛、ラクダの毛をかり取る季節に奥地に入り、蒙古人から羊毛、皮革、家畜類の買付けを行ない、それらを沿線の市場に搬出売却して、買付けた対価である商品を後から交付して、蒙古人との間に物々交換の取引を行なっている。 (「内蒙古篇」 本書72-73頁)

 蒙古地帯には〔中略〕の羊飼い、廟のアルガリ〔家畜の糞〕拾い、王府や蒙古兵の炊事等の雑役夫として、故郷の漢人地帯にも出て行かず、一生蒙古の奥地で終わる寄生虫のようなシナ人がいる。ほかに銀細工師、仏画師、皮なめし、フェルト造り、春秋二回羊毛を鋏みで刈り取る臨時労働者など、暖かくなると蒙古地帯に入り、寒気厳しい時分には故郷の京包沿線方面に帰って暮らす、渡り鳥のようなシナ人たちがからへ移り住んでは仕事をしている。これらのシナ人はほとんど山西省出身者で〔後略〕 (「内蒙古篇」 本書104頁)

 2009年07月09日「護雅夫/神田信夫編 『北アジア史(新版)』から」の続き。
 これら漢人は、もちろんモンゴル語を、各々程度の差はあれ、話したであろう。

(中央公論社 1990年10月)

木村肥佐生 『チベット潜行十年』 から

2009年07月11日 | 抜き書き
 もと毎日新聞社、1958年7月刊。

 彼〔ガヤツェレン。カンパ人〕の話によると、この辺の者は皆、中国領土へ移住したがっている。チベット政府はむやみに税金を取り立てる。その税金も本当に政府へ届いているか、だれにもわからない。賦役(オラー)といっては家畜や物をとられ、人をかり出して労働させ、食物は自分持ちで賃金は一銭もくれない。それに比べると川向こうの中国領の同じ東チベット人は、はるかに楽な暮らしをしている。毎年税金はきまっているし、賦役には賃金が払われる。うらやましいことだという。普通、国境から遠いチベット国内のカムパやチベット農村の人たちは、どんなに搾取されても、圧迫されても、それは彼らが前世で犯した悪業のむくいだとして一種の諦観をもって甘受するのである。しかし、比較する対象が眼前にあっては彼らもたまるまい。 (「東チベットを探る」 本書206頁)

 木村肥佐生と西川一三は、昭和21・1946年末から翌年秋にかけ、約10ヶ月間、カム地方一帯を踏査した。

(中央公論社 1982年7月初版 1994年4月9版)