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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

西川一三 『秘境西域八年の潜行』 上巻 から

2009年07月11日 | 抜き書き
 由来、蒙古人は殆ど商業には携わらない。蒙古においての商業は、シナ商人の手に殆ど独占されている。シナ商人と蒙古人の取引は、蒙古人は交易品の家畜を追ったり、羊毛、皮革、乳製品をラクダの背に漢人地帯に出て行く場合もあるが、内蒙古方面においては張家口、大同、平地泉、綏遠、包頭に店舗を構えている山西人、すなわち山西省出身のシナ商人の手に殆ど占められている。彼らは蒙古奥地に進出し、王府や有名な廟の近くに小さな店舗を構えたり、「揆子」と呼ばれる資本も少額な、小は一人一頭のラクダから大は二、三人二十余頭のラクダに商品を携えて奥地に入り、包から包へと歩き回り、あるいは、地を選んでテントを張り、蒙古人相手に交易し、蒙古人から得た物資を携えて基地に帰り売却する商人や、「販子」と呼ばれる資本も大きい主人のほか、七、八名の使用人と百頭近くのラクダと共に、春秋二季の羊毛、ラクダの毛をかり取る季節に奥地に入り、蒙古人から羊毛、皮革、家畜類の買付けを行ない、それらを沿線の市場に搬出売却して、買付けた対価である商品を後から交付して、蒙古人との間に物々交換の取引を行なっている。 (「内蒙古篇」 本書72-73頁)

 蒙古地帯には〔中略〕の羊飼い、廟のアルガリ〔家畜の糞〕拾い、王府や蒙古兵の炊事等の雑役夫として、故郷の漢人地帯にも出て行かず、一生蒙古の奥地で終わる寄生虫のようなシナ人がいる。ほかに銀細工師、仏画師、皮なめし、フェルト造り、春秋二回羊毛を鋏みで刈り取る臨時労働者など、暖かくなると蒙古地帯に入り、寒気厳しい時分には故郷の京包沿線方面に帰って暮らす、渡り鳥のようなシナ人たちがからへ移り住んでは仕事をしている。これらのシナ人はほとんど山西省出身者で〔後略〕 (「内蒙古篇」 本書104頁)

 2009年07月09日「護雅夫/神田信夫編 『北アジア史(新版)』から」の続き。
 これら漢人は、もちろんモンゴル語を、各々程度の差はあれ、話したであろう。

(中央公論社 1990年10月)

木村肥佐生 『チベット潜行十年』 から

2009年07月11日 | 抜き書き
 もと毎日新聞社、1958年7月刊。

 彼〔ガヤツェレン。カンパ人〕の話によると、この辺の者は皆、中国領土へ移住したがっている。チベット政府はむやみに税金を取り立てる。その税金も本当に政府へ届いているか、だれにもわからない。賦役(オラー)といっては家畜や物をとられ、人をかり出して労働させ、食物は自分持ちで賃金は一銭もくれない。それに比べると川向こうの中国領の同じ東チベット人は、はるかに楽な暮らしをしている。毎年税金はきまっているし、賦役には賃金が払われる。うらやましいことだという。普通、国境から遠いチベット国内のカムパやチベット農村の人たちは、どんなに搾取されても、圧迫されても、それは彼らが前世で犯した悪業のむくいだとして一種の諦観をもって甘受するのである。しかし、比較する対象が眼前にあっては彼らもたまるまい。 (「東チベットを探る」 本書206頁)

 木村肥佐生と西川一三は、昭和21・1946年末から翌年秋にかけ、約10ヶ月間、カム地方一帯を踏査した。

(中央公論社 1982年7月初版 1994年4月9版)

西川一三 『秘境西域八年の潜行』 下巻 から

2009年07月11日 | 抜き書き
 もと芙蓉書房、1967年11月・1968年2月・1968年10月刊。

 チベットの兵隊の間では、中央から辺境警備のチャンドゥ〔昌都・チャムド〕に派遣が決まると、「西康に正月をしに行く」と口にしているのである。/この言葉は兵隊ばかりでなく、上は大臣から下は下っぱの官吏、兵隊にまで当てはまる言葉であった。〔中略〕大臣は大臣なりに不当な重税を課し、兵隊は兵隊なりに上司の目を盗んで不当な徴発を行って任期の三年間にできるだけ私腹をこやして帰ろうとしているからである。/これら統治者達はほとんど中州(ウユパ)、蔵(ザン)出身であり、彼らが西康人に持っている感情には、同じ国民でありながら「我々より下の奴」という非常な優越感を含んでいる。そしてこの地方が、中央政府の眼の届かぬ遠隔の地であることが彼らをますます我儘勝手にし、同じ国内でありながら、故郷ではできない、道義を無視するひどいことをさせているのである。そのため、西康人は彼らの圧政に苦しみ、中央政府、官吏、兵隊に対し深い憤りを持ち、憎しみさえいだいているのである。このことはチベット国全体にとって誠になげかわしいことであり、あわれむべきことであった。 (「西康篇」 本書314頁)

中央チベットのウ・ツァン(前蔵・後蔵)地方のチベット人が、東部西康(カム)地方のチベット人(カムパ人)をひどく蔑み、虐げていたことは、同時期にチベットに潜入していた木村肥佐生の報告(『チベット潜行十年』)にも記録されている。西川・木村が親しく見聞したチベットとチベット人は今を去る60年余の昔である。現在はどうなのだろう。

(中央公論社 1991年1月)

小長谷有紀 『モンゴルの二十世紀 社会主義を生きた人びとの証言』 から

2009年07月11日 | 抜き書き
 モンゴル国の人びとにとって、内モンゴル人とはつねに南方から忍び寄ってくる脅威のなかに入り混じっている存在なのである。歴史的に言えば、一世シェプツンダンパをはじめとするハルハ貴族がガルダンの脅威を逃れるために康煕帝に保護を求めて清朝の支配下に入っていたにもかかわらず、モンゴルの人びとには、一足先に満洲人の支配下に入っていた内モンゴル人(とくにホルチン部)が満洲人に加担して、ハルハを満洲人の奴隷にしたという根強い既成概念がある。清朝支配期にモンゴル人を騙してモンゴルの経済を牛耳った漢人旅蒙商たちも、片言のモンゴル語を内モンゴルで習得し、モンゴル人を陥れる方法を荷車いっぱい積んで南からやってきたであろう。モンゴルの自治と独立を廃止使用と努めた中華民国時代はいうまでもなく、満洲国時代や蒙疆政府時代には日本ファシズム陣営の北辺としての内モンゴルがあった。清朝以後、南北モンゴルは互いに対立した時間が、友好的に付き合った時間より遙かに長かったのである。 (「第六章 モンゴル人と社会主義」本書236頁。太字は引用者)

(中央公論新社 2004年8月)

「Ситуация в китайском Урумчи нормализуется」 から

2009年07月11日 | 抜き書き
▲「ИТАР-ТАСС」10.07.2009, 07.42. (部分)
 〈http://www.itar-tass.com/level2.html?NewsID=14134911&PageNum=0

  ПЕКИН, 10 июля. /Корр. ИТАР-ТАСС Иван Каргапольцев/. В административном центре Синьцзян-Уйгурского автономного района КНР /СУАР/ Урумчи, где 5 июля вспыхнули массовые беспорядки, ситуация постепенно нормализуется, однако в городе сохраняется напряженная атмосфера. Об этом сообщил сегодня по телефону ИТАР-ТАСС осведомленный источник в Урумчи.

 なんでこんなに通り一遍なのかね。

「【ウイグル暴動】私はこうみる」 から

2009年07月11日 | 抜き書き
▲「msn 産経ニュース」2009.7.11 01:39、「『チベット騒動』時とは異なる国際社会の反応 上海社会科学院・趙国軍研究員」 (部分)
 〈http://sankei.jp.msn.com/world/china/090711/chn0907110139004-n1.htm

 新疆ウイグル自治区で5日発生した暴動は在外組織「世界ウイグル会議」のラビア・カーディル(議長)によるテロ組織がしかけた。 

 だから確たる証拠を出せって言ってるんだよ。