昨日は昔から世話になっている社長さんと、喜多方の駅前の喫茶店でお会いした。僕が会津に戻って来て何もやることがなく、ろくな仕事にもついていないときに、原稿を書くことを勧めてくれた人だ。そのときの僕は20代後半だった。世の中に溶け込めず、みすぼらしくやせ細った青年であった。
その後、広告の仕事をしながら、雑文書きになった。才能がある無しよりも、それしか生きていく手段が見当たらなかった。しかし、そのときに社長さんの雑誌に連載して、後になってまとめたのが『郷愁の民俗学柳田国男のノート』であり、僕の処女作であった。自費出版で世に問うたのである。
あれから30冊以上の本に関係するようになったが、今読み返してみると、文章はともあれ、若いときの気負いが、なぜか新鮮に感じてならない。
その社長は今でも雑誌を出し続けている。年齢は80近くにもなっている。大病したにもかかわらず、お元気である。そうした生き方は僕の理想とする所でもある。残された人生何か書き続けらればと思うからだ。
その後、広告の仕事をしながら、雑文書きになった。才能がある無しよりも、それしか生きていく手段が見当たらなかった。しかし、そのときに社長さんの雑誌に連載して、後になってまとめたのが『郷愁の民俗学柳田国男のノート』であり、僕の処女作であった。自費出版で世に問うたのである。
あれから30冊以上の本に関係するようになったが、今読み返してみると、文章はともあれ、若いときの気負いが、なぜか新鮮に感じてならない。
その社長は今でも雑誌を出し続けている。年齢は80近くにもなっている。大病したにもかかわらず、お元気である。そうした生き方は僕の理想とする所でもある。残された人生何か書き続けらればと思うからだ。