単行本が出ているらしいですね。でも、今回は教科書版です。吉橋通夫「さんちき」。東京書籍の国語、一年生用です。単元は「読む[文学]」。
今年は順番を入れ替えて、物語と同じ五月二十日から授業を始めました。
そうしたら、「今日で149年です!」と発見してくれた子がいて、なんだか不思議な感じですね。わたしは中学生の文学教材ではいちばん「さんちき」が好きなんですよ。教育実習の人がきてもまかせたくないほど(笑)。
今回は五年ぶりに授業をしたのですが、時代劇的な知識が希薄になっているように感じました。「字が読めない」ことをことさらに強調する子が何人かいまして、さらに職人が名を刻むということが実感としてつかめていない。「新撰組」「尊皇攘夷」とあっても江戸半ばくらいだと思っている子もいます。
こういうレディネスのようなことを、入学一カ月半の生徒から抽出するために、わたしは「親方」か「三吉」かに架空の手紙を書かせます。文章だから、知っていることしか書けない。もちろん、そうする前に詩だの嘘つき作文だのを書いてもらって、ある程度授業で文章を書くことに慣れさせておくんです。
なにしろ自分の名前すら間違うという三吉を、子どもたちがどう見るか。その傾向をつかんでから、めぼしい作文を選んで紹介します。自分だったら絶対車大工にはなれないという子もいますし、親方に怒鳴られそうだからやめておくと書く子もいます。模範的な読み取りだけでなく等身大の感想も入れるのがコツですかね。
それから、登場人物をキャスティングして全員で読んでいきます。とりあえず人物は二人なので、そのほかの子は「一文読み」。ルール確認と三吉の作った「矢」の説明を学習するために、クラス一巡したらそこで終わります。
ところが、ここまでだと親方の台詞がひとつしかないんですよね。大体は次の時間も続投してくれます。三吉役は交代しますが。
「矢」については、あらかじめ厚紙を切って「元治元年甲子五月二十日」と書いておきます。次の時間にそこまで読んで、おもむろに取り出し、読み方を訊く。
「これは裏? 表?」
当然「裏」ですよね。では表にはなんと書いてあるのか。「さんちき!」
で、三吉役の生徒に書いてもらう。この矢はのちほど使います。
親方の侍観と車大工観を対比して、親方から三吉への「励まし」であることをおさえさせ、三吉が「腕のええ車大工」になると決意することで、この物語は終わります。
でも、あらすじをなぞっただけでは不十分なんです。もう一押しほしい。そこで例の厚紙が再登場することになります。
「この矢がついているのはどんな鉾なのか」を確認してください。百年持つ鉾です。
だから、百年先の人はその鉾を作った車大工は「さんちき」という人だと思う。「さんちき」とは、百年先も使われ続ける鉾を作るほど腕のええ車大工なんです。
百年先、というキーワードで、実際に物語の時代から百年後のことを考えるという授業をする方もいるそうです。百年では長いので、まだ三吉が生きていそうな五十年後という設定をする場合もある。実際に見せてもらったら、日露戦争に突入する激動の時代と話されていて確かにインパクトはあるのですが、幕府(為政者)は変わっても庶民の力は受け継がれるというテーマからは離れるように感じました。
わたしは「三吉の決意」についてどう思うかをまとめさせます。自己評価用紙を毎時間提出することになっているんですが、そこに「三吉は一人前になるまであと二十年くらいかかりそう」と書いていた子がいまして、引き合いに出しながら三吉はこれから先変化するのか、を中心に書いてもらう。矢を作るのにあれだけ頑張ったのだから、おっちょこちょいは仕方ないとしても腕のいい車大工になるだろう、弟子もいて昔自分が親方から言われたことを伝えているだろうというパターンが多く寄せられました。
感想は小集団で話し合いをしてから全体発表で共有します。お互いの意見から自分の考えを深められるのが教室の魅力ですよね。
この「車伝」という工房、親方と三吉の二人なんですよね。親方は一本の矢以外全部自分で作れるんです。三吉が親方の言葉で変わったのではないかと思う根拠として、八つの頃から親方の仕事を側で見ていたからという人もいて、物語の背後を見つめられる力を感じました。
今年は順番を入れ替えて、物語と同じ五月二十日から授業を始めました。
そうしたら、「今日で149年です!」と発見してくれた子がいて、なんだか不思議な感じですね。わたしは中学生の文学教材ではいちばん「さんちき」が好きなんですよ。教育実習の人がきてもまかせたくないほど(笑)。
今回は五年ぶりに授業をしたのですが、時代劇的な知識が希薄になっているように感じました。「字が読めない」ことをことさらに強調する子が何人かいまして、さらに職人が名を刻むということが実感としてつかめていない。「新撰組」「尊皇攘夷」とあっても江戸半ばくらいだと思っている子もいます。
こういうレディネスのようなことを、入学一カ月半の生徒から抽出するために、わたしは「親方」か「三吉」かに架空の手紙を書かせます。文章だから、知っていることしか書けない。もちろん、そうする前に詩だの嘘つき作文だのを書いてもらって、ある程度授業で文章を書くことに慣れさせておくんです。
なにしろ自分の名前すら間違うという三吉を、子どもたちがどう見るか。その傾向をつかんでから、めぼしい作文を選んで紹介します。自分だったら絶対車大工にはなれないという子もいますし、親方に怒鳴られそうだからやめておくと書く子もいます。模範的な読み取りだけでなく等身大の感想も入れるのがコツですかね。
それから、登場人物をキャスティングして全員で読んでいきます。とりあえず人物は二人なので、そのほかの子は「一文読み」。ルール確認と三吉の作った「矢」の説明を学習するために、クラス一巡したらそこで終わります。
ところが、ここまでだと親方の台詞がひとつしかないんですよね。大体は次の時間も続投してくれます。三吉役は交代しますが。
「矢」については、あらかじめ厚紙を切って「元治元年甲子五月二十日」と書いておきます。次の時間にそこまで読んで、おもむろに取り出し、読み方を訊く。
「これは裏? 表?」
当然「裏」ですよね。では表にはなんと書いてあるのか。「さんちき!」
で、三吉役の生徒に書いてもらう。この矢はのちほど使います。
親方の侍観と車大工観を対比して、親方から三吉への「励まし」であることをおさえさせ、三吉が「腕のええ車大工」になると決意することで、この物語は終わります。
でも、あらすじをなぞっただけでは不十分なんです。もう一押しほしい。そこで例の厚紙が再登場することになります。
「この矢がついているのはどんな鉾なのか」を確認してください。百年持つ鉾です。
だから、百年先の人はその鉾を作った車大工は「さんちき」という人だと思う。「さんちき」とは、百年先も使われ続ける鉾を作るほど腕のええ車大工なんです。
百年先、というキーワードで、実際に物語の時代から百年後のことを考えるという授業をする方もいるそうです。百年では長いので、まだ三吉が生きていそうな五十年後という設定をする場合もある。実際に見せてもらったら、日露戦争に突入する激動の時代と話されていて確かにインパクトはあるのですが、幕府(為政者)は変わっても庶民の力は受け継がれるというテーマからは離れるように感じました。
わたしは「三吉の決意」についてどう思うかをまとめさせます。自己評価用紙を毎時間提出することになっているんですが、そこに「三吉は一人前になるまであと二十年くらいかかりそう」と書いていた子がいまして、引き合いに出しながら三吉はこれから先変化するのか、を中心に書いてもらう。矢を作るのにあれだけ頑張ったのだから、おっちょこちょいは仕方ないとしても腕のいい車大工になるだろう、弟子もいて昔自分が親方から言われたことを伝えているだろうというパターンが多く寄せられました。
感想は小集団で話し合いをしてから全体発表で共有します。お互いの意見から自分の考えを深められるのが教室の魅力ですよね。
この「車伝」という工房、親方と三吉の二人なんですよね。親方は一本の矢以外全部自分で作れるんです。三吉が親方の言葉で変わったのではないかと思う根拠として、八つの頃から親方の仕事を側で見ていたからという人もいて、物語の背後を見つめられる力を感じました。
その「すげー」を別の言葉で書いていくのが感想なんだと思います。
わたしが高校生の頃、安易に「すごい」と書いてはいけないと言われました。「すさまじ」からきているから、ということなんですが。
でも、つい書いてしまいますけどね。
このあと別のクラスで授業をしたら、「三吉はおっちょこちょいだから一人前になってもなんか失敗をしそう」という感想があってがっくりきましたけど……。