ポポロ通信舎

(旧・ポポロの広場)姿勢は低く、理想は高く。真理は常に少数から・・

大泉町に拓殖大学があった

2009年06月28日 | 地域・一般
母の職場(三洋電機)の関係で、私も遅れて前橋から大泉入りし、
中学一年の夏から長い下宿生活の始まりとなりました。
初めて他人様の御やっかいになったのは大泉町仙石の農家のお宅でした。
大泉南中の級友たちは、概して転校生には親切で良い印象があります。
ある日、新しい友達と歩いていると「ここはタクダイの校舎だよ」と
教えてもらいました。すでに学校は廃校になっていましたが、建物は
まだそのまま在りました。今の大泉町役場の所在地付近です。

ずっと「拓大小泉分校」?「拓大大川分校」?かと思っていましたが、
正式には「拓殖短期大学群馬分校」であることが調べて分かりました。
昭和24年~32年までに貿易科と農業経済科の2科、職員31、学生186人、
敷地36,785平方メートル。その後、東京・小平市の農場整備を機に移転。
当時、拓大生が応援旗を掲げ町を行進する写真が「エレガンスモア」店様の
ホームページで確認できます。

中学生の時は、拓殖大学のイメージは何もありませんでしたが、同級生が
同大に進学したり、本県出身の中曽根康弘元首相が総長に就任したこともあり
拓大の力強いイメージができあがりました。初代校長は、なんと桂太郎。
日英同盟、日露戦争時の宰相だ。私は戦後教育の中で、桂太郎は好戦的で良く
ない首相だったと社会科で教えられ、名前が似ているだけに肩身の狭い思いで
おりました(笑)
その後、桂太郎なる人物をじっくり研究し、今では認識を改めています。
ニコニコ笑って肩をたたく癖から「ニコポン宰相」といわれ親しまれたという。
ドイツを範に明治日本の礎を築き、政権担当期間は延べ7年9ヶ月、実行力の
ある政治家でした。

話がそれましたが、旧大川村は、豊かな農業のほかに飛行場(基地)あり、
大学あり、の特色のある地域だったことがわかります。
拓大は終戦後一時期、校名を「紅陵大学」に変えるなど、建学の生い立ちから
して一種、国策的な学校であったようにも思えます。

(写真:拓殖短大群馬分校。「大泉町誌」から)

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