書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

遠藤湘吉 「史的評価に問題 遠山茂樹ほか著『昭和史』」

2008年05月24日 | 日本史
 「朝日新聞」1955年12月14日、3面、「読書」欄掲載の書評。
 対象として取り上げた『昭和史』に関して、そのなかで第二次世界大戦末期のソ連の参戦に関し批判が避けられていること、またその際のソ連軍による残虐行為について曖昧な記述しかなされていないことについては、まったく言及はない。

「日ソ中立条約」についてWikipedia(日)、(英)、(露)から

2008年05月24日 | 抜き書き
 中国語版にはエントリーなし。

●Wikipedia(日本語)、「日ソ中立条約」項:

“条約破棄を巡る議論

日本側の主張

条約の一方的破棄から参戦にいたるソ連の行動に対しては、「ソ連は条約を踏みにじって攻め込んだ」として強く非難する声が日本国内に根強く存在する。国際法上または外交信義に鑑み、ソ連の一方的な条約破棄を正当化できる根拠はないとする主張である。
 
具体的には、日ソ中立条約は、その第3条において、

 * 本条約は 両締約国に於て其の批准を了したる日より実施せらるべく 且5年の期間効力を有すべし / 両締約国の何れの一方も右期間満了の1年前に本条約の廃棄を通告せざるときは本条約は次の5年間自動的に延長せらるものと認めらるべし(原文カナ、濁点および「/」なし)

とされ、前半部にて、本条約はその締結により5年間有効とされており、当該期間内の破棄その他条約の失効に関する規定は存在しない。期間満了の1年前までに廃棄通告がなされた場合には、後半部に規定される5年間の自動延長(6年目から満10年に相当する期間)が行われなくなり、条約は満5年で終了するものと解するのが妥当と解釈される。

また、関特演による日本の背信行為によって条約が破棄されたという見解に対しては、演習以降も中立条約に基づく体制は維持されたことから、実際に中立条約破棄を行い、開戦したのはソ連であると批判する。極東国際軍事裁判の決定については、判事団中には当事国・戦勝国としてのソ連から派遣された判事がおり、公平性・中立性の観点から問題があるとの批判がある。

ソ連側の主張

1941年7月に日本陸軍は「関東軍特別演習」(通称:関特演)を行っており、これは日本側からの重大な軍事的挑発であるとして、中立条約破棄の責任を否定する見解がある。また、この「演習」は極東に配備されていたソ連軍部隊を、対独戦に投入する事を阻止する目的で行われたものであり、ドイツが勝利していれば、直ちに日本軍がソ連領内に侵攻する意図をも含んでいた、との主張もなされる。

太平洋戦争についての日本のポツダム宣言受諾を受けて行われた極東国際軍事裁判判決では、「中立条約が誠意なく結ばれたものであり、またソビエト連邦に対する日本の侵略的な企図を進める手段として結ばれたものであることは、今や確実に立証されるに至った。」とソ連側の行為を合法的なものと規定している。”


●Wikipedia (英語)、「Soviet–Japanese Neutrality Pact」項:

"The Japanese argue that, while the Soviet Union gave notice as outlined in Article Three that the pact would not be renewed, Operation August Storm still violated the treaty as the pact itself remained in effect until April 13, 1946."


●Wikipedia(ロシア語)、「Пакт о нейтралитете между СССР и Японией (1941)」項:

" Последствия

Пакт позволил СССР обезопасить свои восточные границы на случай конфликта с Германией. Япония, в свою очередь, развязала себе руки в разработке плана Войны за Великую Восточную Азию против США, Голландии и Великобритании.

С. А. Лозовский (зам. Молотова, отвечавший в НКИД СССР за отношения с Японией), писал в секретной записке Сталину 15 января 1945 года: «…в первый период советско-германской войны мы были заинтересованы больше, чем японцы, в сохранении пакта, а начиная со Сталинграда японцы заинтересованы больше, чем мы, в сохранении пакта о нейтралитете».

За время действия пакта обе стороны допускали отдельные нарушения. Япония иногда задерживала советские рыболовные суда, а СССР иногда предоставлял свои аэродромы американским военным самолетам. Участие СССР в Ялтинской конференции так же являлось нарушением пакта.

Денонсация пакта

Согласно пункту 3, «Настоящий пакт вступает в силу со дня его ратификации обеими договаривающимися сторонами и сохраняет силу в течение пяти лет. Если ни одна из договаривающихся сторон не денонсирует пакт за год до истечения срока, он будет считаться автоматически продленным на следующие пять лет.» 5 апреля 1945 года В. М. Молотов принял посла Японии в СССР Н. Сато и сделал ему заявление о денонсации (отказе от продлении) пакта о нейтралитете. Согласно его заявлению, в условиях, когда Япония воюет с Англией и США, союзниками СССР, пакт теряет смысл и продление его становится невозможным. Н. Сато напомнил, что пакт действует до 25 апреля 1946 года и выразил надежду, что это условие будет выполнено советской стороной. Молотов ответил, что «фактически советско-японские отношения вернутся к тому положению, в котором они находились до заключения пакта». Сато заметил, что юридически это означает аннулирование, а не денонсацию договора, поэтому Молотов взял свои слова обратно и подтвердил, что договор сохраняет силу до 25 апреля 1946 года.

Прекращение действия пакта

9 августа 1945 года СССР нарушил пакт и напал на Японию, в результате чего пакт прекратил свое существование." 

井上清/小此木真三郎/鈴木正四 『現代日本の歴史』下から

2008年05月24日 | 抜き書き
“〔一九〕四一年四月一三日、日本はソヴィエト政府と不可侵条約をむすんだ。しかし、六月独ソ戦争が開始されるやいなや、日本天皇政府は、七月二日御前会議をひらき、日ソ不可侵条約を無視して、対ソ攻撃の計画をすすめ、関東軍特別演習(関特演)の名のもとに、四〇万の関東軍を七〇数万に増強した。それは、独ソ戦がドイツにとって急速かつ有利に進展するという見とおしにたつ対ソ戦の準備であった。” (「第四章 第二次世界大戦」、本書188頁)

“ソヴィエトが対日戦参加に賛成したのは、四一年の日ソ不可侵条約が、独ソ戦開始以後日本の反ソ的活動によってふみにじられていたことと、日本軍国主義のすみやかな打倒によって、日本民衆の苦難をおわらせることのためにほかならなかった。” (「第四章 第二次世界大戦」、本書194頁)

“八月八日―九日の夜、ソヴィエトは日本に宣戦を布告し、たちまち、満州、南樺太を席巻した。このソヴィエト軍の作戦によって、致命的打撃をうけた日本天皇政府は、ついに、八月一四日、ポツダム宣言を受諾し、十五日無条件降伏をもって、その一貫した侵略主義に終止符をうたねばならなかった。” (「第四章 第二次世界大戦」、本書195頁)

(青木書店 1953年1月初版 1958年10月新装重版)

遠山茂樹/家永三郎ほか 「座談会 歴史と人間――とくに現代史の問題を中心に――」

2008年05月24日 | 日本史
 「歴史学研究」第200号(1956年10月)掲載。同書17-40頁。

 出席者:荒正人/家永三郎/上原専禄/江口朴郎/木下順二/遠山茂樹/野間宏/松本新八郎
 司会:松島栄一/金沢誠
 末尾に(1956, 9, 19夜. 岩波書店にて)の但し書きあり。

 ●『昭和史』に対する亀井勝一郎批判をめぐる内容だが、題名が示すように、話題はもっぱら、亀井批判のうち歴史書における人間描写の問題に限られる。
 ●亀井批判の中にある重要な論点の一つ、同書が第二次世界大戦末期のソ連の参戦に関し批判を避けていること、その際のソ連軍による残虐行為について曖昧な言及しか行っていないことについては、まったく話題になっていない。
 ●冗談まじりにではあるが、遠山茂樹は「被害者」と呼ばれている(司会の松島栄一の発言)。

亀井勝一郎 「現代史の七つの課題」から

2008年05月24日 | 抜き書き
 「中央公論」1956年7-10月号に四回にわたり掲載。

“「客観性」といふ言葉は、或はそれによる説明づけは、心の中でさう思つていても、実は他人に対して濫りに教説してはならないものやうに私には思はれる。この歴史こそ「客観性」があると自分で力説するのは、一種の誇大妄想ではあるまいか。何故なら、そのときの「客観性」とは、これを信ぜよといふことだからだ。遠山氏がコミンテルンのテーゼを信じてゐるならば、私は「信仰」としてそれを認めてもいい。しかしみだりに教説すべきではない。” (「歴史家の主観性について――現代史の七つの課題(一)――」、「中央公論」1956年7月号、73頁)

“たとへば社会民衆党は、昭和六年満洲事変を公然と支持した。「満洲の権益をまもれ」と主張した。他方、労農大衆党もまもなく戦争反対を中止し、双方は合同して社会大衆党となつたが、昭和十二年の総選挙のとき、社会大衆党は三十七名の当選者を出し、総選挙の十パーセントを得た。私は井上〔清〕氏等の『日本近代史』で読んだのだが、「これはファシズムに反対する国民が、看板だけでも社会主義政党に期待をもつていたことを物語つていると同時に、反軍・反ファッショの国民感情が、いかにひろがつていたかをも示している」と説明してゐる。/さうにちがひないが、同時に矛盾に気づくはずである。満洲事変の支持を明確化した社会主義政党(たとひ看板だけでも)への支持、その気持の中には二重の「国民感情」があつたのではないか。反軍反ファッショといふ「国民感情」と、満蒙の権益をまもれという国民感情と。この二重性―矛盾は、当時の社会主義運動自体にも反映してゐたのではなかつたか。” (「日本近代化に悲劇――現代史の七つの課題(二)――」、「中央公論」1956年8月号、110頁)

遠山茂樹 「現代史研究の問題点――『昭和史』の批判に関連して――」から

2008年05月24日 | 抜き書き
 「中央公論」1956年6月号から。

“読者が私の書物〔『昭和史』〕に求めたものは、何故に戦争とファッショ的支配ができあがつたのか、何故に国民はそれをくいとめることができなかつたのかという歴史の真実をつきとめ、そしてどうしたら、今日では、かつての歴史の二の舞をせずに平和と民主主義を守り発展させてゆくことができるかをあきらかにしたいと願うことにあつたのだと思う。” (同誌53頁)

“今日では、歴史の科学的認識、歴史学の科学性そのものを否定しようとする考え方が、政府の憲法改悪、教育統制とむすびついて、力を加えようとしているのである。” (同上)

“私がはつきりさせたいことの一つは、歴史学社会科学で人間をえがくことと、文学芸術で人間をえがくことの、内容上のちがいである。(中略)歴史学も文学も、歴史=人間の真実をつきとめる、その目的は一つである。しかし文学は、人間およびその生活が、いかに個性的なもの、偶然的なもの、かけがえのない特殊なそれにおいて存在するかをえがくことを通して、前記の目的にせまるのである。ところが歴史学はそうでない。個性の差をふくみこみながら、人間が階級として存在すること、偶然を貫きながら必然性が実現されてゆくことをこそ、あきらかにするのである。” (56頁)

“歴史発展は、基本的には、支配者と被支配者との対立・闘争にもとづくと考えるならば、被支配者の立場に立つ批判のほかにはない。歴史を変革するものの立場に歴史家の眼をすえて、歴史の動きをとらえるからこそ、その歴史批判は、内在的であり、しかも客観性をもつことができる。現存秩序を維持しようとするものの立場に立って、どうしてその秩序の全面的把握が可能であるのだろうか。” (58頁)

“歴史認識が客観的であるためには、あれやこれやの立場にふらついてはならず、はつきりした立場に立たなければならない。しかも考察・批判は公平でなければならぬといわれる。この場合、公平とは、右にも左にも、支配者にも被支配者にも、同じ次元で批判を加えるということではない。もしそのような批判であるならば、歴史に超越する立場に立つ以外にはなくなるから。” (58頁)

“一つの立場に確乎として立ち、しかもその批判が、いわゆる偏つたものとならない、それは型式的には矛盾のようであるが、原則的には変革の立場、民衆の立場に立つから、客観的であることは、前述したとおりである。そのむずかしさは、変革の立場、民衆の立場が、具体的には何であるかを見きわめることにある。いいかえれば、支配者の出している戦争とファッショ的支配のコースに対し、民衆が提出すべき、歴史的に可能な〔原文傍点〕コースが何であったかということである。” (58頁)

“民衆といつても、その要求は複雑である。(中略)その錯綜した要求を、階級本来の要求に高め統一し、歴史的に可能な変革のコースを設定するのが、労働者階級の前衛党の任務である。そうだとすれば、現代史研究が客観性を保証される立場は、この前衛の立場であるということになる。” (59頁)

“もつともこれは、あるべき前衛の立場ということである。現実の〔原文傍点〕日本共産党の立場ということを、ただちに意味するものではない。現実の共産党は、あるべき前衛の立場から批判されなければならない。(中略)歴史家は自己の足場をふみかためるために、階級関係、民衆の生活と要求とをしらべ、その結論に照らしてたえず検討してゆく必要がある。歴史家は、自分のよって立つ立場をも批判する柔軟な態度、強靱な主体性を失ってはならない。” (59頁)

“六全協の決議が示しているように、現実の共産党は、戦前も戦後も前衛としての任務を充分には果たしえない欠陥を、みずからの中にもつていた。私もその大衆とのむすびつきの弱さ、公式主義、セクト主義、冒険主義を書中で一応は指摘した。しかし、いわばお題目をならべただけであり、何故それが発生したのか、具体的な理論と行動のどこにそれがあらわれたか、その欠陥が戦略と戦術にどうかかわるかを明らかにしなくては、共産党が全面的に、批判的客観的にとらえられたとはならないであろう。だから私は共産党の役割を過大に評価しているとの批判をうけることになるし、その弱さが、ソ連軍の暴行の記述のところに端的にあらわれる結果となったのだと思う。” (59頁)

“私は、基本的には二七年テーゼ、三二年テーゼの上に、歴史批判の立場を求めたい。” (60頁)

亀井勝一郎 「現代歴史家への疑問」から

2008年05月24日 | 抜き書き
 『文藝春秋』1956年3月号。

 亀井勝一郎による遠山茂樹/今井清一/藤原彰著『昭和史』批判の具体的な論点:

1. 悪文であること。

“私がいつもふしぎに思ふのは、歴史家がなぜ表現に苦心しないかといふことである。” (同誌195頁)
“(『昭和史』は)典型的な官僚文章である。(中略)或る種の事大主義、権威への追従をそそのかすのに恰好の文章だと思つた。” (同上)
“精神状態が、どうしてかうも生硬なのかとふしぎに堪へなかつた。” (同上)

2. 歴史上の人物の評価に関して、たやすく“限界”という言葉を用いること。

“歴史家がしばしな一つの迷信におちいる。「過去」の人間よりも、「現在」の自分の方が進歩してゐるといふ迷信である。” (196頁)
“過去の人物を語るとき、必ず「限界」をもち出す人が多い。(中略)それなら私たち地震の「限界」は一体どうなるのか。それとも「限界」などないのか。(中略)傲慢な迷信ではないか。或は粗雑な神経と云つてもよい。” (同上)

3. 人間が描けていないということ。「客観性」に藉口した公式見解への安易なよりかかり。

“「公平」を粧ふ臆病者があまりにも現代史家に多いのではないか。” (同上)

4. 「国民」の不在。

“日華事変から太平洋戦争にいたるまで、無謀の戦ひであったにせよ、それを支持した「国民」がゐた筈である。” (197頁)
“「昭和史」を読んでゐると、戦争を強行した軍部や政治家や実業家と、それに反対して弾圧された共産主義者や自由主義者と、この双方だけがあつて、その中間にあつて動揺した国民層のすがたは見あたらない。” (同上)

5. 個々の人物の描写力もまた貧困であること。

“東条(英機)を「軍閥」といふ概念の一統計的人物としてあらはし、革命家を「革命」といふ概念の一統計的人物としてあらはずだけでは、対象は死ぬではないかと言ふことである。” (197頁)
“共産主義者の戦ひぶりも出てくるが、それはすべて正しかつたのか。” (同上)

6. 「死者の声がひびいてゐない」こと。

“「昭和史」は戦争史であるにも拘らず、そこに死者の声が全然ひびいてゐないことである。歴史とは死者の歴史であり。歴史家とは死者の声を代弁し、その魂をよみがへらせるものでなければならない。(中略)あの戦争を文字どほり「聖戦」と信じ、天皇陛下万歳を叫びながら死んで行つた無数の兵士もゐた筈である。(中略)そういふ死者は、すべて支配階級の煽動によつてをどらされた愚者なのか。” (198頁)

7. 大戦末期のソ連の参戦に関して批判を避けたこと、その際のソ連軍による残虐行為について曖昧な言及しか行っていないこと。

“今度の戦争で、ソ連の参戦といふ重大事実に対してなぜ批判を避けたのか。” (198頁)
“これは親ソとか反ソとは関係なく、国際法の上から是非を明らかにしておかなければならない問題である。” (同上)
“満洲に進駐してきたソ連軍が略奪暴行したことについて私などしばしば聞くが「ソ連軍の満洲進出にあたつて、その一部に暴行があつたといわれ、それが反ソ宣伝の材料とされた。だがその主な責任は、関東軍が治安を保つ責任を放棄し、軍人、軍属とその家族を後方に輸送することにのみ熱中してゐたことにあつた」といふのはほんたうにそのとほりなのかどうか。” (同上)
“日本軍の残虐については容赦なくふれてゐるが、ソ連軍の行為を曖昧に葬つたのはどういふわけか。” (同上)

8. 結論。 

“要するに歴史家としての能力が、ほぼ完全と云つていいほど無い人人によつて、歴史がどの程度に死ぬか、無味乾燥なものになるか、一つの見本として「昭和史」を考へてよい。” (198頁)