書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

護雅夫/神田信夫編 『北アジア史(新版)』 から

2009年07月09日 | 思考の断片
 〔19世紀末から20世紀初頭にかけての〕モンゴル民族運動の社会的・経済的基盤は、商業高利貸資本のあくなき搾取と農業移民の牧地侵入による貧窮化であったから、それは当然全民族的なものであり、ァラット(遊牧民)は各地で漢人植民者を襲撃した。しかし彼らは、そのような素朴な蜂起を全民族的な運動に組織することはできなかった。当時の非常におくれたモンゴル社会の現実は、真の遊牧民の中から民族運動の組織者を求めうる状態になかった。ほとんどの人間が文盲であるモンゴルにおいて、少なくとも近代的な感覚をもってモンゴル族の将来を考えうるものは、王公・貴族の出身者か、ごく少数の平民知識階級(それ自身富農層に属する)に限られていた。それゆえ民族運動のリーダーも、これらのうちから出る以外なかった。
 しかし内モンゴルの王公は、民衆の先頭に立って闘うのには、あまりに清朝と密接な関係にあり、清朝の支配を通じて自己の遊牧的機能をなかば喪失し、漢人との同化が進んでいた。彼らは遊牧民族の首長としてよりは、漢人農民の地主としての安易な生活に慣れていたので、民族の危機に際してモンゴル族を代表する意志も力ももたなかった。しかし外モンゴルの王公は、遊牧民族の首長としての機能をまだもっており、自分たちがチンギス=ハーンの後裔であるという遊牧民の誇りをもち、しばしば民族運動の先頭に立った。だが彼らにとっても、独力をもって清朝に対抗することの困難は火をみるよりも明らかであった。彼らは帝制ロシアの援助を得て清朝に対抗しようとした。 (坂本是忠「第六章 現代のモンゴル」 本書232-233頁)

 以前北京で出会った内モンゴル出身の漢族女性は、漢族とモンゴル族の混住地域で生まれ育ったので、自分は漢語とモンゴル語のバイリンガルだと言っていた。人口の八割を漢族が占め、モンゴル族は二割にすぎない内モンゴルではモンゴル語の話せないモンゴル人も出てきている状態だと、それまでにものの本でも読み、専門家といわれる人にも聞いていた私は、漢民族による同化、すなわち漢化が進む地域だと認識していたから、現実にはそんな状況もあるのかと驚いた。もっともこれはつまりは自分の無知と想像力の貧困さのなせる業にほかならない。聞いて、あらためて北魏の六鎮の例を想い出した。

(山川出版社 1981年8月第1刷 1985年11月第2刷)