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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

西川一三 『秘境西域八年の潜行』 下巻 から

2009年07月11日 | 抜き書き
 もと芙蓉書房、1967年11月・1968年2月・1968年10月刊。

 チベットの兵隊の間では、中央から辺境警備のチャンドゥ〔昌都・チャムド〕に派遣が決まると、「西康に正月をしに行く」と口にしているのである。/この言葉は兵隊ばかりでなく、上は大臣から下は下っぱの官吏、兵隊にまで当てはまる言葉であった。〔中略〕大臣は大臣なりに不当な重税を課し、兵隊は兵隊なりに上司の目を盗んで不当な徴発を行って任期の三年間にできるだけ私腹をこやして帰ろうとしているからである。/これら統治者達はほとんど中州(ウユパ)、蔵(ザン)出身であり、彼らが西康人に持っている感情には、同じ国民でありながら「我々より下の奴」という非常な優越感を含んでいる。そしてこの地方が、中央政府の眼の届かぬ遠隔の地であることが彼らをますます我儘勝手にし、同じ国内でありながら、故郷ではできない、道義を無視するひどいことをさせているのである。そのため、西康人は彼らの圧政に苦しみ、中央政府、官吏、兵隊に対し深い憤りを持ち、憎しみさえいだいているのである。このことはチベット国全体にとって誠になげかわしいことであり、あわれむべきことであった。 (「西康篇」 本書314頁)

中央チベットのウ・ツァン(前蔵・後蔵)地方のチベット人が、東部西康(カム)地方のチベット人(カムパ人)をひどく蔑み、虐げていたことは、同時期にチベットに潜入していた木村肥佐生の報告(『チベット潜行十年』)にも記録されている。西川・木村が親しく見聞したチベットとチベット人は今を去る60年余の昔である。現在はどうなのだろう。

(中央公論社 1991年1月)

小長谷有紀 『モンゴルの二十世紀 社会主義を生きた人びとの証言』 から

2009年07月11日 | 抜き書き
 モンゴル国の人びとにとって、内モンゴル人とはつねに南方から忍び寄ってくる脅威のなかに入り混じっている存在なのである。歴史的に言えば、一世シェプツンダンパをはじめとするハルハ貴族がガルダンの脅威を逃れるために康煕帝に保護を求めて清朝の支配下に入っていたにもかかわらず、モンゴルの人びとには、一足先に満洲人の支配下に入っていた内モンゴル人(とくにホルチン部)が満洲人に加担して、ハルハを満洲人の奴隷にしたという根強い既成概念がある。清朝支配期にモンゴル人を騙してモンゴルの経済を牛耳った漢人旅蒙商たちも、片言のモンゴル語を内モンゴルで習得し、モンゴル人を陥れる方法を荷車いっぱい積んで南からやってきたであろう。モンゴルの自治と独立を廃止使用と努めた中華民国時代はいうまでもなく、満洲国時代や蒙疆政府時代には日本ファシズム陣営の北辺としての内モンゴルがあった。清朝以後、南北モンゴルは互いに対立した時間が、友好的に付き合った時間より遙かに長かったのである。 (「第六章 モンゴル人と社会主義」本書236頁。太字は引用者)

(中央公論新社 2004年8月)

「Ситуация в китайском Урумчи нормализуется」 から

2009年07月11日 | 抜き書き
▲「ИТАР-ТАСС」10.07.2009, 07.42. (部分)
 〈http://www.itar-tass.com/level2.html?NewsID=14134911&PageNum=0

  ПЕКИН, 10 июля. /Корр. ИТАР-ТАСС Иван Каргапольцев/. В административном центре Синьцзян-Уйгурского автономного района КНР /СУАР/ Урумчи, где 5 июля вспыхнули массовые беспорядки, ситуация постепенно нормализуется, однако в городе сохраняется напряженная атмосфера. Об этом сообщил сегодня по телефону ИТАР-ТАСС осведомленный источник в Урумчи.

 なんでこんなに通り一遍なのかね。

「【ウイグル暴動】私はこうみる」 から

2009年07月11日 | 抜き書き
▲「msn 産経ニュース」2009.7.11 01:39、「『チベット騒動』時とは異なる国際社会の反応 上海社会科学院・趙国軍研究員」 (部分)
 〈http://sankei.jp.msn.com/world/china/090711/chn0907110139004-n1.htm

 新疆ウイグル自治区で5日発生した暴動は在外組織「世界ウイグル会議」のラビア・カーディル(議長)によるテロ組織がしかけた。 

 だから確たる証拠を出せって言ってるんだよ。

宮崎市定 『雍正帝』

2009年07月10日 | 伝記
 雍正帝の居室の入口に掲げられた額には「為君難 (君主たるは難いかな)」の三字が、両側の柱には「原以一人治天下(天下が治まるか治まらぬかは、われ一人の責任である) 不以天下奉一人(われ一人のために天下を苦労させることはしたくない)」の対聯が書かれていたという。
 天下は公であり、そしてその公は帝王の私ではないと認識し、認識するだけでなく、それを身を以て示しかつおのれの天下において実現しようとした、中国における希有な支配者の例が、雍正帝だったのもしれない。

(岩波書店 1950年3月第1刷 1989年3月第10刷)

暴力犯罪事件という形容

2009年07月10日 | 抜き書き
▲「人民網」2009年07月10日05:37、「“危急中,我们一起携手反击了暴力” 各族人民的手紧紧握在一起」 (部分)
 〈http://politics.people.com.cn/GB/1026/9626981.html

  天山青松根连根,各族人民一家亲。当7月5日乌鲁木齐市发生打砸抢烧严重暴力犯罪事件时,当一些暴徒向手无寸铁的无辜群众行凶施暴时,无数维吾尔族等各民族干部群众向危难中的同胞伸出救援之手,他们用无声的行动,演绎了危急之际各族人民团结互助,患难与共,携手反击暴力的感人故事。 (太字は引用者)

 この冒頭部だけでなく、最後まで暴徒の民族的帰属は言及されない。また内容は、表題から窺えるように、現地住民の民族を超えた融和と協力が全面に押し出されている。
 中国当局は今回の事件について、犯罪行為に対するひとしなみの厳罰主義を掲げる一方で、暴徒と一般大衆とを切り離し、一部の(内外)の分裂分子とその支持者による暴動という枠組みのもとで処理するつもりかもしれない。

“刑は夏人に上らず、礼は回鶻に下らず”にならぬよう

2009年07月10日 | 抜き書き
▲「人民網」2009年07月10日05:12、「周永康在新疆强调:依法坚决打击严重暴力犯罪行为 依法坚决打击严重暴力犯罪行为 切实保护各族人民生命财产安全」 (部分)
 〈http://politics.people.com.cn/GB/1024/9626952.html

  新华社乌鲁木齐7月9日电 (记者邹声文、张景勇)受中共中央总书记、国家主席、中央军委主席胡锦涛委托,中共中央政治局常委、中央政法委书记周永康9日下午飞赴新疆维吾尔自治区,代表党中央、国务院和中央军委,亲切看望在乌鲁木齐打砸抢烧严重暴力犯罪事件中受伤的各族无辜群众和部队官兵、公安民警,慰问奋战在执勤执法一线的部队官兵、公安民警,实地指导维护稳定工作。他强烈谴责造成无辜群众生命财产损失的严重暴力犯罪分子,强调当前稳定压倒一切,要依法坚决打击严重暴力犯罪行为,切实保护各族人民生命财产安全,切实维护宪法法律尊严,切实维护民族团结和睦。 (太字は引用者)

護雅夫/神田信夫編 『北アジア史(新版)』 から

2009年07月09日 | 思考の断片
 〔19世紀末から20世紀初頭にかけての〕モンゴル民族運動の社会的・経済的基盤は、商業高利貸資本のあくなき搾取と農業移民の牧地侵入による貧窮化であったから、それは当然全民族的なものであり、ァラット(遊牧民)は各地で漢人植民者を襲撃した。しかし彼らは、そのような素朴な蜂起を全民族的な運動に組織することはできなかった。当時の非常におくれたモンゴル社会の現実は、真の遊牧民の中から民族運動の組織者を求めうる状態になかった。ほとんどの人間が文盲であるモンゴルにおいて、少なくとも近代的な感覚をもってモンゴル族の将来を考えうるものは、王公・貴族の出身者か、ごく少数の平民知識階級(それ自身富農層に属する)に限られていた。それゆえ民族運動のリーダーも、これらのうちから出る以外なかった。
 しかし内モンゴルの王公は、民衆の先頭に立って闘うのには、あまりに清朝と密接な関係にあり、清朝の支配を通じて自己の遊牧的機能をなかば喪失し、漢人との同化が進んでいた。彼らは遊牧民族の首長としてよりは、漢人農民の地主としての安易な生活に慣れていたので、民族の危機に際してモンゴル族を代表する意志も力ももたなかった。しかし外モンゴルの王公は、遊牧民族の首長としての機能をまだもっており、自分たちがチンギス=ハーンの後裔であるという遊牧民の誇りをもち、しばしば民族運動の先頭に立った。だが彼らにとっても、独力をもって清朝に対抗することの困難は火をみるよりも明らかであった。彼らは帝制ロシアの援助を得て清朝に対抗しようとした。 (坂本是忠「第六章 現代のモンゴル」 本書232-233頁)

 以前北京で出会った内モンゴル出身の漢族女性は、漢族とモンゴル族の混住地域で生まれ育ったので、自分は漢語とモンゴル語のバイリンガルだと言っていた。人口の八割を漢族が占め、モンゴル族は二割にすぎない内モンゴルではモンゴル語の話せないモンゴル人も出てきている状態だと、それまでにものの本でも読み、専門家といわれる人にも聞いていた私は、漢民族による同化、すなわち漢化が進む地域だと認識していたから、現実にはそんな状況もあるのかと驚いた。もっともこれはつまりは自分の無知と想像力の貧困さのなせる業にほかならない。聞いて、あらためて北魏の六鎮の例を想い出した。

(山川出版社 1981年8月第1刷 1985年11月第2刷)

「中国当局高官『ウルムチ暴動で殺人犯せば死刑』」 から

2009年07月09日 | 抜き書き
▲「ロイター.co.jp」2009年07月08日 21:42。 (全)
 〈http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2619270/4342144

 【7月8日 AFP】中国当局高官は8日、新疆ウイグル自治区(Xinjiang Uighur Autonomous Region)区都ウルムチ(Urumqi)の暴動に関連して殺人を犯し、有罪となった場合には、例外なく死刑を言い渡す方針を示した。 
 ウルムチ市共産党当局トップのLi Zhi氏は、ウルムチで会見し「暴動で殺人を犯した者は死刑にする」と語った。

 これは効くぞ。2005年の反日デモがあれだけ時間・空間的に猖獗を極めたのは、犯罪は犯罪として厳正に処罰するという当局の意向が、公式には一度も示されなかったことが大きいと、私は思っている。

「Muslim states 'silent' on Uighurs」 から 

2009年07月09日 | 抜き書き
▲「Al Jazeera English」Tuesday, July 07, 2009 10:10 Mecca time, 07:10 GMT. (部分)
 〈http://english.aljazeera.net/news/asia-pacific/2009/07/20097725217198672.html

 Speaking after a day of unrest in Xinjiang left at least 150 people dead, Kadeer pointed to the lack of response from Muslim countries to the violence and the situation faced by the Uighurs.
 "Muslim countries such as Pakistan, Afghanistan, Saudi Arabia, Egypt, Syria and a number of other Muslim countries as well as the central Asian states like Kazakhstan Kurdistan and Uzbekistan - they all deported Uighurs who had fled Chinese persecution for peacefully opposing Chinese rule, for writing something, for speaking something," she said.

 If it is a fact, it is not something they can be proud of.