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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

思考の断片の断片(53)

2008年05月08日 | 思考の断片
▲「YOMIURI ONLINE」2008年5月8日03時07分、「『白樺ガス田』共同開発、対象海域詰めへ…日中首脳で確認」
  →http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20080508-OYT1T00162.htm

 目前,唐淳风先生在哪里? 日中两国还没交火,您一定觉得很遗憾。

▲「人民網日本語版」2008年05月07日11:20 (北京時間),「暖かい春を迎える中日関係(3)」
 →http://j1.peopledaily.com.cn/2008/05/07/jp20080507_87776.html

“今や中国の指導者が堂々たる大国の風格と「四海一家(世界は一家)」の気概を示すのを見て、日本の指導者も歴史認識問題における小泉氏等の誤ったやり方を改めるに至った。”

 这种说法不会导致日本人民的友好情绪。可能引起相反的作用呢。

吉川幸次郎 『中国文学雑談 吉川幸次郎対談集』 から

2008年05月04日 | 抜き書き
 湯川秀樹との対談「中国の学問と科学精神」から。

“宇宙はつねに秩序を得ているように、人間も原則的には道徳的であり、善を好む。(中略)その前提としては、人間も自然の一部であり、人間の理も自然の理も一つだという非常に強い確信が、先行したものとしてあるのです。” (吉川幸次郎、216頁)

“それともう一つ先行するのは、自然についても人間についても、重要なことはみんな古典に書いてあるという思考です。古典は大ざっぱなことばだけれども、それを演繹していけば、自然の実情も古典のことばからわかるとする。そこで格物致知ということは、けっきょく読書明理、書を読んで理を明らかにするというのと、同じになる。” (同上)

“経書の中に真理は言いつくされてると考えるのは、(17世紀までの西洋の中世が)聖書やアリストテレスを絶対的なよりどころとするというのと非常によく似ている。” (湯川秀樹、217頁)

(朝日新聞社 1977年3月)

江上波夫/伊東俊太郎 『文明移転 東西文明を対比する』

2008年05月03日 | 世界史
“本は読むが、実験はしない。だから(伝統中国では)科学は発達しないのです。” (江上波夫、「Ⅴ 科学革命の移転」、本書184頁)

 中国で(自然)科学が発達しなかったことについて、梁啓超は『清代学術概論』でいろいろもっともらしい説明をしているが、つまるところ、理由はここに尽きるのではなかろうか。研究者がみずから身体を労しないという。

(中央公論社 1984年7月)

梁啓超著 小野和子訳 『清代学術概論 中国のルネッサンス』

2008年05月03日 | 東洋史
“恵派〔恵棟・呉派〕の経学研究は、あたかも、ヨーロッパの言葉に通じない人がヨーロッパの書物を読むのに訳者を神聖なものと考えるがことくであった。漢儒こそがその訳者にあたるもので、まったく信用してあえて異をとなえようとはしなかった。戴派〔戴震・皖派〕はそうではなかった。訳者をかるがるしく信用せず、必ず原文の正確さを追求してはじめて安堵した。恵派の業績は、断章零句をも古えを引いて後世の誤りを正したことだけであったが、戴派は、一問題を解明するごとに、さまざまな書物にも通ずるよう、その解説をおこなった。したがって、恵派は漢学と称しうるが、戴派の方は、たしかに清学ではあるが漢学ではないのである。(中略)戴派の訓詁、名物の研究は、つねにひろく漢人の学説を引用するけれども、けっしてそれに拘泥してはいない。たとえば、『読書雑志』『経義述聞』のごときは、全書すべて、旧注疏の誤謬を訂正したものである。旧注とは、毛亨および毛萇、鄭玄、賈逵、服虔、杜預である。旧疏とは、陸徳明、孔穎達、賈公彦である。” (「十二 段玉裁と王氏父子」、本書115-116頁)

 しかし通常は恵派・戴派ともに、いわゆる清朝考証学派は漢儒の言うことをまったく信用してあえて異を唱えようとはしない、漢学である、との認識が一般的ではないだろうか。
 たとえばわが国の狩野直喜など、そうである。狩野は、清代の考証学者を“漢学家”の一語で総括している。

“清朝の漢学家は、(中略)すべて漢儒の説に本づき、漢儒の説にあらざれば根拠なき俗説として一切之を斥けた(後略)。” (狩野直喜『中国哲学史』、岩波書店、1967年7月第7刷、「第六編 清の学術と思想」、499頁)

 梁のこの説が「清代の学術研究が科学的精神にあふれたものであった」(「三十二 科学の未発達」、本書335頁)と言いたいがための牽強付会でないことを期待する。

(平凡社 1987年1月初版第4刷)

アレクシス・ド・トクヴィル著 井伊玄太郎訳 『アメリカの民主政治』 上下 から

2008年05月01日 | 抜き書き
“或る民族が慣行に次いで少しも変えたがらないものは民法である。” (「第二章 出発点」、上巻92頁)

“社会状態は、普通には、事実の産物であるが。時としては法律の産物でもあり、また最もしばしば、これら二つの原因の結合されたものの産物でもある。けれども、一旦、社会状態が存在するようになると、これ自体が国民の行為を規制する大部分の法律、慣習、観念の第一原因と考えられうるものとなる。/したがって、或る民族の法制と風習とを理解するためには、まず初めに、その社会状態を研究せねばならない。” (「第三章 イギリス系アメリカ人の社会状態」、上巻93頁)

 ★英語訳では「社会状態」は "a social condition"。(Democracy in America ― Volume 1, written by Alexis de Tocqueville , translated by Henry Reeves, at Project Gutenberg)

(講談社 1972年6月)