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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

思考の断片の断片(54)

2008年05月13日 | 思考の断片
"The Cultural Revolution corresponded to all aspirations of Chinese youth, to its desire for purity and emancipation, to its need for devotion and devotion to a personage with great prestige." (Jacques Gernet, A History of Chinese Civilization, p.672)

The Anti-foreign demonstrations (i.e. as to Janan in 2005 and France in 2008) corresponded to all aspirations of Chinese youth, to its desire for amusement and emancipation, to its need for violence and devotion to powers.

I strongly propose most of you should immediately go to quake-stricken Sichuan province to join the rescue mission and help devastated people there. You are given another promising chance to demonstate your flaring love of the motherland.

Wolfram Eberhard 『A History of China』

2008年05月13日 | 東洋史
"The second Confucian value is loyalty to the 'son of heaven'--to the emperor who, in theory at least, represented heaven and the order of Nature. This value has been transferred to loyalty to the Party and its leader, because to transfer it to the nation could possibly give impetus to the rise of nationalism; nationalism is undesirable for an organization which claims to represent all the oppressed in the world." ("CHAPTER XXII: PRESENT-DAY CHINA," p.361)

 このくだり、黄宗羲『明夷待訪録』「原君」の一節を思い出す。

“後之爲人君者不然、以爲天下利害之權皆出於我、我以天下之利盡歸於己、以天下之害盡歸於人、亦無不可。使天下之人不敢自私、不敢自利、以我之大私爲天下之大公。始而慚焉、久而安焉、視天下爲莫大之產業、傳之子孫、受享無窮。漢高帝所謂「某業所就、孰與仲多」者、其逐利之情不覺溢之於辭矣。” →2008年04月21日「思考の断片の断片(48)」

 「堯舜の世は別として、それ以後の君主はおのれ一個の『私』を天下の『公』であるとする。」中国における伝統的な意味における“公”とはつまり支配者の“私”であるというのならば、かの国の社会に汚職が絶えないのも当然である。いや、汚職――少なくとも日本における意味の――という概念もまた、そもそも存在しないのかもしれない。これはつまり、日本語でいうところの(これを近代的な、あるいは西洋的なといって良いのかどうかはわからないが)“公私混同”という概念が存在しないということなのであるから。
 「フェアプレイはまだ早い」のか?

(Berkely and Los Angeles, University of California Press, 1977)

Jacques Gernet 『A History of Chinese Civilization』

2008年05月13日 | 東洋史
"From the strictly economic point of view, we could speak of an immense waste of energy (during the Great Leap Forward and the subsequent Cultural Revolution), but we should be wrong to take this point of view. for no human society obeys rational rules." ("PART 11 A New Chapter in Chinese History: The People's Republic of China," p.678)

What should be a right point of view to take then?

(trans. by J. R. Foster, Cambridge, Cambridge University Press, 1982)

木野主計 『井上毅研究』

2008年05月12日 | 日本史
 井上毅(1844-1895)は、日本において近代的な法治国家と立憲君主体制の確立を目指した。
 井上毅にとっての政治思想上の敵は、先には元田永孚、後には福沢諭吉だった。
 井上毅は、みずからを「内閣中之民権家」と呼んだ(明治24・1891年12月山県有朋への手紙)。

(続群書類従完成会 1995年3月)

宮崎市定 『中国文明選』 11 「政治論集」 から

2008年05月10日 | 抜き書き
 李衛「探聴日本動静摺」から。

“雍正帝と李衛と両者の日本観は、結果としては大過なかったが、但しその日本認識はこれでいいだろうかという疑問が生ずる。読者も恐らく両者が当時の日本の実情を殆ど知らず、奇妙な点に力をいれずぎた感じを抱かれるであろう。これが商人に止まるならよいが、外交を担当する総督の認識としては余りにお粗末である。これは中国の知識階級、つまりは官僚の体質から来ることで、由来中国読書人は中国以外のアジアに対し殆ど関心を持たぬこと日本人以上である。中国人は日本をも朝鮮をも如何なる意味においても学ぼうとせず、その文献をも読もうとせぬ。日中両国の相互の誤解の根は非常に古い所にあるのである。/文化大革命の少し前まで、中国知識人は日本から入る「赤旗」を読んで、それで日本全体が分るように考えていた。この頃〔本書の初版は1971年1月出版〕はその「赤旗」も読まれなくなったという。以前にはわれわれの著書も輸入されてブルジョア史学と危険視されながら読まれていたが、近頃は全然行かなくなった。もし何時までもこのようでは困ると思う。中国人が少なくとも日本の新聞や雑誌を自由に読むようにと、日本から提案してもよい、と私は考える。” (本書279頁)

(朝日新聞社 1977年1月第2刷)

『現代世界ノンフィクション全集』 18 「中国の歌ごえ 目ざめへの旅 中国は世界をゆるがす」 から

2008年05月10日 | 抜き書き
 エドガー・スノー『目ざめへの旅』(松岡洋子訳)から。

“私たち伝記を書くものが第二に学んだことは、強国としての古代中国の役割を風活させようとする情熱の発露としてのナショナリズムが、教育ある中国人をマルクス主義に魅きつけるに主要な役割を果たした点である。” (本書238頁)

“共産主義者は暴力の信奉者であり、「個人の自由」の破壊者であるという一般的な議論は、中国の現実政治の中ではさして通用しなかった。西欧的な意味での自由は中国には存在しなかったし、政治の変革は優位な軍事力のみによって可能であった。” (本書239頁)

“ここはミゾリ州ではなかった。貧困、無智、堕落、残忍、無関心、混乱、絶望と七年間私が東アジアで見聞してきたものが、私の考え方の背景となっていたのである。私が知っていた「権力の座」にある少数や、数少ない貪欲な持てる者――それは白人にも有色人種にも共通するものであったが――と比較するなら、紅軍は廉潔で私欲のない人びとの集団であった。日本も国民政府も嫌悪しながら、そのいずれをもおとなしく受け入れた他の中国の人びとと比較するなら、彼らには少なくとも自分個人の生命よりも尊いとした理想実現のために生命を投げだす用意があった。” (本書245頁)

“私は彼らに対し親近感を持った。なぜなら、彼らは科学する熱心な態度を持ち、男女間の平等と友好を実践しようとし、人間の平等を主張し、将来に対し積極的な姿勢をとっていたからである。古い中国の惰性的な運命論と対比するなら、これらはすべてよいことだと思われた。” (本書245-246頁)

“彼らが主張し、実現した改革はサロン的な政治解放では決してなかった。彼らが提供したのは食糧、住居、それにすべての人に民主的な機会均等という基本的なものであり、これらがアジアにおいては当面の要求であることを私は承知していた。西洋人としての私を強くひきつけたのは、貧困を救うことのできなかった神秘主義と、もろもろの神を彼らが決定的に拒否し、人類の諸問題は人間が解決するのだという人間の能力に対する合理主義者の信念であったといえよう。” (本書246頁)

 ★あとがきは開高健(「見ること」)。

(筑摩書房 1966年7月)

三浦章夫/密教文化研究所編 『増補改訂版 弘法大師伝記集覧』

2008年05月09日 | 日本史
 弘法大師・空海に関わる史料を網羅的に集め、彼の生涯の時系列順に配列したもの。徳富蘇峰『近世日本国民史』の体裁を想像すればやや当たる。
 加地伸行氏が、『三酔人書国悠遊』(谷沢永一・山野博史両氏との共著)で、この書を司馬遼太郎『空海の風景』の種本であると指摘した。

“それで思うのは『空海の風景』です。司馬さん、自分が使った種本は見せていませんね。三浦章夫という、これは真言宗の人なのですが、この人が昭和九年に出している『弘法大師伝記集覧』という大冊があります。精細きわまりない、伝記の総資料です。これに拠らなければ、空海のことはまず絶対に書けない。
 その三浦さんが『梅園奇賞』という本の一節を探し出してきて引いているのですが、司馬さんは「・・・・・・という太政官の官符が『梅園奇賞』という本に記録されているが」と書いているだけで、三浦章夫には、一度も触れていない。しかも三浦章夫しか書いていないことを引き写していながら、写し間違えています。” (「巧智のひと 司馬遼太郎」、同書21頁)

 後半分は賛成。前半は不同意。「これに拠らなければ、空海のことはまず絶対に書けない」のであれば、それは、もはや種本ではあるまい。
 だから、

“『空海の風景』は、初めから終わりまで全部、三浦さんに拠っている。” (同、同書22頁)

 は、非難には当たらないと思う。司馬遼太郎はこの書を引用する資料の集本として用いただけであって、三浦氏の文章をそのまま己の文章として書き写したわけではないからだ(だいいち、「初めから終わりまで全部」という加地氏のこの発言には、何の根拠も示されていない)。
 さらに云えば、

“『弘法大師伝記集覧』は三浦さんが一生かけて著した大作です。『空海の風景』のほかのところでは、司馬さんは誰それに聞いたとかいっぱい書いてるのに・・・・・・。” (同、同書22頁)

 加持氏はだから道義的に問題があると仰りたいのだろうけれども、これについても半分同意、半分不同意。日本史研究者が徳富蘇峰の『近世日本国民史』を、元史料にあたる前、あらかじめ見当をつけるためのレファレンスブック・工具書として使ったとして、そのことを以て「種本を隠した」と非難するだろうか。いわんや小説家においておやである。
 ちなみに、

“それが物書き根性というものです。一等資料をオープンにしないというのは、この世界ではいくらでもある。” (同書22頁)

 という谷沢永一氏の弁護は、弁護になっているのかいないのか。

(密教文化研究所 1970年1月)

ジャニス/スティーヴン・マッキンノン著 石垣綾子/坂本ひとみ訳 『アグネス・スメドレー 炎の生涯』

2008年05月08日 | 伝記
 スメドレーは共産党員ではなかったしコミンテルンの指揮下にもなかったという主張。

(筑摩書房 1993年1月)

★アグネス・スメドレーがソ連のスパイだったか否かについての諸説。

●Britannica Online Encyclopedia の"Agnes Smedley"項。

"In 1949 General Douglas MacArthur released an army intelligence report that outrageously charged her with being a Soviet spy. She threatened legal action, whereupon the secretary of the army admitted that the charge rested on no evidence. "


●Wikipedia(英語)、"Agnes Smedley"項。

"In 1929, she finished an autobiography; she left Chattopadhyaya and moved to Shanghai. /Smedley conducted a relationship with Richard Sorge, a Soviet spymaster, while in Shanghai. She also had ties with Ozaki Hotsumi, a correspondent of Asahi Shinbun. Later he translated Smedley's Daughter of the Earth into Japanese. She introduced Sorge to Ozaki, who became Sorge's most important informant. Maj. Gen. Charles A. Willoughby, who served with Gen. Douglas MacArthur's chief of intelligence, claimed Smedley was a member of the Sorge spy ring. After the war, Smedley threatened to sue Willoughby for the accusation. But according to Ruth Price, author of the most recent and extensive biography of Smedley (published by Oxford University Press in 2004), there is evidence in former Soviet archival materials that Smedley spied for the Soviet Union.(...)In 1947 she was accused of espionage. Feeling pressure, she moved to the United Kingdom during the investigation. In 1952, two years after her death, the F.B.I. closed the investigation."


●Wikipedia(日本語)、「アグネス・スメドレー」項。

“上海ではソビエト連邦のスパイであったゾルゲと親密に親交し(肉体関係もあった)、後に彼の協力者となる尾崎秀実を紹介した。尾崎はスメドレーの著作を日本語に翻訳している。このような経緯から、マッカーサーの部下であったチャールズ・ウィロビーはスメドレーをソビエトのスパイであると主張していた。スメドレーはこの主張に対し戦後告訴を試みているが、最近の研究ではこの疑惑は真実であるとされている。(略)戦後1947年になり、東西両陣営の間の冷戦が深まる中で、彼女はスパイの容疑をかけられた。身の危険を感じた彼女はイギリスへと移住した。スメドレーの死の2年後、1952年にFBIは彼女に関する捜査を打ち切っている。”


●Wikipedia(ロシア語)、「アグネス・スメドレー」項は、冒頭、「アメリカのジャーナリスト、作家、スパイ」と記述。

"Агнес Смедли (англ. Agnes Smedley 23 февраля 1892 Осгуд, Миссури ― 6 мая 1950) ― американская журналистка, писательница, шпионка.(...)/В 1920 переехала в Германию вместе со своим любовником Вирендранатом Чатопадайя. Писала репортажи о Германии для американских изданий The Nation и революционного журнала the New Masses, также для советского журнала «Интернациональная литература» и др. В этот период также как и Чатопадайя часто перемещалась между Берлином и Москвой, по-видимому, также как он работая на Коминтерн. /В 1928 переехала в Шанхай. В 1929 написала автобиографический роман «Daughter of Earth» (Дочь земли). Была кореспондентом газет Manchester Guardian, China Weekly Review и Frankfurter Zeitung. Написала несколько книг прославляющих китайскую красную армию, чем вызвала недовольство гоминдановцев. В 1930 стала любовницей англосоветского разведчика Рихарда Зорге, помогала ему наладить сеть шпионажа. Несколько месяцев провела в СССР в 1933―1934."

----Особенно интерестно то, что "В этот период также как и Чатопадайя часто перемещалась между Берлином и Москвой, по-видимому, также как он работая на Коминтерн." Но употребление здесь слова "по-видимому" означает, что не имеется неоспоримых доказательств.


●Wikipedia(中国語)、「艾格尼丝·史沫特莱(Agnes Smedley)」項は、この点に関して言及なし。
 以下、全文引用。

“艾格尼丝·史沫特莱(Agnes Smedley,1892年2月23日--1950年5月6日)是美国著名记者,以对中国革命的报道著称。她还支持女权、印度独立、中国的共产主义革命,是八本书的作者。/生平/1892年,史沫特莱出生于美国密苏里州的Osgood,十岁的时候随父母移居科罗拉多州。/1938年到1941年期间,史沫特莱访问了中国,到了延安,对当时中国共产党的活动进行了著名的报道,並為朱作傳《偉大的道路:朱的生平和時代》,於1956年作者逝世後出版,1979年三聯書店出版中譯本。這本著作和斯諾的《西行漫記》並列為西方人向本國介紹中共革命的經典著作。/1951年5月6日,在她逝世一周年時,骨灰安葬於北京八寶山革命公墓,朱親題:「中國人民之友美國革命作家艾格妮絲·史沫特萊女士之墓」。” 


●Agnes Smedley from NOVA Online, "Secrets, Lies, and Atomic Spies."
  →http://www.pbs.org/wgbh/nova/venona/dece_smedley.html

"Agnes Smedley, a triple agent who worked for the Soviets, the Chinese Communists, and the Indian nationalists, was one of the most prolific female spies of the 20th century. "

----This website is very informative.

「曹長青網站」から

2008年05月08日 | 抜き書き
抄写现在感到兴趣的文章:

▲「曹長青網站」2008-05-04、「思项羽:中国法盲走向世界――CNN所面临的“法律诉讼”」
 →http://caochangqing.com/gb/newsdisp.php?News_ID=1689

“中国稍有智商和地位的人都知道,玩外国人,不过是一个手段而已,而玩中国人自己,才是最後的目的。” 

▲「曹長青網站」2008-05-07、「中国留学生为什麽如此疯狂?」
 →http://caochangqing.com/gb/newsdisp.php?News_ID=1691

“在当今中国高考要「两耳不闻窗外事」的激烈竞争环境中,他们根本没时间精力去了解社会底层,只能从课本到书本。匆匆从报纸电视上「了解」到的中国现况,又全部都是官方选择性的报导和宣传。久之,他们脑子里的「中国」,就是官方塑造的形象。因此一旦来到海外,看到西方媒体报导的中国和他们「知道」的中国有反差时,他们就以自己是中国人、当然就更了解自己国家的想当然,认定那些西方媒体「不公正」,对中国「怀有恶意」。这次他们「有约而同」出来抗议西方,可能就有这种潜在心理共识。/他们之所以一口咬定西方媒体「不公」,还因为他们在并不真正了解中国的同时,更不了解西方的真实。任何来美留学的中国人都知道,即使通过了托福、GRE考试,但坐到美国课堂上,那些从书本学到的英文完全不够用,有时连美国教授讲什麽都听不懂。再加上美国大学繁多的必读书、还有大小考试,以及有的还有经济压力等,导致他们根本没有时间精力去了解自己所在国的文化和政治经济制度,有的只是从中国带出来的对西方的先入之见。”