●John Kenneth Galbraith 『Money: Whence it came, where it went』(London, Penguin Books, 1989)
●湯浅赳男 『文明の「血液」 貨幣から見た世界史』(新評論 1988年7月)
●吉沢英成 『貨幣と象徴 経済社会の原型を求めて』(筑摩書房 1994年6月)
●三上隆三 『貨幣の誕生 皇朝銭の博物誌』(朝日新聞社 1998年1月)
から。
文中、太字は引用者による。
"For some four thousand earlier years there had been agreement on the use of one or more of three metals for purposes of exchange, three being silver, copper and gold, with silver and gold being also once used in the natural combination called electrum." (Galbraith, Chapter 2, 'Of Coins and Treasure,' p. 17)
“貨幣にしても金銀にしても、文明のもとで初めて誕生したわけではない。(中略)貨幣は原始社会においても絢爛と存在していたし、金はおそらく人類は着目した最初の金属であったろうと思われるが、しかし、いずれもこれらは多くの財の中の一つ以上のものでも、以下のものでもなかったのである。この二つの財が突出してくるのは古代帝国のもとにおいてである。そしてペルシャ帝国の辺境のリュディアにおいて貨幣と貴金属が結合して打刻コインが誕生し、たちまちのうちに権力の枠組すら突破していったのである。なお、コインの誕生は単に西アジアにおいてのみならず、東アジアにおいても行われた。さまざまな可能性があったとしても、そこでは銅銭を中心とした鋳造コインが誕生し、中国文明の西ヨーロッパへの屈服にいたるまで存在を続け、後には銀地金の貨幣的使用が普及したが、ついに両者の結合は行われなかった。以上のコインの二つの型は文明のタイプでもあって、今日に至るまで、その特徴を保持しているものである。” (湯浅、「まえがき」、3頁)
“ポランニーが述べているように、「いかなる対象もそれ自体で貨幣ということはなく、適当な分野の何らかの対象が貨幣として機能することができるのである。実際、貨幣は言葉、文字、度量衡と同様な一つのシンボル体系である。これらがそれぞれ異なるのは、主にそれが利用される目的、実際に使用される記号、それは単一の統一された目的を表示している程度、によるのである」。つまり、貨幣はその原始において経済の領域ではなく、いや、むしろ経済とはかかわりないシステムとして始まったとしたほうが正確であろう。それはまさにもろもろの人間的価値にかかわるものであるから、これら人間的価値と貨幣素材との関係はいわゆる記号内容と記号形態のそれのように恣意的であるとしか言いようもあるまい。” (湯浅、「第1章 文明と貴金属の勝利」、39頁)
“金を貨幣にしているのは、その時代、その社会の観念、すなわち集合表象に負っているのであり、時代を超え、一社会を超えても金が貨幣でありうるのは、さまざまな集合表象が金において繋留し、金を至上のものとするグローバルな集合表象が形成されているからである。金が貨幣であるのは、金そのものの素材性にあるのではなく、その素材にまといついた至上性の観念表象、個人的ではなくて集合的な表象にある。その意味で金貨幣も、究極のところ集合表象という制度に拠って立っているのだ。ただ、この制度は人類の無数に近い営みと想念がこの中でくり広げられた歴史の重みで、実体化されるまでに至った慣習であり、観念表象なのである。金貨幣に素材性をみたり、実体性をみるのは、この制度の歴史的重みを指摘しているのである。すなわち金貨幣における素材性とは歴史の重みをもった制度性〔原文傍点〕のことにすぎない。” (吉沢、「第十章 貨幣における管理と本位」、300頁)
“西欧社会では、絶対的には人口の少ない種々の民族が入り乱れて拮抗し、多くの国々が興亡を繰り返した。また、同一民族が多数の都市国家を形成し相互に独立性を保つことも多かった。このような社会にあって国家は経済的に相互依存しなければならず、そのために交易は必要不可欠である。のみならず戦争とその後始末のためにも、貨幣は諸国家の独立性をも貫通するものである必要があった。したがって貴金属たらざるをえなかったし、また貴金属のみがその役割を果たすことができたのである。貨幣は当初から国際性をもたざるをえなかったわけである。西欧のいかなる王・支配者も中国の皇帝のように広域に貨幣を流通させる強制力は持たず、したがって他都市・他国へ、強制力ではなく貨幣の自力によって流通させるためには、金銀貨たらざるをえなかったのである。/これに対し広大な土地と自民族とで形成される中国では、他国との経済的交易は絶対的なものではないので、貨幣は自国経済のための貨幣であり、したがって銅貨で事足りるのである。それだけではない。中国は近隣弱小諸国の宗主国としてより広い地域にも強い影響力を持ち、この地域には国際通貨そのものとして、中国銅貨は無条件無制限に流通した。” (三上、「金銀銅の東と西」、82-83頁)
どうして金が貴金属のなかで最も価値あるものと考えられているのかという疑問には、結局、「昔からそうなっているから」という答えしか用意されていないらしい。
伝統中国では玉を金よりも上位に置く通念=集合表象が存在した。それが「金を至上のものとするグローバルな集合表象」(吉沢氏)に統一されたのは、つまりは「中国文明の西ヨーロッパへの屈服」(湯浅氏の言葉)の結果であるらしい。
●湯浅赳男 『文明の「血液」 貨幣から見た世界史』(新評論 1988年7月)
●吉沢英成 『貨幣と象徴 経済社会の原型を求めて』(筑摩書房 1994年6月)
●三上隆三 『貨幣の誕生 皇朝銭の博物誌』(朝日新聞社 1998年1月)
から。
文中、太字は引用者による。
"For some four thousand earlier years there had been agreement on the use of one or more of three metals for purposes of exchange, three being silver, copper and gold, with silver and gold being also once used in the natural combination called electrum." (Galbraith, Chapter 2, 'Of Coins and Treasure,' p. 17)
“貨幣にしても金銀にしても、文明のもとで初めて誕生したわけではない。(中略)貨幣は原始社会においても絢爛と存在していたし、金はおそらく人類は着目した最初の金属であったろうと思われるが、しかし、いずれもこれらは多くの財の中の一つ以上のものでも、以下のものでもなかったのである。この二つの財が突出してくるのは古代帝国のもとにおいてである。そしてペルシャ帝国の辺境のリュディアにおいて貨幣と貴金属が結合して打刻コインが誕生し、たちまちのうちに権力の枠組すら突破していったのである。なお、コインの誕生は単に西アジアにおいてのみならず、東アジアにおいても行われた。さまざまな可能性があったとしても、そこでは銅銭を中心とした鋳造コインが誕生し、中国文明の西ヨーロッパへの屈服にいたるまで存在を続け、後には銀地金の貨幣的使用が普及したが、ついに両者の結合は行われなかった。以上のコインの二つの型は文明のタイプでもあって、今日に至るまで、その特徴を保持しているものである。” (湯浅、「まえがき」、3頁)
“ポランニーが述べているように、「いかなる対象もそれ自体で貨幣ということはなく、適当な分野の何らかの対象が貨幣として機能することができるのである。実際、貨幣は言葉、文字、度量衡と同様な一つのシンボル体系である。これらがそれぞれ異なるのは、主にそれが利用される目的、実際に使用される記号、それは単一の統一された目的を表示している程度、によるのである」。つまり、貨幣はその原始において経済の領域ではなく、いや、むしろ経済とはかかわりないシステムとして始まったとしたほうが正確であろう。それはまさにもろもろの人間的価値にかかわるものであるから、これら人間的価値と貨幣素材との関係はいわゆる記号内容と記号形態のそれのように恣意的であるとしか言いようもあるまい。” (湯浅、「第1章 文明と貴金属の勝利」、39頁)
“金を貨幣にしているのは、その時代、その社会の観念、すなわち集合表象に負っているのであり、時代を超え、一社会を超えても金が貨幣でありうるのは、さまざまな集合表象が金において繋留し、金を至上のものとするグローバルな集合表象が形成されているからである。金が貨幣であるのは、金そのものの素材性にあるのではなく、その素材にまといついた至上性の観念表象、個人的ではなくて集合的な表象にある。その意味で金貨幣も、究極のところ集合表象という制度に拠って立っているのだ。ただ、この制度は人類の無数に近い営みと想念がこの中でくり広げられた歴史の重みで、実体化されるまでに至った慣習であり、観念表象なのである。金貨幣に素材性をみたり、実体性をみるのは、この制度の歴史的重みを指摘しているのである。すなわち金貨幣における素材性とは歴史の重みをもった制度性〔原文傍点〕のことにすぎない。” (吉沢、「第十章 貨幣における管理と本位」、300頁)
“西欧社会では、絶対的には人口の少ない種々の民族が入り乱れて拮抗し、多くの国々が興亡を繰り返した。また、同一民族が多数の都市国家を形成し相互に独立性を保つことも多かった。このような社会にあって国家は経済的に相互依存しなければならず、そのために交易は必要不可欠である。のみならず戦争とその後始末のためにも、貨幣は諸国家の独立性をも貫通するものである必要があった。したがって貴金属たらざるをえなかったし、また貴金属のみがその役割を果たすことができたのである。貨幣は当初から国際性をもたざるをえなかったわけである。西欧のいかなる王・支配者も中国の皇帝のように広域に貨幣を流通させる強制力は持たず、したがって他都市・他国へ、強制力ではなく貨幣の自力によって流通させるためには、金銀貨たらざるをえなかったのである。/これに対し広大な土地と自民族とで形成される中国では、他国との経済的交易は絶対的なものではないので、貨幣は自国経済のための貨幣であり、したがって銅貨で事足りるのである。それだけではない。中国は近隣弱小諸国の宗主国としてより広い地域にも強い影響力を持ち、この地域には国際通貨そのものとして、中国銅貨は無条件無制限に流通した。” (三上、「金銀銅の東と西」、82-83頁)
どうして金が貴金属のなかで最も価値あるものと考えられているのかという疑問には、結局、「昔からそうなっているから」という答えしか用意されていないらしい。
伝統中国では玉を金よりも上位に置く通念=集合表象が存在した。それが「金を至上のものとするグローバルな集合表象」(吉沢氏)に統一されたのは、つまりは「中国文明の西ヨーロッパへの屈服」(湯浅氏の言葉)の結果であるらしい。