ポポロ通信舎

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シベリア抑留 連合国への賠償労務だった

2018年09月11日 | 研究・書籍

これまでシベリア抑留関係の本は何冊か読みましたが、今回読んだ『告発 シベリア抑留ー国民に隠された真相』(松本宏著 蒼天社2004年)は、シベリア抑留の本質と問題点を的確に書かれたもので後世に語り継がなければならない戦無派必読の書と思いました。

著者松本宏氏は三菱商事定年退職後、自身の「シベリア抑留」を振り返り、裁判の内容も含めソ連側の資料も取り寄せ詳細に記述されています。

6年前の当ブログ「忘れえぬ満州の想い  面高春海展 20120831」で「シベリア行逃れたご来場者」のことに触れてました。面高画伯の絵画の作品には、しばしば上側に列車が描かれている=写真。貨車に日本兵を詰め込みシベリアに向かうソ連の軍用車両だ。大泉町文化むらでの展示初日、見学者のお一人が、この絵を見て「自分はシベリア行きのこの汽車から軍服のまま命がけで逃げて乗らなかった」と話されたといいます・・。

本書によりますと逃走した人は意外に多かったようだ。厳密には戦争は終わっており実際は不当に捕虜う扱いにされシベリアに送られたは、本質は敗戦国の連合国側への現物(労務)賠償の一環だったのだ。それだけに抑留者に対しては、日本政府は民主的な扱いをするよう連合国側に要望し、ポツダム宣言が履行されているかどうか現地視察を行うこともできたはずなのです。

著者は「我々は収容所に入らず逃走せんとすればできたし関東軍等将兵87万7千人の内シベリア抑留者60万人だから、その差は約27万余即ち約3分の1が逃走したと思う。・・列車に乗った後でも満州内である程度の集団ならば逃走しえたはずだ・・」にもかかわらず著者たちは、国を信頼し国の命令に従っていたら苦難に遭遇してしまった、という。

抑留決定はソ連だけの力ではできない

北北海道の占有を米国に拒否されたソ連・スターリンが急きょ、腹いせもあって独断で日本兵の強制連行を決めたとする説がありますが、著者は自らの経験と照らしてもそれを否定している。著者がソ連に入ったときは民衆の状況は日本内地よりひどく、衣料はボロボロで飢えに飢えていた。ソ連の兵器や車両はおろか食料も米国製ばかりで、もし米国の援助がなかったらつぶれていたのではないか。とても米国に刃向かうことのできる状況ではなかったと振り返っている。さらに当時のソ連国防委員会のスターリンからの秘密指令を今読むと短時日に大規模な日本人抑留ができるものではなく、相当以前から検討されていたことが分かった。チタ州の例をとると石炭産業に1万人、非鉄金属に1万3千人、伐採現場4千人、兵舎建1万人、ザバイカル鉄道3千人・・。列車の手配など受け入れ態勢も具体的に示されていた計画書が存在していた。

ドイツは国を挙げて抑留者を歓迎

これらは正に十分検討された「労務賠償の計画」だったことが伺われる。シベリア抑留はソ連が連合国最高指揮官の米国を無視してできるはずがない。日本と同様、ドイツに対しても、戦後賠償の形としてドイツ兵の労務提供がなされている。昭和23年、ドイツ兵の帰還に際しては首相以下国会議員が多数駆け付け抑留者たちをねぎらい連れ帰ったという。日本政府はどうだったろう。迎えに行くどころか抑留者は、帰還後も歓迎どころか「アカ」呼ばわりし監視対象になり「シベリア帰り」とされ、世間からも冷たい目で見られ再就職もままならなかった人もいたといいます。実にドイツとは対照的です。

シベリア抑留のシナリオは、ヤルタ会談(米英ソ)で大筋が決められたとみるのが自然でしょうね。著者の調べでは、なんと日本政府は終戦の昭和20年10月16日、シベリア抑留を閣議決定していたことも明るみになりました。驚きです。
日本政府は国民にその事実を隠してしまった。シベリア抑留日本人は国家による「棄民」ともとれるものです。

 

 

【写真】面高春海画伯の作品。

 

告発 シベリア抑留―国民に隠された真相
松本宏(シベリア抑留者)著
碧天舎

 

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