“恵派〔恵棟・呉派〕の経学研究は、あたかも、ヨーロッパの言葉に通じない人がヨーロッパの書物を読むのに訳者を神聖なものと考えるがことくであった。漢儒こそがその訳者にあたるもので、まったく信用してあえて異をとなえようとはしなかった。戴派〔戴震・皖派〕はそうではなかった。訳者をかるがるしく信用せず、必ず原文の正確さを追求してはじめて安堵した。恵派の業績は、断章零句をも古えを引いて後世の誤りを正したことだけであったが、戴派は、一問題を解明するごとに、さまざまな書物にも通ずるよう、その解説をおこなった。したがって、恵派は漢学と称しうるが、戴派の方は、たしかに清学ではあるが漢学ではないのである。(中略)戴派の訓詁、名物の研究は、つねにひろく漢人の学説を引用するけれども、けっしてそれに拘泥してはいない。たとえば、『読書雑志』『経義述聞』のごときは、全書すべて、旧注疏の誤謬を訂正したものである。旧注とは、毛亨および毛萇、鄭玄、賈逵、服虔、杜預である。旧疏とは、陸徳明、孔穎達、賈公彦である。” (「十二 段玉裁と王氏父子」、本書115-116頁)
しかし通常は恵派・戴派ともに、いわゆる清朝考証学派は漢儒の言うことをまったく信用してあえて異を唱えようとはしない、漢学である、との認識が一般的ではないだろうか。
たとえばわが国の狩野直喜など、そうである。狩野は、清代の考証学者を“漢学家”の一語で総括している。
“清朝の漢学家は、(中略)すべて漢儒の説に本づき、漢儒の説にあらざれば根拠なき俗説として一切之を斥けた(後略)。” (狩野直喜『中国哲学史』、岩波書店、1967年7月第7刷、「第六編 清の学術と思想」、499頁)
梁のこの説が「清代の学術研究が科学的精神にあふれたものであった」(「三十二 科学の未発達」、本書335頁)と言いたいがための牽強付会でないことを期待する。
(平凡社 1987年1月初版第4刷)